ここにきて、産能やCDAで学んだテキストを読み返そう・・・という気になっています。
当時は様々なカウンセリング理論やキャリアカウンセリング理論が点でしかなく、ただ目の前の試験のために読んでいた・・・という事実があったわけですが、
(興味ある分野でしたが・・・。)
今になると、少しは大枠がつかめているのか、大枠の中に様々な理論があるように感じるのです。
その中に自分の好きな理論というのがあって、それが「論理療法」でした。
先ほどのブログにも書いた「イラショナルビリーフ」という言葉はその「論理療法」に出てくる言葉です。
この言葉を初めて知ったのは、産能大の「カウンセリングの理論」という授業でした。
私はそれを知った時、少し心が軽くなったのを覚えています。
今思えば、現在よりも不安が強かった時でした。
論理療法はアルバート・エリスが提唱した心理療法で、特に大学生のカウンセリングに有効であるとされているそうです。
「人間は目に見えている世界に住んでいるのではなく、目で見える世界をどう受けとっているか、その受けとり方の世界に住んでいるのである」
という考え方に立っています。
例えば、私が混んでる電車に乗り込んだ時、入り口付近で人にぶつかる。
ぶつかるのは嫌だから、「他の人のことも考えてもっと奥に移動していれば良いのに(怒)」と思う。
時には思うだけでなく、「もっと奥に進んでください!」と言って外的世界を変えようとする。
→「入り口付近に立ち止まらず、奥に進むべき」という受け取り方が不快にしているという考え方。
この例が適切かどうかわかりませんが・・・^^;
私はイライラしている朝の電車でこのように感じることがあります。
しかし、ある友達にこの話をしたら、
「混雑している電車で奥に進むと出られなくなるから、やむを得ず入り口付近にいるんだけどね」
と言われ、立ち止まっている人にもそれなりに理由があるのかもしれない。。。と思いました。
そう思えると、「奥に進むべき」とは思えなくなるような・・・
さて、同じ出来事でも、人の受け取り方によって、こうも見え方が違うのか!と思うことが、周囲でありまして。
今になって論理療法についての本を読み返したい、という気持ちになっているわけです。
そして論理療法は出来事の受け取り方は個人の自由だとは言っておらず、おかしな受け取り方(イラショナルビリーフ)とまともな受け取り方(ラショナルビリーフ)があると言ってます。
例えば
「好きな彼にふられた、だから私はダメ人間だ」
これはイラショナルビリーフと言われています。
事実じゃないからということ。
好きな人にふられたから、本当にダメ人間なのでしょうか?
「好きな彼にふられた」の後に「だからあの人は見る目がない」という言葉が続くかもしれないし、それ以外にもいくらでもその後に続く言葉は考えられるわけです。
また
「私は誰からも好かれない」
という言葉もイラショナルビリーフと言われています。
願望と事実をわけて考えておらず、それが混乱させているということ。
この言葉の裏には「私は人に好かれるべきである」という前提があり、「べき」なのに「べき」になっていないという不満があるのです。
「好かれるに越したことはない」
くらいだと、気が楽に考えられると思うのですが・・・。
なんて、ことをつらつらと考えています。
こちらも現実の出来事に照らし合わせ本を読んでみると色々と見えてくることもありますね。