旅の終わりは、港町マルセイユ。
人口80万を超える地中海沿岸の都市です。
旧港の岸壁で、魚を売るおじさんは、
カメラを向けると、怒鳴り返してきました。
おまわりさんたちですら、ヨタッて歩いているのです。
地中海を見晴らす街は、
古くから、さまざまな人種が行き交い、それは、現在も変わらないようです。
名物ブイヤベースの昼食をとり、
マルセイユ空港からロンドンへ、帰路につきました。
旅の終わりは、港町マルセイユ。
人口80万を超える地中海沿岸の都市です。
旧港の岸壁で、魚を売るおじさんは、
カメラを向けると、怒鳴り返してきました。
おまわりさんたちですら、ヨタッて歩いているのです。
地中海を見晴らす街は、
古くから、さまざまな人種が行き交い、それは、現在も変わらないようです。
名物ブイヤベースの昼食をとり、
マルセイユ空港からロンドンへ、帰路につきました。
レ・ボー・ド・プロヴァンスは、
中世、南フランス一の勢力を誇ったレ・ボー家が城砦を築いた町。
難攻不落の城砦とも言われましたが、
その栄華の跡も、今では廃墟となり果てています。
上の写真の左側の岩はその一部です。
廃墟の下に広がる台地にはレ・ボーの町(村)があり、
西のテラスからは穴だらけの白い岩肌の丘を眺望。
道は路地から路地へと続き、
みやげ物を売る、かわいい店が軒を連ねていました。
リュベロン地方の深い谷に、忽然と現れるセナンク修道院。
厳しい戒律と質素な生活を旨とする、シトー会の修道院です。
12世紀に造られ、そのロマネスク様式の姿を今も見ることができます。
近年、修道士がこの地で活動を再開し、
周囲の畑の耕作も、彼らの生活の一部になっているとのこと。
前庭の緑は、麦畑ですが、本来はラベンダー畑であった所。
ラベンダー畑が害虫に侵され、2~3年前から麦に替わりました。
ラベンダーは周辺に多く、ここを訪ねた5月末はまだ蕾でしたが、
6月から7月にかけては、紫雲にけぶる風景が見られたことでしょう。
(下は修道院の中庭)
バスの車窓には、
プロヴアンスの春の花 ポピーの赤いカーペットが拡がっていました。
このリュベロン地方こそ、1990年代初め
『南仏プロヴァンスの12か月』(ピーター・メイル著)でブームになったところです。
丘の頂の古城に向け、斜面に石造りの家がへばり付く村。
これもリュベロン地方らしい風景だそうです。
プロヴァンスの首都 エクス・アン・プロヴァンス
かつてプロヴァンス伯爵が宮廷を営み、15世紀に大学が創設されました。
今なお、洗練された文化の都、学生の街として、賑わっています。
プラタナスの並木が美しいミラボー通り。
17世紀半ばに、この通りができました。
トップの写真「レ・ドゥー・ギャルソン」 は町で一番古いカフェ。
セザンヌやピカソなども訪れたといわれます。
エクス・アン・プロヴァンスは泉の町でもあります。
あちらこちらで、噴水や泉に出会い、
その数は100を上回るとか。
下はミラボー通りの温水の泉です。
南仏の陽光輝くこの町に、我々は3泊しました。
ただ、のんびり歩いているだけで、
身も心も解き放されてゆく心地よさを、味わいました。
また、訪ねてみたいエクス・アン・プロヴァンスです。
ローヌ川のほとりにひらけた古都、アヴィニョン。
フランス民謡「アヴィニョンの橋」で知られる町
そのサン・ベネゼ橋をご覧ください。4つのアーチの先がありません。
12世紀の建造当時は、22のアーチをもつ全長920mの橋でしたが、
戦乱や川の氾濫により、幾度も破壊されました。
17世紀以降は修復がなされず、現在に至っているということです。
14世紀には約70年の間、法王庁が置かれ、
7人の教皇がここに住み、アヴィニョンは栄華を極めました。
サン・ベネゼ橋と法王庁宮殿(写真上)、そして、その周囲の建造物群は「アヴィニョン歴史地区」として世界遺産に登録されています。
河岸には独特な枝振りに剪定されたプラタナスの並木が。
プロヴァンスの途中ですが、ちょっと休憩をして、最近のものをアップしてみます。
今日は、垂れ込める雲間から、
燦燦と輝く陽光が現れたかと思うと、
次の瞬間にはザーと大粒のシャワー。
これに強風が加わって、
ロンドンらしい!お天気でした。
夕方5時ごろ、シャワーの後の陽ざしの様子から、
「こういう時には虹がでるのではないかしら・・」
と、東の窓を見ていると、
1分もたたない内に、プリムローズ・ヒルの上に虹が現れ、
また、すぐに消えてしまいました。
淡い虹でしたが、何だか「ラッキー」と、うきうきした気分でした。
(2009年7月 6日)
上は7月4日(土曜)の夜10時ごろ。
この時間でも、まだあたりは明るいのです。
月は丸く写っていますが、実際には十三夜の少し前といったところでしょうか。
左の細い半円はロンドン・アイ。
遠くの丘陵は、テムズ川の対岸です。
こちらは、夏至に近い6月23日の夕景。
この日の日没時間は午後9時21分でした。
比較的、晴れの日が多い今年の夏です。
ゴッホとアルルの続きです。
ゴッホといえば、『ひまわり』。
アルル滞在時には、「ひまわり」を題材とした作品が6点描かれた、
といわれています。
上下の写真は「耳切り事件」を起こしたゴッホが収容された
アルルの病院です。
現在は図書館などになっていますが、
中庭は、ゴッホの絵を元に、復元されたものだそうです。
『アルルの病院の庭』(1889年作、オスカー・ラインハルト・コレクション蔵)
アルルの郊外の運河に架かる跳ね橋。
ヴァン・ゴッホ橋と呼ばれ、
ゴッホの絵のモデルになった橋を
1960年に場所を変えて復元したものです。
河岸が味気なくて残念ですが、
ゴッホが惹かれた橋の形をみることができます。
近くでは、野生のポピーが逞しく咲いていました。
『ひまわり』は
この南仏の強い日差しの中から生まれました。
『アルルの跳ね橋』(1888年作、オランダ クレラー・ミュラー美術館蔵)
7月になりました。6月はブログの更新ができないまま終わってしまいました。
5月の末に3泊でフランス プロヴァンス地方を巡ってきました。
少し前のことになりますが、
まずは、アルルの町からスタートします。
アルルは、ローマ帝国最盛期の恩恵に浴した町。
現在も円形闘技場、古代劇場、古代フォーロム
そして共同浴場の遺跡が残り、当時の繁栄が偲ばれます。
時代は下り、1888年、パリからこの町にやって来たのが、
ゴッホ Vincent Van Gogh です。
南仏のアトリエで、画家たちとの共同生活を夢見ていた彼の下に、
ゴーギャンが訪ねてきましたが、
彼との生活も破綻し、「耳切り事件」に発展します。
上下の写真は
『夜のカフェテラス』(1888年・オランダ クレラー・ミュラー美術館蔵)に描かれた
フォーロム広場のカフェ。今でもも現役です。
この3枚の写真は、円形闘技場。
当時は2万人以上の観客を集めたといわれています。
その様子を描いた『円形闘技場』(エルミタージュ美術館蔵)の解説が
闘技場の入り口にありました。
アルルでは、ゴッホの絵そのものを見ることはできませんが、
彼はこの地の風景を題材に、多くの作品を遺しています。