5522の眼

ゆうぜんの電子日記、2021年版です。

布施のありかた

2018-03-17 21:17:08 | くらし

旦那寺とのつきあいが近頃希薄だ。両親の「弔いあげ」を済ませたから、いわゆる法事をすることがしばらくない。彼岸やお盆も墓掃除だけ。それでも寺側からはいろいろと無心があって、家人がときどき冥加金を届けに出かける。もちろん領収書はなし。

先日は墓地管理料の請求があった。これだけは郵便為替でという指示というのもおかしい。為替手数料はこちらもち。一銭たりと損をしたくないという意思表示だろうか。銀行口座に振り込みも出来るはずだが、寺はイヤらしい。

斯様に「寺は取るだけ」といった金銭感覚というのに良い感じを持てないのは自分だけだろうか。

布施とは「与えること」のはず。もちろん「財施」は金やものを与えることだが、仏の教えを説くことは「法施」だし、災難に遭ったものを慰めるのは「無畏施」だ。「法施」も「無畏施」も寺のすることだろうと思うが。布施は檀家から寺への一方的な流れということになったのはいつのことなのだろう。これが面白くないから、寺とのつきあいが薄くなる。

さて、こんなことを考えたのは、NHKの静岡局が「寺側からの布施」を行おうとしている菊川の寺(尼寺だろうか)のことをニュースで取り上げたからだ。

経済的な事情などから十分に食事がとれなかったり、1人で食事をする機会が多い人たちに、無料や格安で食事を提供しようという取り組みは、菊川の龍雲寺が地域住民と協力して1日限定で開いたイベント。

食堂に見立てた観音堂では、特製カレーライス100食がふるまわれた。訪れた人は100円を支払うか、まかないの手伝いをすればだれでも食べられる。肉の代わりに油揚げを使うなど精進料理のように調理されていてなかなか好評だったようだ。

キリスト教など他の宗教施設なら食事を提供するコミュニティイベントなど日常茶飯なのだろうが、一日限定だとしても仏教寺院が主体的に行ったのは珍しいのだろう。参加者(いわゆる仏教徒)も龍雲寺も「互いに施すこと」の本来的な意味を少し確認できたのなら結構なことだ。

震災があれば寺門を開いて「無畏施」をすべき寺院が、しっかりと門を閉じて、遺骸の回向も、被災者への炊き出しもこころの援助もしないとあれば、寺に頼るものなどない。高額な財施を寺に差し出してわざわざ引導を渡してもらわなくて、あの世に行くことはできるだろう。



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