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おとらのブログ

観たもの、見たもの、読んだもの、食べたものについて、ウダウダ、ツラツラ、ヘラヘラ書き綴っています。

踊るポンポコリン

2018-08-28 23:09:48 | 訃報
 漫画家のさくらももこさんが8月15日にお亡くなりになりました。まだ53歳だったそうです。お若いですよね。

 さくらももこさんの訃報は緊急ニュース速報でテレビ画面の上にテロップが流れました。さくらももこさんの代表作である「ちびまる子ちゃん」のりぼん連載開始が1984年、テレビアニメが始まったのが1986年だそうで、私はすっかり“大人”になっていたので、実はほとんど存じ上げません。昨夜から訃報を伝えるニュースやワイドショーでは、必ずと言っていいほど「国民的漫画家」という枕詞がつくのですが、「ふーん」って感じで、まあ、ニュース速報が流れるくらいなんだから、そうなんでしょうね…。会社の同僚の女子(私よりひと回り以上年下です)は、りぼんで「ちびまる子ちゃん」を読み、アニメも放映開始から見ているそうで、ドンピシャの世代、すごくショックを受けていました。

 りぼんもアニメも知らないのですが、アニメの主題歌「踊るポンポコリン」(さくらももこさん作詞)だけはカラオケでよく歌っていました。この曲が流行った頃はバブルの真っ只中、そんなに景気の良い会社にいたわけではありませんが、なぜかみんな浮かれていた時代で、“朝までカラオケ”と称して夜中までみんなでカラオケをしていました。締めがこの歌で、そこにいる人たちで大合唱して終わるというのがお約束になっていました。昨夜から「踊るポンポコリン」を幾度となく聞きながら、そういった騒々しい頃を思い出し、ちょっと遠い目になっています。

 さくらももこさんのご冥福をお祈りいたします。
 
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竹本住大夫師匠

2018-04-29 00:23:39 | 訃報
 人形浄瑠璃文楽の太夫で人間国宝の竹本住大夫師匠が肺炎のためお亡くなりになりました。93歳でした。

 今朝は文楽劇場へ向かいながら「そういえば、住師匠の引退公演って今ぐらいやったね。何年前のことになるんやろうか。千穐楽も見に行ったよね」なんてことを思い出していたので、幕間でネットのニュースを見てびっくりしました。

 私が文楽に行くようになったのは、例の文楽と大阪市のことがあってからです。大阪市との交渉では住師匠が矢面に立たれ、その最中(でしたっけ?)に脳梗塞を発症、それを見て「歌舞伎の親元である文楽が大変!」ということで少しでも観客動員に協力できたらと思いはせ参じました。住師匠に文楽に誘われたようなものです。

 ただ、時期的に住師匠はご病気回復後からしか存じ上げず、残念ながら絶頂期は聞いておりません。住師匠も、先代の玉男さんも、ご病気前の簔助さんも、大阪にいたのだからいくらでも機会があったのに行けてないのは不覚でした。見に行けるものは行ける時に行っておかないといけません。

 住師匠のご冥福をお祈りいたします。

 
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権藤芳一さん

2018-03-30 22:26:07 | 訃報
 演劇評論家の権藤芳一さんがお亡くなりになりました。87歳でした。

 京都観世会事務局長を務める傍ら、能や文楽、歌舞伎を中心に評論を執筆され、関西の新聞では、上方の古典芸能について時々記事を寄稿されていました。米朝師匠や藤十郎さん、千之丞さんが参加されていた「上方風流(かみがたぶり)」のメンバーでもいらっしゃいました。
 
 と、ここまでは新聞の訃報の受け売りです。実はワタクシ、大学時代に権藤さんの講義を受けました。一般教養で「古典芸能史(確か、こんな名前だったと思う)」という科目があって、一応、高校時代演劇部だったので、何となく受けないといけないような気がして取りました。おそらく、当時から古典芸能の世界では有名な先生だったと思うのですが、能も文楽も歌舞伎も見たことがない女子大生でしたので、有難味は全然わからず、文字どおり「猫に小判・豚に真珠」でした。ただ、同級生の子が「この先生、エライ先生らしいよ。私らが講義を受けられるってすごいことらしいよ」って言ってて、とりあえず“権藤芳一”という名前は覚えました。

 大学卒業後、ン十年経って、古典芸能に目覚めたワタクシ。権藤芳一さんのお名前をあちこちで拝見するようになり、本当に惜しいことしたなぁと思いました。きっと、とても良い講義だったんでしょうね。今の私ならかぶりつきで必死で聞くと思いますが。残念でした。

 権藤先生のご冥福をお祈りいたします。

 

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ペギー葉山さん

2017-04-13 23:48:22 | 訃報
 昨日、歌手のペギー葉山さんがお亡くなりになりました。83歳でした。

 つい2週間ほど前になりますでしょうか、越路吹雪さんの37回忌のメモリアルコンサートにご出演され、あの晴れやかな伸びやかな歌声を聞かせていらっしゃったそうです。そのコンサートには玉ちゃんも歌手としてご出演、玉さまファンの皆様も大勢いらっしゃって、桔梗さんのお座敷も大盛り上がりで、私は行けませんでしたが、皆様の感想で楽しませていただいていたところでした。

 それが突然の訃報、本当にびっくりしました。お亡くなりになる前々日までレッスンされていたそうで、昨日のニュースで、何かのインタビューの折に「私は生涯現役、歌いながら舞台で死にたいわ」と答えていらっしゃるのを見て、ほぼそれに近いような、幸せなご最期だったのかなぁと思いました。もちろん、まだまだなさりたいことはあったかとは思いますが…。

 ペギー葉山さんの代表曲のひとつに「学生時代」があります。ペギーさんご自身が青山学院のご出身で、その学生時代がモデルになっていると言われております。2009年には青山学院に歌碑が建立されています。ところが、私がン十年前に大学に入学した時、入ってすぐの授業だったと思いますが「わが校はペギー葉山の『学生時代』という歌のモデルなんですよ」と先生がちょっと自慢げに言ってたんです。母校もミッションスクールだったので、チャペルも讃美歌もロウソクももちろんありますし、図書館もテニスコートもあります。てっきりそうだとずっと信じておりました。大学の先生がありもしないことをでっち上げるとは思えないのですが…。

 それはともかくとして、「学生時代」の歌詞が私の学生時代の思い出と重なる、ってことはないのですが(そんな清楚なお嬢様ではないので)、その描かれているシーンが母校のキャンパスのイメージにピッタリで、ペギー葉山さんと同じような学生時代を送ったのかなぁと勝手に親近感を持っております。歌詞もステキですが、歌っていらっしゃるペギーさんもとても品が良くて、大好きな歌です。

 数多くの素晴らしい歌を世に送り出してくださったペギー葉山さん、ご冥福をお祈りいたします。

 母校の写真です。
 
 チャペル

 
 図書館

 
 中庭
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平幹二朗さん

2016-10-24 23:37:49 | 訃報
 平幹二朗さんがお亡くなりになりました。82歳でした。

 急なことで非常に驚いております。つい先日まで大阪で舞台をお勤めだったとか、ご子息の岳大さんが「穏やかに眠っている」とコメントされており、苦しむこともなくあの世へ旅立たれたのでしょう。表現は不適切かもしれませんが、全老人の憧れ"ピンピンコロリ"だったのでしょうか。と書きつつ、平さんが"老人"って、合わないですね。

 平さんの舞台ですが、チケットの半券の束を繰ったところ、初見は2006年の兵庫芸文センターの開場記念の「獅子を飼う」でした。案外遅かった"平デビュー"でした。お芝居の最初が文学座だったせいか、俳優座とか民藝とかの役者さんって見る機会がなかったんですよね。代表作と言われる「王女メディア」も「マクベス」も残念ながら見ていません。その後も数回しか拝見していません。

 いちばん直近はTeam申の「男たちの棲家」で、リア王の声だけのご出演でした。声だけでしたが圧倒的な存在感で、出演の亀ちゃん、蔵之介さん、佐藤隆太さんを蹴散らしていらっしゃいました。その前は蜷川センセー演出の藤原竜也クンの「ハムレット」でクローディアスをお勤めでした。ほぼ裸で本水を使って「水ごり」の場面があって、何でそこまで!と思った覚えがあります。後は、愛之助さんと共演された「炎立つ」、内野聖陽さんとの「イリアス」です。いずれもブログを始めてからだったので、記事が残っていました。役に立つ?ブログです。

 蜷川センセーの告別式で「僕らはまた、近いうちに再会する」という「タンゴ・冬の終わりに」の中の一節を捧げられたそうですが、既にあちらでは早速お稽古が始まっているのかもしれませんね。灰皿も飛んでる?

ご冥福をお祈りいたします。
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アンジェイ・ワイダさんの「ナスターシャ」のこと

2016-10-10 23:43:58 | 訃報
 映画監督のアンジェイ・ワイダさんが9日お亡くなりになりました。90歳でした。

 拙ブログでも何度か書いておりますが、私は映画をまず見ません。見るとしてもシネマ歌舞伎ですが、それすら毎回ちゃんと見ているわけではありません(シネマ歌舞伎は上映期間が短い上に、上映開始時間が午前中のことが多いので見たくても見られないっていうのもありますが)。当然?のことながら「地下水道」も「灰とダイヤモンド」も「鉄の男」も何も見ておりません。

 そんな映画見ない人がなぜワイダ監督を?と不思議に思われるかもしれませんが、玉ちゃんつながりです。玉ちゃん主演の舞台「ナスターシャ」の脚本・演出を手がけられています。今朝、NHKのニュースでワイダ監督の訃報が流れ、その「ナスターシャ」のことをいつ言うのかと待ち構えていたのですが一言も触れませんでした。その後ネットニュースをチェックしても「ナスターシャ」が全然出てこないので、それならば、オッホン! ワタクシが書きましょう!

 って大きく出ましたが、たぶん、中身は何も無いと思います。先にお断りしておきます。

 「ナスターシャ」のお舞台、ワタクシ拝見しております。1993年3月12日~25日の大阪公演です。初演は1989年に東京のベニサン・ピットでした。160人しか収容できない会場で2ヶ月興行だったそうです。大阪もそれくらいの人数だったと思います。場所は茶屋町の毎日放送の中のギャラクシーホールでした。演じる場所の両側に客席がありました。舞台と客席が同じ高さ、境目もありません。今、パンフレットを見ながら、この記事を書いていますが、そこに舞台装置のスケッチもありますが、「昔のロシアの家の大きなサロン」とあって、サロンに招かれてお芝居を見たような記憶があります。一列目のお客さんは手を伸ばせば玉ちゃんに触れられそうな、そんな近さでした(残念ながら私は一列目ではありませんでした)。

 玉ちゃんがナスターシャとムイシュキン公爵の二役、永島敏行さんがラゴージンのお役でした。玉ちゃんは女形と立役を同時になさるんですが、決して早替りではなく、白いシャツと白いスーツが基本スタイルで、これに丸い眼鏡をかけるとムイシュキン公爵、眼鏡をはずしてイヤリングをつけ白いショールを纏うとナスターシャになります。たったそれだけで演じ分けるんです。演技力もさることながら、それ以上の見せる力、表現する力を感じました。パンフレットを読むと、そういう玉ちゃんにワイダさんご夫妻が惚れこんで「ナスターシャ」の舞台化が実現したようです。

 20年以上前のことなので、「行った」ことは覚えているんですが、「見た」ことは完全に飛んでいて、パンフレットを見ながら、そういえば…、えーーーっと、あれ? こうやったけ?とエエ加減なんですけど。その頃にブログをやってれば、ちゃんと残せたと思うのですが。PCも何もまだない時代ですからね。このチケットも電話予約ではなく、はがきを出して抽選で「購入の権利」が当たるというものでした。友人と二人で10枚はがきを出して、1枚当たりました。料金も当時としては破格の15000円でした。(普通のお芝居は5000円~7000円ぐらいの頃です)今から思うとよー当たったし、よーそれだけのお金を持ってたんやねぇと我ながらちょっとビックリです。

 「ナスターシャ」の原作はドストエフスキーの「白痴」です。ワタシ、この舞台を見て「白痴」を読みました。先に映像?があれば読みやすいかしらと安易な気持からでしたが、実はこの「ナスターシャ」は「白痴」の中の最後の章を取り上げたもので、読み始めても全然知ってる場面が出てこず、何か「騙された」気分で読み進んだのを覚えています。一応、読了はしました。まあ、でも、こんなことでもない限りドストエフスキーを読もうかということにはならないので、よかったです。

《オマケ》
 パンフレットの写真です。↑上の写真もパンフレットからです。20年以上前なのでお若いです。(本当はやっちゃいけないことかと思いますが)
 
 玉ちゃん、ワイダさん、永島さん

 
 玉ちゃんのナスターシャとムイシュキン公爵

 あ、スミマセン、全然ワイダさんの「追悼」になってないですね。「ナスターシャ」見に行った!自慢ですね。ワイダさんが日本でこういうお仕事もなさっていたということで…、ご容赦ください。

 ワイダ監督のご冥福をお祈りいたします。 
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吉田文雀さん

2016-08-21 23:02:38 | 訃報
 人形浄瑠璃文楽の人形遣い人間国宝の吉田文雀さんが20日、心静止のためお亡くなりになりました。88歳でした。高齢などを理由に今年の3月に引退を表明されており、最後の舞台は昨年1月の大阪・国立文楽劇場、初春公演で「花競四季寿」の関寺小町でした。拝見していますが、記憶になくて…。ずっと休演が続いていて、久しぶりに復帰された時ではないかと思うのですが。

 私が覚えている文雀さんは住太夫師匠の引退公演の「菅原伝授手習鑑」で八重のお役をなさっていました。「泣くない」「アイ」「泣きやんな」「アイ」のところです。涙涙で見ておりました。

 上の写真、右側はお弟子さんの吉田和生さんです。昨日・今日と愛媛県の内子座で内子文楽が開催されご出演でした。ツイッターで「素晴らしかった」という呟きをいくつも見ました。師匠への何よりのはなむけかと思います。文雀さんのご冥福をお祈りいたします。
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中村紘子さん

2016-07-31 00:02:03 | 訃報
 国際的に活躍されてきたピアニストの中村紘子さんがお亡くなりになりました。72歳でした。

 中村紘子さんってずいぶん前から知っているので、このお年を見たとき、案外といっては失礼ですが、まだお若かったんやなぁと思いました。かと言って“すごいおばあさん”だとも思ってはなかったんですが。おきれいな方なのであまり年齢のことを意識してなかったんだと思います。

 30年くらい前になるでしょうか、私が初めて行ったクラッシックのコンサートが中村紘子さんでした。とにかくシンフォニーホールに行ってみたくて、名前を知ってたのが中村紘子さんしかいなくて、とりあえず行った、そんな消極的な観客でした。何を聞いたのかも覚えていないし、感動したのかどうかも不明です。

 私の中では「名エッセイスト」っていう意識のほうが強いかもしれません。拙ブログの中でも「コンクールでお会いしましょう」の感想を書いています。中村紘子さんのエッセイって楽しくて大好きです。それに加えてクラッシックの世界を垣間見ることができて、ワタシ個人的には「為になる本」でした。「コンクールでお会いしましょう」の後はもう書いていらっしゃらないようで、ちと残念です。そちらが本職ではないので仕方ありませんが。

 ご冥福をお祈りいたします。
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世界のNINAGAWA

2016-05-13 23:49:48 | 訃報
 演出家の蜷川幸雄さんが昨日お亡くなりになりました。80歳でした。

 上の写真は昨年12月に出版された新潮社の「蜷川幸雄の仕事」という本です。2015年10月に彩の国さいたま芸術劇場大ホールにて「海辺のカフカ」のお稽古に際にお嬢さんの蜷川実花さんが撮影されたそうです。いろいろなお芝居の記者会見にこのお姿で登場されているのは何度か見ておりましたが、本の表紙にこういう写真って、蜷川センセイらしいっちゃらしいんですが、ちょっとびっくりします。

 蜷川センセイ演出のお芝居は結構よく見ています。昨日からのニュースで“演出家の名前でお客が呼べる”と枕詞のように言ってましたが、ワタシもそれですね。手元に置いてあるお芝居のチケットをざっと見たところ、初めて見たのは1990年の新神戸オリエンタル劇場での三島の「近代能楽集」の「卒塔婆小町」でした。でも、全く記憶になくて、その次と思われる1995年の「身毒丸」あたりから蜷川センセイと認識しだしたような気がします。藤原竜也クンではなく武田真治クンバージョンです。白石加代子さんの顔が武田クンの顔の倍くらいの大きさだったのと、見た日がちょうど武田クンのお誕生日で、カーテンコールでお誕生日のお祝いが始まり、いきなり大撮影大会になったのを覚えています。

 それ以降、歌舞伎にはまるまでは、シェークスピアもチェーホフもギリシャ悲劇も井上ひさしも大阪に来たのは結構な数を見ています。それに比例して藤原竜也クンもよく見ています。なぜかいつも上半身裸になるのがお約束でした。昨年、久しぶりに「ハムレット」を見て、なんだかとても懐かしい気持になりました。

 亀ちゃんがご出演の「じゃじゃ馬ならし」「ヴェニスの商人」「元禄港歌」は蜷川センセイと亀ちゃんの間に飛び散る火花が見えるようなすごく濃密な舞台でした。蜷川センセイが歌舞伎へ乗り込んだ「NINAGAWA十二夜」も見ましたが、セットは蜷川センセイらしい鏡を多用したものなんですが、ちゃんと歌舞伎でした。

 蜷川センセイはとにかくセットが素晴らしくて、幕を閉めることなく場面転換ができて、いつも感心しながら拝見しておりました。シアタードラマシティでずっと雨が降ってるセットっていうのも見ました。水はたぶん循環させているんだと思うのですが、「どうなっているんやろか?」ととても不思議でした。

 本当に才能豊かな演出家さんでした。洋の東西を問わず、時代はどの時代でも、出演者もズブの素人に近いアイドルから超ベテランまで、どんな条件下でも高レベルの舞台を作っていらっしゃったような気がします。個人的に「ツマラナイ」と思っても(時代に興味がないとか、登場人物の名前がヤヤコシイとか、そういう浅い次元です)、「ワカラナイ」っていうのはなかったように思います。“時空を超えて”みたいなのもなかったような気がします。(そっち方面苦手なもので…)

 あの世では盟友の蟹江敬三さんにお会いになって、きっともうお芝居を作り始めていらっしゃるんでしょうね。ご冥福をお祈りいたします。

 (15日がお通夜、16日がお葬式だそうです。ワイドショーがまたすごいことになるんでしょうね。)
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アンドレ・クレージュさん

2016-01-09 23:55:57 | 訃報
 フランスの服飾デザイナーアンドレ・クレージュ氏がお亡くなりになりました。92歳でした。上の写真の真ん中のおっちゃんがクレージュさんだそうです。

 ミニ・スカートや白いブーツが有名なんだそうですが、ワタクシ的には「クレージュといえば、お弁当箱のような形をしたエナメルバッグ」でございます。はるかン十年前、私が花の女子大生の頃に爆発的に流行りました。当時はまだ今のようなライセンス製品ではなく、フランスからのインポート、我が家はそんなインポートのバッグを買ってもらえるようなレベルではありませんでしたので、同級生が持っていらっしゃるのを見て「いいなぁ」とずっと思っておりました。数年前に、復刻版が出たのを見ましたが、やっぱりまだ結構なお値段で、買えませんでした。

 
 わかりづらいですが、上の写真は雑誌のJJのモデル時代の賀来千賀子さんで肩からかけているオレンジ色のショルダーバッグがそれです。おそらく、私と同年代の方であれば「あぁ、あれですね」とおわかりになるかと思いますが…。

 クレージュさんの詳しい経歴はコチラをご覧ください。30年以上パーキンソンを患っていらっしゃったそうで、1990年から活動を停止されていたそうです。

 この訃報を聞いて、“ニュートラ”とか“ハマトラ”とかを思い出しました。ちょっと遠い目です。クレージュさんのご冥福をお祈りいたします。

 

 
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