漱石記念館は、英国在住中には、訪ねそびれたところ。
ロンドンの中心から離れていて、しかもテムズ河の向こう(南側)であれば、
日本人在住者には縁遠く感じられ、その存在を知ってはいたものの行くチャンスを逸していました。
今回の旅行では是非訪ねてみたい、と思い、
前もって、ウエッブ サイトや来訪者のブログを参考に、「予習」をしてまいりました。
これからロンドン漱石記念館を訪ねる方のために、少し詳しくご紹介いたします。
まずは、記念館までの道のり。タクシーで中心地からおよそ20分。
ロンドンの中心からタクシーに乗り、運転手さんに住所を差し出し、記念館の前まで連れて行ってもらうことにしました。
イギリスでは住所さえ解れば、目的地までタクシーが行ってくれるはず。
記念館の番地は「80B,The CHASE,LONDON SW4 0NG 」。
ところが、The CHASE通り に入っても運転手さんは、80 番地の建物をすっ飛ばしたようで、
もう一度、同じ通りを逆戻り。
ようやく80番地を見つけ、でタクシーを降りて、フラットの階段を上って確認。
「あった~」
ドアの左手の呼び鈴の下に、小さく [SOSEKI MUSEUM IN LONDON]の表札が。
「へ~これが、記念館か」
運転手さんが、驚きの声をあげます。大きな建物かと思ったとのこと。
ベルを押して、ドアを開けてもらい、2階(日本の表現では)へ行くと、
そこに「漱石記念館」がありました。
漱石記念館は、漱石研究家の恒松郁夫氏による私設記念館です。
漱石の英国留学における資料などが写真とともに展示され、
ロンドンでの暮らしぶりが伺えます。
1900年(明治33年)10月から2年余り、英国に留学した漱石ですが、
その間、住居を5回変えました。
5番目に住んだ第5の下宿(下の写真)が、記念館の向いの建物の3階にあります。
現在はここの居住者の意向で、部屋の中の見学はできません。
が、建物の壁にはブループラークが貼られています。
「ブループラーク」とは著名人が暮らした建物が歴史的建造物と認められ、
その印として、ブルーのプラークがその部屋の壁面に貼られるものです。
「漱石が暮らした家」のブループラークは、日本人初のものだそうです。
当時の英国は大英帝国として繁栄を極めたヴィクトリア朝 終焉の時期でした。
漱石がロンドンに赴いた翌年(1901年1月)、ヴィクトリア女王が崩御され、
漱石はその葬列を見送った、という記録が残っています。
チェイスの家並みは、ヴィクトリア時代のもので、漱石が暮らした当時とあまり変わってないそうです。
漱石の下宿近くのこのポストも当時のもの。
当時も今もアッパークラスの居住地区、と聞きました。
漱石は1年2か月をこの地で暮らしましたが、
研究を重ねながらも、精神的には辛い日々であったことでも知られています。
帰りは、クラパム・コモンの広大な公園を見ながら、
地下鉄ノーザン・ラインのクラパム・コモン駅(Clapham Common)方面へ。
途中で、今歩いてきたチェイス通りを振り返ってみましたが、
木々が生い茂り、道がどこにあったか、ということもわからないほど。
やっぱり、タクシーで来たのが正解でした。
途中にバス停があったので、地下鉄に乗るのを止めて、バスで戻って来ました。
漱石が暮らしたThe CHASE 通りは、考えていたよりずっと素敵なところでした。
ロンドン旅行の折には、是非お立ち寄りください。
ただし、記念館の開館時期・曜日・時間が限られているので、ご注意を。
(visit 2013.5.18)