常に、私の身辺にあって、一日に幾度手にするか分からない電子辞書は、私にとっての一番身近な遊び道具と言っていいかもしれない。
起床から就寝まで、実によく開く。
今も、このブログの題を記すに当たって、電子辞書を調べた。
初め、<私の遊び道具>と書いたが、何となく意に満たない。
<私の遊び具>はどうだろう? と思いつつ、辞書を開いた。
<遊具>とは言うけれど、<遊び具>は?
<遊び具>という言葉は出ていなかった。
辞書に見当たらなくても、意に適えば使ってよさそうな気もする。が、やはりなるべく使い慣れた表現にしておこうという気になってしまう。
夏目漱石は、作品の中に、たくさんの造語(漢語)を用いたが、漱石の真似はためらわれるし、勝手に国語を乱すのも好まない。
<遊び具>は出ていないけれど、<遊び種(ぐさ)>という語彙はあった。
これにしようかと、一旦は題名に選んだ。
(が、結果的には、平凡な題<電子辞書のありがたさ>に変更。)
写真の白い辞書には、『広辞苑』<第六版>(岩波書店)と『明鏡 国語辞典』(大修館書店)、赤い辞書には、『大辞泉』(小学館)が、収められている。
<遊び種>を乗せているのは、『広辞苑』と『大辞泉』の二つ。
古語的な言い方なのだろう。いずれも用例には、源氏物語(桐壺)の<うち解けぬ遊び種に>を上げている。意味としては、『広辞苑』では、<遊びのたね。また、遊び相手。>、『大辞泉』では、<遊びの材料。また、遊び相手>とある。
言い回しがわずか違うだけである。
題をつけるのにも、このように辞書と遊んでいる。
紙の分厚い辞典も、本棚に行けば並んでいる。が、それを手元に引き寄せて捲るには重過ぎる。その点、電子辞書は簡便である。だから、一日のうちに、幾度でも辞書で遊ぶ。
国語辞典だけでなく漢和辞典、英和・和英辞典、百科事典等々が、この小さな辞書の中にあり、居ながらにして、調べごとの可能なのが、ありがたい。
赤い辞典には、中日・日中辞典も入っているので、こちらも折々利用している。
もう一つ、記憶力の鈍った私にとってありがたいのは、調べた語彙が暫くは保存されている点である。初めて知った語(特にカタカナ表記の外来語)などは、<あれはなんだったかしら?>と、頭をひねっても出てこない場合がある。そんなとき、楽に確認ができる。
ちなみに、昨日、『広辞苑』で調べた言葉(その一部)は、次のようなものである。
子房・播種・賦活・一入・後藤象二郎・綴れ刺せ蟋蟀・剥く・タイトロープ・栄西・タッグ・テレコネクション etc
英和・和英辞典も、かなり活用している。
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近所に、3本の柿の木がある。
夕方ぶらりと、柿の色づき具合を確かめに外に出た。
どの木も不作らしい。青い実さえ少なく…。
思いがけず、畑の端に咲くコスモスを見つけた。(写真)
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午後は、ソコロのSさんが、パソコンの点検に訪問してくださった。
仕事のあと、南木佳士氏の作風や文学作品誕生の背景のことなどを話題とした。
現実的な話としては、人間の誰もが辿る老いについて、等。
コーヒーを飲みながら、対話のひとときを楽しんだ。