ぶらぶら人生

心の呟き

二本の川

2019-01-29 | 身辺雑記
           今日の高津川(バスを待ちつつ)
        
            海鳥が群れて遊んでいる
 
 午後、妹と会って、一緒にコーヒーを飲んだ。洋菓子屋ヨシヤで…と思ったが、行ってみるとあいにくの休業日。
 結局、コメダ珈琲店へ行く。
 曙橋を渡る途中、足を止め、益田川の茶色に枯れた葦(?)を眺めた。
 河原が緑に覆われるころには、枯れ葦は水中に朽ちて沈むのだろうか? などと語らいつつ。

 今年も、気がつけば緑の葦に変わり、ヨシキリが鳴き始めるだろう。
 ただ今年も、その季節に会えるかどうかは分からない。

 自然は永劫だが、人間はそういうわけにはゆかない。
 帰宅後、『新唐詩選』を読む。
 <杜甫>の詩について、著者吉川幸次郎さんが、<万物はみな推移する><推移する万物のひとつとして、人間の生命も、刻々に推移し、老いに近づいて行く。悲哀の時はそこから生まれる。>という言葉を書いておられた。
 杜甫に限らず、人間みな同じ。

         大阪の妹から、夕方届いた淀川風景
        

 淀川は大河であるだけに、枯れ葦の量も多そうだ。

 
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『小屋を燃す』

2019-01-29 | 身辺雑記
            南木佳士著『小屋を燃す』
           (文芸春秋社・2018年刊)

           

 今月、書店の書棚で見つけて買った本である。
 強烈な南木佳士ファンというわけではないが、芥川賞受賞作『ダイヤモンドダスト』以来、本を目にすれば、求めて読んできた。

 医師であり作家でもある。
 今は信州の総合病院を定年退職、と帯に書いてある。
 この小説集には、「畔を歩く」「小屋を造る」「四股を踏む」「小屋を燃す」の4作品が載っている。みな、動詞で終わる題名となっている。連作として、意図的なものであろう。

 私小説的な作風は変わらず、作品には、作者らしい人と同年輩くらいの男性たちとの、日常の交友が描かれている。
 人間はみな、過去を背負って生きている。そして、この世に存在することの中で、誰もみな、血縁者との、老少不定の永訣と無縁には生きられない。
 作者の生い立ちも、順調満帆とはいかず、作品の中に陰影となって描かれる。
 さらに、医師であった作者は、家族との死別だけでなく、他者である多くの人々の死とも向き合わざるを得ず、書作品の背後には、そうした体験から生じる死生観といったものも描かれている。

 本の帯の背に、<南木物語の終章>とあり、頭を疑問符が掠めた。断筆宣言??と思ったのだ。1951年生まれで、それはあるまいと思う。

 南木佳士さんの作品を好む一つの理由には、大方の作品の舞台が信州であることも、大いに関係がありそうだ。この作品も、例外ではない。
 国内をあちこち旅して、信州は私の好みの地であった。

 今回、ふと気づいたことは、読点(、)の打ち方が、私の文体と呼吸にあっていると改めて思った。

 ペンネームの「なぎ」が、音としては、かつての私のペンネームと同音である。
 「南木」ならぬ「名木」で、しようもない小説を書いていたのは、遠い昔のこととなった。
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