島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

77-2後白河皇子以仁王

2021-01-16 | 天皇陵巡り
 
 第77代後白河天皇には沢山の妃や、二条・高倉天皇など多くの子もいましたが、天皇に成った子以外、皇后や子供で宮内庁治定陵墓に祀られてるのは以仁王(モチヒトオウ)(1151~1180)のみです。
  写真は、京都府の南、木津に有る以仁王を祀る高倉神社横の、以仁王墓への入り口です(京都府木津川市山城町)
 
 以仁王の母藤原成子(シゲコ)は待賢門院璋子の姪で、後白河天皇の愛も受けて以仁王以外にも、殷富門院の号を持つ亮子内親王(リョウシ)や小倉百人一首の式子内親王(シキシ)など二男四女をもうけていますが、正式な女御にはなれていません。
 
 以仁王は後白河天皇の第3皇子で、その母成子の家柄もよく、皇位継承の有力候補でもあるはずですが、異母弟憲仁親王(ノリヒト)(1161~1181)(後の高倉天皇)の母がなんせ平滋子(ジシ・シゲコ)ですので、その頃の平家の勢いからしても無理でした。
  奈良の興福寺目指して落ち延びる途中に、以仁王はここで流れ矢に当たり落命したので、この地に祀られたようです
 
 平清盛の勢いは衰えず、父後白河上皇を幽閉し、高倉天皇も譲位させて、孫である安徳天皇を即位させたため、とうとう以仁王は全国の源氏に令?リョウジ)を出して挙兵しました。
しかしすぐに敗れてしまい、加勢した源頼政と共に奈良興福寺を目指して落ちる途中、宇治平等院で頼政は自刃(76歳)したため、写真の宇治平等院中に源三位頼政公墓がありました。
 
 三井寺の僧兵で強かった筒井浄妙(ツツイジョウミョウ)も以仁王に従って、宇治平等院の戦いでも宇治川の上で奮戦したようですが、以仁王墓の100ⅿほど南の畑の中にある宮内庁管理の傍塚に、何故か筒井浄妙塚として名を残しています。
 祇園祭の後祭の山に「浄妙山」がありますが、この人形は宇治川で戦ってる浄妙さんです。
 
 写真左の塚が筒井浄妙で、右の森が以仁王墓のある高倉神社です。
JR奈良線が通り、まだ田畑が多いこの地を、以仁王一行は逃げ落ちていったんですね。
 以仁王の令獅ナ源氏が奮い立って武家社会が生れた経過から、それなりに日本史では有名な親王ですので、多分この墓には遺品ぐらいしか入ってないかもしれませんが治定されたのですかね。

 
コメント (1)
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