島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

17≠R履中天皇皇女飯豊王

2017-10-01 | 天皇陵巡り
  
 古事記では、第22代清寧天皇には太后も御子もいなかったので、清寧天皇が崩じた後に天下を治める御子がいないために、市辺之忍歯王(イチノベノオシハノミコ)の妹(すなわち履中天皇の娘になります)飯豊王(イヒトヨノミコ)が葛城の忍海(オシヌミ)の高木の角刺宮(ツヌサシノミヤ)にいたと書いてあるので、天下を治めたようです。
 
 日本書紀では、履中天皇の娘ではなく孫、すなわちイチノベノオシハノミコの娘飯豊王女(イイトヨノヒメミコ)と書いてあり、弟たちの顕宗・仁賢が天皇になる前に摂政をひいたと書いてあります。
 
 飯豊王女の墓である葛城埴口丘陵(カツラギノハニクチノオカノミササギ)の宮内庁の看板には、飯豊天皇と表記され、墓ではなく陵になってるにもかかわらず、最初の女帝として第23代飯豊天皇にはなっていず、歴代天皇の中にも含まれていませんので、当然陵墓監区事務所にも陵印はありませんでした。
  
 また日本書紀には突然のように、「角刺宮で男と交わり初体験をしたが、特にどうってことなかったので、もう二度としたくない」と、不感症女の独り言のような飯豊王女の文があって、なんかエロ本よりも日本書紀の方が為になりますね。
   
 奈良県葛城市の近鉄忍海駅(オシミエキ)近くの葛城市歴史博物館にちょっと寄ってから、その北1Kmほどの飯豊天皇陵には自転車で訪問しましたが、正式には北花内大塚古墳(キタハナウチオオツカコフン)と言い、幕末の尊王攘夷運動の中おこなわれた文久の修陵で、形が大きく変わったことが分かっています。

  コメント数、数時間前に20万を超えました!
       皆様ありがとうございます。
 そしてCS2位阪神と3位横浜の進出が決まったことも、ありがとうございます。

    返事
和さん:コメント時々ありがとうございます!
     20歳前からひげが付いたので、
    ひげがない顔を知ってる人も少なくなりました。
花水木さん:コメントいつもありがとうございます!
     花水木さんのコメント前に、次回を書くのは断腸の思いです。
    どうかよろしくお願いいたします。
     写真は一応戦後ですので、日本男児の顔もややふやけていますね。

コメント (1)
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