アメリカ、ヴァージニア州のヴァージニア工科大学で起きた月曜日の無差別銃乱射は32人が死亡するというアメリカ史上最大の犠牲者を出したと新聞が書いている。
犯人は23歳の同大学の韓国人学生だという。新聞は自分の優位を脅かしそうなものに対する恐怖が走らせた事件だとし、これを機会にアジア系の学生への人種偏見に向かうのではともコメントする。
犯人は凶器の銃を自分で購入して、計画的で強い殺意をもっていたという。警察や大学側の対応の遅れが非難され、銃規制が緩いこと(全米ライフル協会の本部はヴァージニアにある)もあらためて指摘されている。アメリカで銃の犠牲者は年間3万人を数えるが、その中で、1999年4月のコロラド州のコロンバイン高校で起った銃乱射事件、2006年10月のペンシルバニア州のアーミッシュ地区での銃乱射など、学校を舞台にして悲劇が起っているのはなぜだろうか。
記事の横、眼鏡をかけた小太りの気の弱そうな青年が写っている。犯人の写真だ。小学生の時に渡米して韓国籍とアメリカ永住権の両方を保有していたという。友人は少なく静かで控えめな学生だという周りの話。英語という中途半端な専攻。かなりの人数に上る韓国人学生コミュニティの規模。
この事件を読んで、30年前のアメリカ留学時代に同じドーミトリーで寝泊りしたバーニイを思い出した。といっても、彼が殺人鬼だったわけではない。いわゆるスマートなIVYリーガーとは真反対のずんぐりむっくり、眼鏡にはげ頭、若くもない、存在感のないユダヤ系アメリカ人学生だったからだ。
ガールフレンドもいなかった彼。いつの間にかドロップアウトしていった彼の心にあったのは、彼の周りに感じられた解決できない劣等感、抑圧感ではなかったのか。ユダヤ人社会の圧力と過大な期待、落伍者に対する容赦のない指弾。われわれには理解しえないエスニックの壁がのしかかっていたのではないか。自分の優位を脅かそうとするものに対する恐怖ではない。自分の劣位を暴こうとする見えない力に対する恐怖ではなかっただろうか。
火曜日はこんどは日本の長崎で、市長がヤクザの凶弾に斃れて亡くなった。マスコミは暴力団の横暴だと当然のように言い募る。犯人の男の言い分は、彼が起こした事故にたいする長崎市側のいいかげんな対応に腹が立ってしかたがなかったと告白した。ここにも、ヤクザ人間のもつ劣等感、抑圧感が働いてはいないだろうか。
韓国人青年の寮室に残された走り書きのメモには「自分がこんなことをするのはお前たちのせいだ」と書かれていたという。おとなしいねずみを猫を噛む窮鼠にした「おまえたち」裏の力とはいったい何なのだろうか。折から大統領も総理大臣も、あってはならない重大な犯罪行為と、おなじ調子で糾弾した。
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