東京スカイツリーへ・・・宝石のような夜景。

2013年08月30日 04時23分07秒 | 旅、風景写真
娘とふたりでスカイツリーへと行く。さながら宝石箱のような美しい夜景、そして技術の粋を集めたこのタワーに酔いしれた。
いろんな方がこのプロジェクトに参加されたと思うが、私が一番凄いと思ったのは、鳶さん・・・。頂上で634m。こんな高いところで作業するとは・・・。

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これからいよいよ・・

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近くで見ると、スカイツリーの一変は約68m。その大きさにビックリ。

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シースルーのエレベーター。地上から東京スカイツリー天望デッキには 4基(分速600m、約50秒)ある。

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翌日は、眼下の隅田川で遊覧し、隅田川に架かる橋見学。

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東京スカイツリー天望デッキで約2,000人、ここ天望回廊 約900人が収容できるとのこと。

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地上450メートルからの眺め、何万ドルの夜景だろうか・・

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地上450メートルから眼下を望む。怖さ

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地上450メートルからの眺め


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54回目の誕生日

2013年08月20日 18時13分07秒 | のほほん日記

今日は、54回目の誕生日。本当に一年は早いと思う。考えてみるとよく働きよく遊んだなと思う。
いろんなイベントも会合も、楽しい。いろんな人と出会えることも・・・。
50歳を過ぎて、楽しいことが増えたように思う。特にブログを始めて、日々の想いや出来事をまとめたりする中で、じっくり自分自身を振り返る機会も増えたように思う。ブログ健康法かもしれない(笑)

朝8時。母からメール。8時ちょうどというのが母らしい。


お誕生日おめでとう

早いものですね
54年前を思い出しました
あんなに小さく生まれた可愛赤ちゃんが、立派に成長して、感無量です

努力家の浩君、良く頑張ったね
母ちゃんはとても嬉しいですよ。
これらも前向きに良い人生を送れますように頑張って下さい
浩君の健康と幸を祈っています。

母より


いろんな想いを感じながら、昼に母へ電話。
すると母は、今日はお前が生まれて日のことを色々と考えていたよ・・と話してくれたそして、「お前が夜泣きして父がアパートのまわりをおんぶしてくれたこと。生まれたのは、4時45分。朝日の昇る時に生まれたから「この子は幸せになる」と女医さんが話してくれたこと。8月24日に病院を退院したことなど・・。

お前が優しいのは、いろんな苦労をしているからだと思う。母ちゃんは何も言わないけれど、わかっているよ・・と話してくれた。そして、最後にお前や家族、孫の幸せが、母の幸せだとも。

毎年、こんなやりとりが続いているが、若い頃にはなかったことばかり。今だから言えることもある感じる。
歳を取るのはいいことだと改めて感じた54回目の誕生日だった。

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次女、フランスで就職が決まる!

2013年08月11日 19時08分41秒 | 家族、仲間の話題
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(次女の務める美容室)

今年、5月に日本からフランスに渡り、求職中の娘が、美容室に就職が決まった。渡仏前、美容師の仕事をしたい・・と願っていた娘は、フランスに知人はいるもののアテがあった訳でもない・・。まずは飛び込んで・・ということだったので、本当におめでたいことである。まさに奇跡的。


中学時代から美容師に憧れ、専門学校にて18歳で美容師の資格取得し、地元の美容室に就職したものの、約2年間技術の指導がなく、挫折していた。
朝8時から深夜まで数年間頑張ったのにね・・。そして昨年の春、少し美容の世界から離れてみると、外国へ行くことを決意。姉の知り合いがフランスにいることもあり、1年間アルバイトで資金をつくり、今年の5月渡仏した。

次女はアルバイトをしている中で、「やはり美容の世界に戻りたい」と気づいたようだった。それにしても、偶然とはいえ、強い願いが叶うものだと、娘の体験を通じて知った。親も頑張らんとね・・・。

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守田さん石橋写真集へのメッセージ

2013年08月10日 15時15分48秒 | 家族、仲間の話題

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(写真は、私が手作りし、提供したポスター)



川風に 浴衣姿の 肩車
 暑い夏の夕刻、ちょっと家から涼みに出た川辺を歩く親子・・・。ノスタルジックな風景と共に橋を想起させてくれる、好きな句のひとつである。

 「橋」は交通の利便性のみならず、地域の景観の一部であり、地域のシンボルでもある。特に石橋は地域の貴重な歴史遺産であり、その佇まいは多くの人のこころをとらえてやまない。

 私達、宮崎「橋の日」実行委員会は、「橋」を通じて豊かな街づくりに貢献することを目的に「橋の日(8月4日)」を制定し、橋への関心を高め、地域づくりにつなげようという活動をしている。この活動で知り合ったのが守田さんご夫妻である。毎年橋の日のポスター写真の選定や貴重な写真の提供をいただき、大変お世話になっている。

 守田さんご夫妻は、おふたりで写真を撮影されている。最初はご主人が、そして奥様もその魅力に惹かれてカメラを手にされたと聞く。今ではご夫妻揃って、コンテストに出品して賞を重ねるライバルでもある。そんな守田さんご夫妻と知り合ったきっかけは、3年前に開催された石橋の写真を集めた個展会場だった。

 その時の石橋の写真は、九州管内はもとより国内各地で撮影したものだった。交代で運転する車中に寝泊まりし、シャッターチャンスを狙う。そうして撮影された写真は、ご夫妻の写真に対するポリシーや、構築した独自の視点、人や橋に対する愛情、熱く深い心づかいまでが伝わってくるものだった。

 以前、「橋の日」活動で必要な写真撮影をお願いしたところ、その日の夕方には「撮れたよ」と連絡があり、自宅から30キロも離れた宮崎市内まで届けていただいた。目をキラキラさせながら撮影の様子を話してくださる守田さんご夫妻にふさわしい言葉、それが「生涯青春」である。おふたりの好奇心いっぱいのこころの若さ、写真への情熱はますます輝き続けていて、お会いするたび、写真を拝見するたびに、元気をいただいている。

 これからもさまざまな写真を通して、私達に愛や感動を伝えて欲しいと願っている。

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とんところ地震の紙芝居(その2)

2013年08月04日 05時33分34秒 | 8月4日は「橋の日」記念日!
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5、はなちゃんが神社に着いたころ、ようやく大きな揺れは収まってきました。
まわりには、何人もの人たちがいました。


「早く夜が明けるといいのに。お父さんたちも早く来てくれたらいいのに」
息が切れて座り込んでしまったはなちゃんの耳に、海の方から気味の悪い音が聞こえてきました。


ごぉーっっ


立ち上がって見ると、月明かりが照らし出していたのは、見たこともない大きな壁でした。
いつもは海が見える方向から、その壁が動いて来るのがわかりました。


ごぉーっっ

バキバキ

ごぉーっっ



大きな壁に見えたのは、地震によって起きた大きな大きな津波でした。
津波は、松林も、川も、田んぼも、家も あっという間に飲み込んでいきました。


「お父さん、お母さん! おじいちゃん、おばあちゃん!」
思わず家の方へと走り出そうとしたはなちゃんを、顔見知りのおじさんが止めました。
「行っちゃいかん。ここで待つんだ」

津波はもう、村中(むらじゅう)を飲み込んでいました。


はなちゃんは、村の人たちと一緒に、神社の境内で夜を明かしました。
大きな地震が収まってからも、何度も小さな地震が起き、そのたびに、恐ろしくて震え上がりました。
そして、お父さんたちのことが心配で、心配で、たまりませんでした。



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6、夜明けが近づいて、あたりがうっすらと明るくなってくると、一面が海のようになった村が見えてきました。
家があったあたりも、何も無くなっていました。


遠くで、人を探す声が聞こえ始めました。
「おーい、タロウやーい」
「おーい、ジロウやーい」


はなちゃんも みんなを探しに行きたくて、じっとしていられなくなりましたが、
「もう少しここで待ってみよう」
と 思いました。
はなちゃんが裏山の神社にいることを、お母さんは 知っているからです。



朝日が神社に差し込んで来たころ、坂道を上がってきたのはお母さんでした。


「おかあさん!」
はなちゃんはお母さんに抱きつきました。
「ああ、はな。よかった。怖かったろう。どこもケガはしていないかね」
「うん、大丈夫」
お母さんの着物はずいぶん汚れていましたが、お母さんもケガはしていないようでした。
「お父さんたちは大丈夫?」
「おじいちゃんとおばあちゃんは、お母さんと一緒に裏山に上がったから大丈夫。お父さんは、おじいちゃんたちを助けたあと、村の人と一緒にほかの人たちを助けに行ったんだよ。きっとどこかに逃げて、みんなを探しているかもしれない」
はなちゃんも、きっとそうだと思いました。


はなちゃんは、神社の境内の湧き水を汲んできて、お母さんにあげました。
お母さんが、「ありがとう。元気が出たよ」と言ってくれたので、さっきまで不安だった気持ちも吹き飛びました。



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7、それから、はなちゃんとお母さんは、おじいちゃんおばあちゃんを迎えに行くことにしました。お母さんたちが逃げた場所には、水が無かったからです。


「おじいちゃん、おばあちゃん!」
はなちゃんが元気な声で呼ぶと、ふたりは立ち上がって迎えてくれました。
「よかった、よかった」


みんなで神社に戻ると、そこにお父さんがいました。村の人たちと地震でつぶれた家の人を助けているところへ津波が来て、命からがら逃げることができたそうです。
「よかった、よかった」。おじいちゃん、おばあちゃんが言いました。
はなちゃんも嬉しくなって「よかった、よかった」と言いました。



はなちゃんの家があったあたりは すっかり変わっていました。
たくさんの家が壊れたり、流されたりしました。
田んぼも畑も、津波に流され、泥に埋まっていました。
橋は壊れ、道路もありません。


地震のあと、すぐに高いところへ逃げた人は無事でしたが、逃げ遅れて津波にのみこまれた人がたくさんいたそうです。


大人たちが話をしていました。
「この村の周辺7里35町が沈んで、海になってしまったよ」
「堤防が13カ所も崩れてしまったそうだ」
「田んぼも すっかりだめになったなあ」


海になった「7里35町」とは、今の単位だと周囲35キロメートルになります。

「内藤藩では57のまちが海に沈んだそうだ」
「高鍋藩、飫肥藩では、お城の石垣が崩れたそうだよ。お城が壊れるくらいだから、おれたちの家なんかひとたまりもないな」
内藤藩は今の延岡市、高鍋藩は高鍋町、飫肥藩は日南市。県内のあちこちに広がる大きな被害でした。



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8、あの地震から50年が過ぎ、村の集まりで、地震のことを忘れないよう石に刻んで、お祈りをすることになりました。


はなちゃんは、かわいい孫がいるおばあちゃんになっていましたが、地震のことを思い出すと、いつも胸が痛くなりました。


はなおばあちゃんは、地震の教訓を子どもや孫たちに何度も話して聞かせました。
「大きな地震の後に、大きな波が来る。それを決して忘れてはいけないよ。地震が収まったら、ひとりですぐに高いところへ逃げるんだ。生きていれば、みんなまた会える。
それから、寝る前に着替えと、はきものをそろえておくんだよ。いざという時の助けになるからね」



何度も大きな地震と津波の被害を受けた東北地方には、「津波てんでんこ」という言い伝えがあります。
津波が来たら、取る物もとりあえず、各自てんでんばらばらに一人で高台に逃げる。「自分の命は自分で守れ」という意味です。はなおばあちゃんの話もそれと同じでした。


やがて記念碑ができあがると、村の人たちが集まって、みんなで手を合わせました。



村の人たちは、その後も50年ごとに、新しい記念碑を作りました。
現在では、地震から350年が過ぎ、記念碑も7つになりました。


時代が変わり、どんなに科学が進んだとしても、地震や津波が起きないようにすることはできません。
とんどころ地震の記念碑は、地震があった記録だけではなく、
「命を守るためにできること」を、私たちに教えているのです。(終わり)


>>>とんところ地震の紙芝居(その1)に戻る




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