四季彩日記

英国暮らしを経て、日本の美を再発見

ベルリン Berlin

2010-04-20 05:31:09 | Weblog

2010年4月2日~5日 のイースター休暇に、
ベルリン=ドレスデン=チェコのプラハ
を訪ねるツアーに参加しました。

まずは、ベルリンから。

ラファエロの「テルヌオーヴァの聖母」
フェルメールの「紳士とワインを飲む女」
ベルリンの絵画館で、かろうじて写真が撮れたものです。
ほかに「真珠の首飾りの女」(フェルメール)はブレてアップできません。

さて、ベルリンといえば、「ベルリンの壁」が想い出されます。
壁崩壊から20年が過ぎた今、
壁の跡は、観光名所として残されているのみでした。
しかし、人々の心の傷は、まだ癒されていない・・
そう感じられたベルリンでもありました。

シュプレー川に架かる橋は、
東西ドイツが統一してから建設されたもので、
ここでは、川が東西を分けていたそうです。

観光用に遺されている、高さ4メートルの壁。

第2次世界大戦後、英・仏・米・ソ連によって分割占領され、
東西に分裂したベルリン。
そして西ベルリンは、東ドイツの中の陸の孤島になりました。
初期には東西の交流が比較的自由だったといわれていますが、
しだいに、西ベルリンを経由して西側へ亡命する東ドイツ人が増え、
それを憂えた東ドイツ政府により
1961年8月13日、有刺鉄線の壁が一夜にして造られたのです。
それが壁の始まりです。

壁の裏側は世界のアーティストに開放されたアートスペースとなっています

上は「チェックポイント・チャーリー」と呼ばれた
外国人専用の検問所を再現しているもの。
東西の境界線上に置かれていました。

写真の右手にみえる建物は「壁博物館」(撮影禁止)で、
ここでは、西側への脱出に使われた車や
トンネルを掘って脱出した学生達の話、
境界を越えようとして射殺された、若者のこと等々、
リアリティーのある展示が、
いやおうなく我々に冷戦の惨さをみせつけてくれました。

壁崩壊のシンボル「ブランデンブルク門」。
門の近くに壁が立ちはだかり、目抜き通りが壁で分断されていました。

1989年の壁崩壊の時には、
開放を喜ぶ、多くの市民がこの周辺に集まり、
この模様が放映され、世界中に衝撃を与えた、その舞台となった所です。

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2 コメント

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悲しい歴史も ()
2010-04-25 23:41:07
麻子さん、こんばんは。

何気ない街並みの裏には悲しい歴史があるのですね。
麻子さんのブログでちゃっかりと歴史の勉強しています。

が飛べるようになってよかったです。
あっ、イギリスからは空からでなくとも行けるんでしたね。




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暁さま ()
2010-04-27 23:00:27
暁さま、こんにちは。

コメントをありがとうございます。
ヨーロッパを旅すると、いやおうなしに歴史を知らされます。
ベルリンは負の遺産を上手に観光化していると感心しました。

飛行機が飛んで安心です。いつ空港が再開されるか、まったくわからなかったので・・。
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