島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

115-2桜町天皇女御二条舎子

2022-12-21 | 天皇陵巡り

 少し田舎のお土産屋さんの片隅にあった休憩所で、コーヒーとケーキを頼みました。たぶん二つとも冷凍のケーキだと思いますが、最近の冷凍技術の進歩か美味しいです。

 そして又月輪陵(ツキノワノミササギ)ですよ。

 関白左大臣二条吉忠(ヨシタダ)と、加賀藩4代藩主前田綱紀(ツナノリ)の娘利子(トシコ)との間に産まれた二条舎子(ニジョウイエコ)(1716~1790)は、1733年4歳年下の皇太子昭仁親王(テルヒト)の妃として入内、昭仁親王が第115代桜町天皇(1720~1750)(在位1735~1747)として即位すると、舎子は女御となりました。

  写真は、月輪陵に行くと言って、無料で入れた泉涌寺の仏殿です。

昔はここの石の上で昼寝してるお爺さん(今から思えば今の私より若い人か)をたくさん見ましたね。

月輪陵はこの裏手です。

 1937年・1740年と、二人の皇女を産みましたが皇子は産まれず、典侍姉小路定子の産んだ遐仁親王(トオヒト)を養子に迎えています。

  月輪陵に入って振り向いた写真です。

左へ進むと陵の横に廻れました。

 夫桜町天皇が譲位し、養子にした遐仁親王が第116代桃園天皇(1741~1762)(在位1747~1762)に成ると、舎子は皇太后に成り。4年後夫の桜町上皇が亡くなると、舎子は女院号青綺門院(セイキモンイン)も宣下されています。

 写真は月輪陵正面です

 その桃園天皇は22歳の若さで亡くなり、その皇子は幼かった為に、中継ぎ天皇として、舎子の実子である第2皇女智子内親王(トシコ)が第117代後桜町天皇(1740~1813)(在位1762~1770)と成っています。

 その後、舎子にとっては血は繋がってませんが孫にあたる第118代後桃園天皇(1758~1779)(在位1770~1779)も即位しましたが、父と同じく22歳で亡くなりました。

夫・義理の息子・孫の死を見届ける75歳まで生きた舎子は、月輪陵に葬られ、その制札には櫻町天皇女御尊称皇太后舎子月輪陵と書かれていました。

コメント (2)
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