ぶらぶら人生

心の呟き

2月5日(火)の新聞より (写真 庭に頭をもたげた蕗の薹)

2008-02-05 | 身辺雑記

 ※ 1面
 未開封ギョーザも薬物
    大阪で回収 皮から検出
    3面 社説
 ギョーザ事件 解決は日中の試金石だ

 <製造、流通のどこで混入したのか。過ってなのか、あるいはだれかが故意に入れたのか。犯罪だとすれば、動機は何か。解明すべきことはたくさんある。>
 <今回の事件は、長い間の停滞から再出発したばかりの日中両国にとって、大きな試金石といえる。冷静に協力し合って解決に導けば、中毒事件の打撃を減らし、成熟した関係への一歩ともなる。>

 
☆ また新たに毒物ギョーザが見つかり、いまだに、中国製冷凍ギョーザに関する問題は、解決のめどが立たないようだ。今回の事件で、怖い毒性を持つという、有機リン系農薬成分「メタミドホス」のことを知った。
 中国での製造工程をテレビなどで見ているかぎりでは、そんな毒物が、過って入るとは考えにくい。私の素人判断では、ある段階で、故意に混入されたのではないか、という気がする。犯罪性の匂いを感じてしまう。そうだとしても、犯人や動機の解明は容易なことではなそうである。
 二国間にまたがる問題だけに、余分な摩擦が生じないよう、早々に解明されることを祈る気持ちだ。

 ※ 22面 文化

 絵入り洋燈と観覧車   音なく兆すものたち   辺見庸

 ☆ 昨日、草花舎で、辺見庸氏の短いエッセイを読んだ。その印象の薄れぬ今日、朝日新聞の文化欄で、また同氏の文章に出会った。
 筆者が散歩の道すがら見る風景の中に、<音なく兆すものたち>を意識する。
 五感の冴え渡った作者だ。
 筆者は決まったコースを散歩する。<特別のことはなにも起きはしない。だが、なにかが幽かに兆していると感じつつ歩く。>
 <…どうもおかしい。胸がさわぐ。事情を知らないのは私だけではないのか。足もとがくずれる心地がして、歩きながら青ざめる。ひょっとしたら世界はいま静かに滅びつつあるのではないか。いや、自分がまっとうな見当識をうしないはじめているのか。原因はどちらかしか考えられず、そのどちらにせよ大ごとである。腸(はらわた)がしぼられるように悲しくなる。…>筆者なのだ。
 筆者が、道々、思い出した詩人の年譜の一行(死去前月の記録)、「酒量さらに増し、失見当識顕著となる」と記した詩人は、だれなのだろう?
 それはともかく、筆者は、<記憶を乱した詩人の悲しみが、惻々としてわが身にもしみてくる。「人が見当識をうしなうということは、世界が滅びることに似る。いや、世界自体つとに失見当識が顕著ではないか」などととりとめもなく思う。世界が滅びつつあるさなかに自分は散歩ならぬ徘徊をしているのではないかと怪しみもする。>のだ。
 筆者は、がんの手術後、脳出血後遺症を抱えながら、執筆活動を続けておられるのだと聞く。しかし、ここに記されている世界は、病者のものではない。
 <音なく兆すものたち>への不安は、健常者と思い込んでいる私のなかにも巣食っているからこそ、共感を覚えるのだろう。
 正常な見当識のつもりが、失見当識状態かもしれない、のだ。
 世の姿も、またそこに生きる人々も。

 「見当識」という頭の働きについては、昨年の10月に初めて知った。
 頭頂葉の出血のため、3週間ほど入院した妹の、入院当初の症状は、<失見当識(見当識障害)>ということだった。初めて聞く言葉だったので、可能な範囲で調べ、随分、不安を感じたものだった。
 妹の場合、幸い軽くて事なきを得たが、辺見庸氏の文章を読みながら、考えてみると、脳障害で治療を受けたわけでもない私自身、確かと不確かの狭間を生きているに過ぎないように思えてくるのだった。

 カットとして使われていた、裸木の写真もいい。撮影者は辺見庸氏とあった。

 (写真 今朝、庭で見つけた蕗の薹。まだ固く、緑がわずかにのぞいているだけだった。周囲の石ころとの区別さえつきにくい。) 

コメント
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