あしたのタネをまく、アシタネブログ!

今日よりちょっといい、明日にしませんか

企画展「成田亨 美術/特撮/怪獣- ウルトラマン創造の原点」(再掲)

2022年12月17日 17時51分22秒 | 出会いと経験



「ウルトラマン」シリーズなどで個性的なヒーローや怪獣、メカなどをデザインした成田亨(なりたとおる) の初期から晩年までの創作を網羅した企画展「成田亨 美術/特撮/怪獣- ウルトラマン創造の原点」を先月、観に行った。成田亨はウルトラマンのデザイナー。本業は彫刻家。

ちらしの紹介文を転載し概要の説明としたい。
「成田亨(なりたとおる 1929~2002 青森県出身)という芸術家をご存じですか。ウルトラ怪獣のデザイン画を描いた人、といった方が分かりやすいかもしれません。彼は武蔵野美術大学で絵画、彫刻を学んだ気鋭の彫刻家でした。同校在学中にアルバイトで映画「ゴジラ」(1954年)の制作現場を手伝ったことをきっかけに、彫刻制作の傍ら特撮映画の世界にも身を置くようになり、1966 年から68年にかけて制作・放映された特撮テレビ番組「ウルトラQ」「ウルトラマン」「ウルトラセブン」では、主人公の超人、宇宙人、怪獣、そしてメカニックやセット等のデザインを一手に引き受けます。「ガラモン」、「ウルトラマン」、「バルタン星人」などのキャラクターが誕生して半世紀が経過しようとしていますが、それらは世代を超えて今も親しまれています。それは、彼が芸術家として吸収した同時代美術や西洋モダンアートにより培った造形センスを惜しみなく怪獣デザインにつぎ込んだからに他なりません。

しかし、そうした特撮関連の仕事に注力する一方で、成田の絵画や彫刻への情熱はむしろ高まります。多数の油彩画、水彩画を描きながら、彼は古今東西のモンスターへの関心を深め、モンスター関係の作品も数多く制作しました。それは1990年制作の巨大彫刻「鬼モニュメント」(京都府福知山市)に成就しました。
成田亨と言えば、これまで「ウルトラ」の仕事ばかりに注目が行きがちでしたが、本展では、成田亨という1人の芸術家が歩んだ軌跡を多彩な内容でお届けします。青森県立美術館所蔵のウルトラ関係デザイン原画187点をはじめ、「ヒューマン」、「バンキッド」など特撮関連のデザイン原画や未公開の怪獣デザイン原画、手元に遺した絵画、彫刻、そして本展のために再現された特撮セットも加えた総点数700点により、非凡なる才能を秘めていた奇跡の芸術家の知られざる全貌に迫ります。

展示作品数が多いのでどうか時間に余裕を持ってお越しください!」



回顧展で紹介されていた本や紹介文の一部を3テーマ掲載します。

デザイナーについて
デザイナーというのは忙しくなれば、モノを考える事もモノを探すヒマもありません。ただ目先の処理で一杯になってしまうのです。だからヒマな時に自分の引き出しを一杯にしておくのです。ヒマな時というのは必ずお金がありません。無くても無い中で何とか苦面(ママ)して引き出しをふくらませるのです。ヒマな時に引き出しに何をしまったかが、それ以後のデザイナーの価値を決定します。(続く)



(続き)
私は群れを作っての飲み歩きとか、麻雀とか、殆どしません。ヒマなときは引き出しを開けて、何時役に立つか判らないこういう資料を開けて、一人でニタニタしているのです。暗いのです。(以上)

これはデザイナーというより、仕事師として大切なことだと思う。アイデアの引き出しは多い方がよい。その引き出しをつくるのは普段の努力しかない。
芸術家であり、そして哲学の人でもある成田了氏。学ぶべき点が多い。



成田亨の人間観
私は、人類は進歩しないものだと思っています。進歩しないで変化してゆくものだと思っています。職を求める為に働き、恋に喜び、失恋に泣き、友と語り、嫌な奴と働き乍ら、一人一人は成長してゆきますが、人間そのものはメソポタミアの文明開化以来同じことをくり返しています。(続く)



(続き)
 しかし科学は進歩します。日進月歩、昨日のものは無価値です。科学技術の進歩は生活を変えます。革新的な技術の発達の中で、人間は人間全体の発展進歩だと錯覚して、ボケてゆくのです。営々として生きる本来の人間の姿を忘れてゆくのです。



(会場入り口付近の様子。受付隣のモニュメントが印象的)

怪獣のデザインについて)私は人間は進歩するものだと思っていません。人間は進歩はしないで、変容してゆくのだと思っています。
変容してゆく人間の本質って何だろうか? 私には判りませんが、人間の本質とか人間と自然が滅ぼした動物のことなどを考えながら、私は怪獣デザインをします。

ウルトラ怪獣のデザインをするに当たって、3つの規範を定めました。

1 怪獣は怪獣であって妖怪(お化け)ではない。だから首が2つとか、手足が何本にもなるお化けは作らない。
2 地球上のある動物が、ただ巨大化したという発想はやめる。
3 身体がこわれたようなデザインをしない。脳がはみ出たり、内臓むき出しだったり、ダラダラ血を流すことをしない。

「どんな困難に遭っても健全な子供番組を作るためには、この3原則だけは守ろうと思いました」と記載されている。

ウルトラマンの看板に見せられて入った美術館。得るものが多かった回顧展である。次回は今秋、青森県立美術館で公開予定とのこと。


グアム島での不思議な体験(終戦記念日に思う)

2021年08月15日 05時49分49秒 | 出会いと経験



今から38年前、総理府「第18回青年の船」に乗船した。この不思議な体験は、この青年の船に参加した時の出来事である。ちなみに私が参加したこの青年の船は、日本の青年269名、オセアニアの10ケ国の招聘青年38名、合計307名の団員を乗せ 昭和59年1月26日に東京港を出航。



50日間にわたり、オーストラリア・ニュージーランド・トンガ王国・西サモアを訪問し3月15日の帰国まで、自己開発、リーダーシップから国際関係にいたるまで幅広い研修がおこなわれた。船内で生活を共にした外国人青年達と、言語・宗教・民族を越えた人間的共感によって結ばれたことも、この船ならではの成果だった。



前置きが長くなりました。長い船旅。日本への帰途、給油のため立ち寄ったグアム島は、年間100万人が訪れる観光地。面積は日本の淡路島とほぼ同じ大きさ。給油に合わせて1日の休日が与えられたため、どう使うかと思案。自分らしく思い出になることをしたいと考え、ゴミ拾いボランティアを計画した。

他の団員は、サーフィンやショッピングと楽しい思い出づくりをしているなど、内心羨ましく思いながらも、ひとりで船から市街地中心部までの片道分のバス料金をもって出かけた。午前11時、準備したごみ袋5枚も90分程で終了した。それから、船へ歩いて帰ることにした。

そこで不思議なことが起こった。道で50セント硬貨を合計7回拾うのである。最初は、偶然かと思ったが、船への帰途に出会った4名の団員たちも探しているのもかかわらず、私だけ拾った。当時の50セントを当時のレートで換算すると、125円。合計で、900円ほどになる。そのお金で皆さんに飲み物をご馳走しようと、通りがかりの食料品店に立ち寄った。何故かそこで店主と話が弾み、最後に戦争の話となった。

当時、店主が17歳。戦時中でこの島で、日本軍との戦いで親を亡くしたこと、友人が目の前で死んだことを話し始めた。話を聞くうちに、個人としての立場ではなく、青年の船でこの国に立ち寄った日本の青年としての立場で聞いている自分に気づいた。

いろんな思いが駆け巡った。結果的には聞くことしかできなかった。硬貨を拾い、何かに引き込まれるようにお店で入って導かれるように人に出会う。これも何か意味があったのだと。



上記写真は、激戦地硫黄島で弾丸を受けたため、生々しく変形した山々で「バンザイクリフ」と呼ばれる崖。戦時中追いつめられた日本人2万5千人の人達が自決した場所といわれている。

その時、その場にいた人達の心理状態を考える時、今の私たちはなんて幸せなんだろうという気持ちになる。これまで「戦争」という言葉は聞いていた。しかし初めて自分なりに理解できた気がした。

日本への帰国が近づいた3月12日。船上で行われた戦没者慰霊祭では、グアム島での出来事を通じて、その意義・意味を少しでも理解しようと努めた。「死」という手段を選ばざろう得なかった人たち、戦争の犠牲者。死というひとつの真理の前に戦慄に震えた事だろう。

私たちと同世代の人たちも多くいたと聞き、酒もタバコも、欲しかっただろう。そんな気持ちが心の中を駆けめぐった。そこで私は、一本のタバコに火を付け海へ投げ手を合わせた。それを見た団員たちも心が通じたのか何も言わす、海へタバコを流してた。



帰国後、しばらくして、この硫黄島での出来事を数人へ伝えた。ある方にこう言われた。「私は戦時中、軍医をしていた。生存者がいるのにも関わらず、ある国の戦車が医療テントを潰していくのを目の当たりにした。君ならどうする?」私は、「家族や仲間を守るために戦うかも知れません」と答えた。すると「それが戦争なんだよ」と。

最初は、小さなことでも、それが憎しみの連鎖を産む。それが戦争へと繋がるのだと。だから小さなことと言えども、おろそかにしてはいけないよと話してくれた。

ユネスコ憲章(前文)にこんな言葉がある。
「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない。(以下略)」 

仮面ライダー1号、藤岡 弘さんとの思い出

2019年01月29日 04時47分47秒 | 出会いと経験

 10年ほど前のこと。宮崎市内に残る築300年の民家、福島邸が取り壊されるため、関係者の一人としてMRT宮崎放送局の番組「わけもんGT」の取材を受けた。

 番組を担当するのはメインパーソナリティは藤岡 弘、さん。私達の世代からするとあこがれのヒーロー。仮面ライダーの1号で変身ブームの先駆けだ。当時私は小学生で、自転車をバイクに見立てて、ずいぶんと野原を駆け回ったひとり。


 藤岡さんは、番組収録中もそしてオフの時も変わらない木訥で印象。また、内面に熱いものを秘めた方だと感じた。一方、藤岡さんからは「僕は、ダメんライダーだったんですよ」と話されたことが印象的だった。

 どうして”ダメんライダー”・・・。聞き返す勇気もなく、ひとり想像にふけった。その後、ウィキペディアでを閲覧したところ、壮絶な人生をおくられていることがわかった。


失敗、挫折、傷があるも、こうして人気を博している。諦めない限り、道は開ける、そんな藤岡さんの生き方を垣間見たように思う。

映画『ボヘミアン・ラプソディ』に関するビデオ、NHK単独インタビュー他。

2018年12月28日 06時32分46秒 | 出会いと経験

感動をありがとう!「ボヘミアン・ラプソディ」YouTubeと記事を紹介したい。

映画『ボヘミアン・ラプソディ』特報

5月15日に公開された「ボヘミアン・ラプソディ」の予告動画

映画『ボヘミアン・ラプソディ』最新予告編が世界同時解禁!

7月17日に解禁された「ボヘミアン・ラプソディ」の予告動画


NHKで紹介された単独インタビュー記事
■クイーン単独インタビュー【前編】Click→ ロジャー・テイラーさん
■クイーン単独インタビュー【後編】Click→ ブライアン・メイさん


■Queen - Live at LIVE AID 1985/07/13 [Best Version]


紙芝居上演研修会へ参加。表現技術に感銘。

2018年12月27日 05時12分22秒 | 出会いと経験

12月15日(土)都城市の紙芝居まねきねこの研修会に、所属する宮崎「橋の日」実行委員会1名とふたりで参加した。講師は、童心社会長で、紙芝居文化の会統括委員 
酒井 京子さん
。東京から来県された。紙芝居上演を続けて、7年目。学び直してみようと参加した。

紙芝居の内容は物語完結型と観客参加型の2種類がある。物語完結型は読んで字の如く、紙芝居でストーリーが進んでいくもの、一方観客参加型は、紙芝居の読み手と視聴者が、物語の中で対話しながら進められていくもので、たとえば演者が「このくだものを受け取ってくださいと、絵を見せてお客様に向け、投げるポーズをとり、受け取った観客はそれを受取、食べる」という動作をとりながら、共感の場をつくるというものだ。

また、紙芝居は日本独特の文化で、現在51ヶ国に広がっているとのこと。その魅力についてこう記載されている。
・画面が現実の空間に「出ていき」
・作家の世界となって「ひろがる」中で
・「作品への強い集中」と
・臨場感の中でむかいあうことによっておきる「コミュニケーション」が
・演じ手と観客・観客相互の作家の世界への「共感」をつくりだす。
・観客はこの「共感」によって作家の世界を自分自身のもとのとし、
・その喜びが「共感の感性」を育んでいく:紙芝居共感のよろこび(まついのりこ著より)

午前中は、講義。午後からは6人の紙芝居を上演しながら、アドバイスをおこなうという形式でおこなわれた。
初めて経験した顧客参加型の紙芝居。やってみると不思議な一体感が感じられ、その魅力を感じることができた。日本語の響き、紙芝居を抜き差しするときの微妙な間の取り方など、臨場感あふれる演技なのだと感じた。

それは、漫才などと同じような世界であり、現在活動している紙芝居だけでなく、講演活動やライブ活動に活かせるものだと思った。これらは、ともに何かを伝えるコミニュケーションであるが、伝えることよりどう伝わったかが大切であることから。発信者側の力量やエネルギー量が問われる。

最後に酒井さんから「今の時代、先進国のこどもはコミュニケーション力が弱くなっている。よって子どもにとって生き抜くことは大変な時代である。だからこそ、紙芝居を通して、コミュニケーションの体験をして欲しい」と結ばれた。


湘南ベルマーレ優勝の影で

2018年10月28日 04時48分15秒 | 出会いと経験

10月26日、朝のテレビで、ルヴァン杯の解説をおこなっていた。その中で、湘南ベルマーレのメンバーひとりひとりの食事を含めた健康管理やトレーニングなどが紹介され、調子のあがらなかった選手も、復帰が早く対応できた例などが挙げられていた

そんなこともあり、その試合結果が気になっていたところ、なんと初めて進んだ決勝で横浜F・マリノスを10で破った。

資料を読むと、1968年に藤和不動産サッカー部として誕生し、今年は50年目だという。この間、スポンサーである藤和不動産が撤退。若手を育て、その伸びしろにかける方針へと転換したが、ようやく育った若手の逸材は、他クラブの目に留まり選手が引き抜かれていくなど、さまざまな苦労を重ねた。

その後も、「走る湘南サッカースタイル」、サブと主力の区別なく、プロ1年目でも活躍する舞台が与えられるクラブづくりを堅持し続けた湘南ベルマーレ。

湘南の真壁潔会長(58)は「目標を決めて、しっかり宣言すると、うちみたいにコツコツやっている選手がいるところに、神様はその目標に近づくようにしてくれているんじゃないかな」としみじみ話したという。

その背景に、人づくり組織づくりの考え方を垣間見ることができる。公式ホームページには私たちの使命として、こう記されている。(以下ホームページより転載)

夢づくり 人づくり」
世代と地域をつなぐ総合型地域スポーツクラブとして、チャレンジする人の成長を支え、夢と感動を提供する。

また、クラブスローガンには、
「楽しめてるか」
私たち湘南ベルマーレの使命。それは、世代と地域をつなぐクラブとして、チャレンジする人の成長を支え、夢と感動を提供すること。年齢や立場の垣根を越えた、純粋なキモチを応援するために。誰かに話したくなるような感動空間を生み出すために。私たちは、どんな時でもスポーツを「たのしめてるか。」を大切にします。

詳細は、「ミッションステートメント」。

一方、組織として強靱な裾野を持っていることも大きな理由だと感じる。公式ホームページの紹介文を転載したい。

ベルマーレの概要
2002年4月、湘南ベルマーレの活動の更なる充実を図るため、株式会社湘南ベルマーレに加え特定非営利活動(NPO)法人湘南ベルマーレスポーツクラブが新たに誕生し、サッカーだけに留まらない様々な活動をスタートさせました。

発足から15年以上が経過した現在、株式会社湘南ベルマーレはサッカーのトップチーム、U-18、U-15の活動を管轄し、NPO法人湘南ベルマーレスポーツクラブではビーチバレーチーム、トライアスロンチーム、フットサルチーム、サイクルロードチーム、そしてラグビーセブンズチームの活動をサポートしています。またNPOではサッカースクールの他、各種競技の普及活動を幅広く展開しています。
湘南ベルマーレスポーツクラブはヨーロッパの総合型地域スポーツクラブのように、多種多様なスポーツをホームタウンの人々が気軽に楽しめるスポーツクラブづくりを目指し、また各競技チームに所属する選手たちは世界の舞台を見据えて日々励んでいます。

このスポーツクラブから育った選手が、世界の舞台で活躍することが、私達湘南ベルマーレの大きな願いです。

以上、たゆまぬ努力を続けた湘南ベルマーレに感動。少子高齢化や国の借金、さまざま事件事故など、暗いニュースが多いなか、少しオーバーかもしれないが、日本もまだ頑張れると夢と希望をもらった出来事だった。高校時代3年間だけだがサッカーに熱中した私
。ひさしぶりに熱い血が騒いだ。


邦画「母と暮らせば」で監督の言いたかったこと

2016年01月22日 05時37分18秒 | 出会いと経験


先日、邦画「母と暮らせば」を観に行った。この映画は、終戦から70年。山田洋次監督が、作家・井上ひさしさんの遺志を継いでつくる「どうしても遺したい」物語とのこと。松竹120周年記念映画である。

この物語は、母信子(吉永小百合)と原爆で死んだ息子:浩二(二宮和也)とのやりとりを通して、家族や戦争、愛情などを描いた作品。1948年8月9日、長崎で助産婦をして暮らす伸子の前に、3年前に原爆で死んだはずの息子・浩二が現れる。2人は浩二の恋人・町子の幸せを気にかけながら、たくさんの話をする。

映画を見終えて、戦争の悲惨さ、死んで行った人の気持ち、残された人の気持ち、人間の業の深さを自身の身に置き換えた。映画を観ながら、愛する家族を別れるというのは、本当につらいものだと、言葉のやりとりから痛感した。また、浩二と町子の切なく、悲しく、微笑ましい恋物語も。一方、戦後の暮らしぶりが丁寧につくられた映画セットや方言などから感じ取れた。

途中、母信子が浩二に、町子がこのままひとりでいることは、本当に良いことだろうか?と話すが、浩二は認めない。しかし、最終的に浩二が出した答えは、「原爆で亡くなった何万人の人々に代わって、町子は、幸福になってほしい」と、いうものだった。

この映画では、戦争でなくなっていった人達の願い、戦争を経験した人の願いを現代の私達に伝えたかったのではと私は思った。
苦しいことがあっても、「生きて生きて、幸せになって欲しい」と。


ブリスベーン港での思い出

2015年09月17日 19時47分39秒 | 出会いと経験



この写真、日本の和室のようだけれど、オーストラリア、ブリスベーン港に停泊中の商船三井「にっぽん丸」の和室での一枚。

私は、23歳の頃、総務庁(現在総務省)「青年の船」事業に参加した。日本人団員307名、各国からの招聘青年50名が、ひとりひとりが自ら各種の研究テーマを設定し、船内における研修や寄港地での視察、交歓会などを通じ、そのテーマを追求し学んだ。

日程は、昭和59年1月26日東京港を出航し、50日間にわたり、オーストラリア・ニュージーランド・トンガ王国・西サモアを訪問し、3月15日帰国。

その当時、私は延岡ローターアクトクラブに所属し、地域づくりやボランティア活動、リーダーシップトレーニングなどの活動をしていた。世界各国にも同クラブが活動しており、10万人の会員がいたと記憶している。この旅を通して、同じ活動をするオーストラリア、ブリスベーン地区メンバーに、会ってみたい、そして話したいとの思いから、初めてのエアメールを送った。

英語が堪能でもなく、想いが強いだけの私だったが、気持ちが通じたのか、面会の約束をいただいた。
2月8日、ブリスベーン地区メンバー代表10名と、私が船内で呼びかけて集まってくれたメンバーが食事を共にし、船内にて多くの語らいが出来たことが今でも記憶に焼き付いている。

特に地区代表クレイムさん(左下)とは、「これからも自分達の住む地域をより住みやすい街にしよう」とお互いに語り合った。たとえカタコトの英語でも、伝えたい何かがあると通じると、この旅で知った。


(相変わらずおバカな私です)

音楽が好き、それだけの私が、多くの先輩に引き上げられて、社会奉仕活動に参加することができた。また、ロータークラブ活動やこの青年の船活動などを通して、果てることのないエネルギーをもらったように思う。そして以後30年間さまざまな活動が続けることができ、家族にも感謝している。

これからも、お世話になった方々へ恩返しのつもりで、後輩や仲間の役にも役立てるよう楽しみながら活動を続けていかんとね。


もうすぐ、81歳でもなお元気。活力ある人の魅力。

2015年09月01日 21時52分59秒 | 出会いと経験

ここ10年余り、親しくさせていただいている方と先日、宮崎観光ホテル「汐彩」で、昼食を一緒にした。 80歳を過ぎてもなお、仕事への情熱が熱い。どこからこのエネルギーが湧いてくるのだろうかと思う。



(汐彩でのランチ)

私の父と同じ昭和9年生まれの80歳。ふたりとも今年81歳となるが、勢いは衰えていない。ふたりに共通するのは「元気な体」、「仕事を楽しんでいる」こと、そして「人間関係が豊か」「好奇心がある」こと。それと、年齢を重ねても「オシャレ」であること。うちの親父も、ちょっと外出するのでも、キチンとして出掛けるし、家の中でも無精ヒゲ姿で見たことがない。偉いと思う。

あと25年で同じ年になる。どんな80歳になっているのだろうか?どんな生き方を過ごしているのだろうか。

人生は長さだけではない。イマ・ココの時間の積み重ねが未来をつくるのだと思う。



(あいにくの雨空でした)


3回、恐竜の食べられそうになった。

2015年08月20日 18時14分03秒 | 出会いと経験



8月19日(水)ジュラシック・パーク(3D字幕版)を観に行った。座席は前列から3列目の中央。
大きなスクリーン。迫力ある音響で、恐竜同士の格闘シーンでは、身体が揺れる程の音圧で、臨場感がビンビン伝わってくる。
3回程、恐竜に襲われ、冷や汗をかいた。まるでジェットコースターに乗って遊んでいるようだった。

恐竜も恐いけれど、人間の業の深さを改めて感じた。利益のためなら、人間なんでもするんだなと改めて思わせる場面もあり、LOVE、企業倫理や生き物への愛情、エゴなど、いろんなエッセンスが散りばめられた最高の娯楽作品だと思った。

エンドロールで、数人の日本人の名前がでており、なんだかとてもうれしい気持ちになった。映画が終わって自宅に帰りついたのが、12時過ぎ。こんな日を時々経験するのもいいことだと思った。


Cool&Beauty_堀北真希

2015年03月01日 06時02分28秒 | 出会いと経験



2月21日(土)毎日放送「サワコの朝」に女優堀北真希さんが出演。街角でスカウトされたこと、デビューまでの様子などを聞いた。特に役者として演じることについては、自分が感じて演技するのではなく、人が見てどう感じる演技を目指している。自分のボルテージで演技するのではなく、これ位怒ったら、これ位に見えるということを意識して演技しているという。

その言葉を裏付けるように、日常では「人間観察」をしていると話していた。そんな積み重ねで、豊かな演技ができるのだと思った。その他にも役者として背負う「責任」という言葉や、自分の幸せのために動く、自分のために決断するという言葉、「こころを修める」という言葉の中に、彼女の強さを垣間見る思いがした。

そして冷静さ。こころの中の悩みを顔に出すことはしないという。顔に出しても相手に不快な想いをさせるだけと、さらりと言ってのけるところが凄いところだと思う。
最後に体調管理について聞かれると、「ここまでやってきたら風邪はひかない」と言い聞かせていることから、かなり努力をされていることを感じた。プロとしては当たり前のことなのだけれど、言葉で表現できる位に徹底していることだと理解した。

これからも活躍してほしい女優である。


気持ち良い接遇マナーに感動!

2015年02月02日 22時16分25秒 | 出会いと経験



2月2日、週末に福岡へ行くため、JRのキップを購入に宮崎駅へと向かった。お昼時間が終わりに近づいた頃、窓口に着くとふたりの女性が笑顔で迎えてくれた。

「宮崎空港までの時刻を知りたい」と告げると、小走りで時刻表をロッカーから時刻表を取り出してくれた。そして、予約したいとお願いすると飛行機へのアクセス時刻について、いくつかの案を出してもらい乗車時刻を決めた。

その後、乗車チケットを発行していただく際、太いサインペンでチケット袋に時刻を記載し、指先でチケットの時刻を示して説明してくれた。その後、領収書についても記載内容を指で示して、チケットホルダーに封入してくれた。

とても親切で、良い気持ちになった。相手の立場に接客する。言葉では簡単だけれど、実際には形式的だったりする。今回は、不安な気持ちを理解した応対だったと思う。

私も窓口対応の仕事をしており、改めて窓口業務の大切さを実感した。自分を客観的に眺め、気持ちよいサービスができるよう頑張りたいと再認識した。
どんなサービスの評価はお客が決める。そのことを意識してGOOD JOBを目指したいものです。


東海中学校、昭和50年卒業生同窓会へ参加。

2015年01月04日 12時12分57秒 | 出会いと経験



(今回の同窓会幹事、3年6組のメンバー)

2年に一度開催されている中学校の同窓会。今回は2015年1月2日18:00よりキャトルセゾンマツイにて開催され、参加した。参加者は約50名。
毎回、クラス毎に幹事となり運営している。ちなみに今回は3年6組。同学年は7組まであり、卒業生は280人余り。



今回は、お世話になったO先生が亡くなり本当に残念だった。卒業後も勤務する中学校やご自宅へも遊びに行ったことがある。
同級生も14名もなくなっていることが報告された。中学時代の元気だった笑顔が思い出される。



恩師のH先生が手作りしたペンダントを参加者全員にプレゼントしていただいた。
先生は、自作のぬいぐるみなどを製作販売しており、売上を毎年、養護施設へ寄付しており5年前にお伺いした折は100万円を越えているとのことだった。

また次回お会いできる日を楽しみに頑張っていきたい。


理解しやすい説明に感動。谷口尚子准教授。

2014年11月29日 05時49分13秒 | 出会いと経験



(中央が谷口氏)

11月23日に放送されたサンデーモーニングで、東京工業大学谷口尚子准教授が、選挙と経済(景気変動)について説明された。アメリカと日本の選挙を比較しながら、現在日本がどこに位置するのかというもの。

これまで説明されてきた中で、一番わかりやすい説明だったと思う。
司会の関口宏氏が「わかりやすい」と付け加えられていた。

どのような説明が的を得ているかというと、みんなが知っている事と比較し、現象を論理化されたキーワードで説明した。確かに、自分がすでに知っている知識に連動させれば、理解も早い。そしてキーワードを使って展開することで少ない情報量で脳の演算も速くなると思った。つまりたとえ話をつかって、説明するようなものだ。
人にいろんな説明をするとき、上記のようにスマートに展開したいものだ。


「インド国際子ども村 ハッピーバリー」井戸掘りのためのコンサート

2014年11月01日 06時53分00秒 | 出会いと経験

インド国際子ども村代表の大神のりえさんは、設立の理由をこう語ります。UNESCO憲章前文に「戦争は人の心の中に生まれるものだから、人の心の中に平和の砦を作らなければならない」という言葉がありますが、インド国際子ども村「ハッピーバリー」はこの言葉の実現のため、インド南部カルナータカ州に国際子ども村を設立しました。

のりえさんとの出会いは、以前ブログで紹介通り。今回のコンサートは、子ども村に新しく井戸を掘るために計画されたものです。※井戸掘り見学ツアーも企画されていますので、ご興味のある方は、ハッピーバリー事務局:戸高さんまで(0982-21-7494)



(のりえさん。別の会場で撮影した写真です)

のりえさん自身が歌うコンサート。

コンサート会場は、現代ビル1階。16畳程度の場所。午後2時と午後7時にステージ。1回目のステージも会場は満席だった様子。私にとっては、広すぎず狭すぎない、声とピアノの音が響く会場でした。

パワフルで繊細なのりえさんのソプラノ。そして笑いあり涙ありのトークも大盛り上がり。会場をのりえさんのこころ配りが会場内を優しく包む。そんなひとときでした。

終演後、場所を変えてのりえさん他出演者とスタッフの方数人と食事会に参加しました。そして演奏会の感想やインドでの様子を交えて話しました。

特に印象的だった話のは、美智子妃殿下との話。30年程前、のりえさんが総務庁「青年の船」に参加した際、美智子妃殿下とお話する機会があり、美智子妃殿下からメッセージをいただき、約束を果たしたとの話を母校の講演で話したそうです。その講演では、ぜひもう一度お会いしたいと話していたところ、10日後、インドへ帰ったのりえさんに、インドにいらしていた天皇皇后両陛下にインド在住日本人代表のひとりとして、美智子妃殿下との夢への招待状が届き、お話する機会を得たそうです。夢が叶ったようですね。私も以前青年の船乗船前に、皇居で天皇皇后両陛下の謁見しましたが、両陛下にすごいオーラがあったのを覚えています。

のりえさんからは、いつも元気をいただきます。これからも自分と人に尽くしなさいと聞こえるべきないメッセージをもらったような気がします。