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「等伯」斜め読み2/4

2023年06月13日 | 斜読
斜読・日本の作家一覧>   book552 等伯 上下 安部龍太郎 文春文庫 2015

上 第4章 比翼の絆 
 信春は教如15歳の肖像画を仕上げる。が、何かが欠けていると悩んでいるとき、信長軍が攻めて来た。恐怖で金縛りになるが、開き直り肖像画に向かう。若い教如の心に寄り添い、若さゆえの苦悩と可能性を慈しみ、始めから描き直す。
 雅やかな顔だち、意志の強さと聡明さ、未来にたどる波瀾万丈の人生を予感させる教如の肖像画に、前久は朝倉にやるのが惜しい、松栄は見えないものまで描き出す筆の力に感服、と誉める。


 教如の肖像画を携え、信春と前久の使者は信長軍を避けて尼崎、伊丹、池田、丹波、丹後を経て越前三国湊へ、ここから使者は越前一乗谷へ、信春は静子、久蔵のいる敦賀・妙蓮寺に向かう。
 妙蓮寺では新達上人が、追っ手が来たので静子、久蔵は妙顕寺に移ったと教える。妙顕寺で静子、久蔵と再会した信春は、前久の助言で家族3人いっしょに京都・本法寺に住めると話す。
 翌日、3人で気比神社大祭を見に行き、信春は朝倉家に仕官した兄武之丞、朝倉義景に会う(この1年後、朝倉家は信長により滅亡する)。


 1572年12月、雪の降るなか信春、静子、久蔵は本法寺に着き、日賢が部屋が8つ、客間は20畳の教行院に案内する。
 本法寺に、堺の豪商油屋常金の子で日尭上人の一門になる日通23歳が修業に来る。
 信春は、石山本願寺の伺い下絵の模写をもとに教行院の襖絵200枚を久蔵に見せながら描く。
 このころ、織田・徳川連合軍が三方原で武田信玄に大敗したのを機に、足利義昭は打倒信長の兵を挙げる。ところが、信長軍3万余が洛東・知恩院に集結し、武田信玄が病いに倒れ、信長が洛外に火を放ち、上京を焼き討ちにする。火を避け、信春は静子、久蔵を連れて大徳寺を目指しているとき、織田信忠配下の勢に見つかる。多勢に無勢、追い詰められたとき、信長の使い番である騎馬武者が助けに入る。
 信春たちは助かったが、足利義昭は信長包囲網を解くことになる。


上 第5章 遠い故郷 
 上京焼き討ちから6年、1579年、信長は安土城天守閣を完成させる。信長の居室には永徳による水墨画、金碧障壁画が描かれ、天主の絵も永徳一門が担当した。
 武田信玄が病没し、信長は足利義昭を追放する。朝倉家は滅亡し、浅井長政は自刃する。信長は近衛前久40歳を京都に呼び戻す。前久は信長政権の中枢で動くことになる。


 信春家族は本法寺が焼き討ちにあったので各地を転々としたあと、日通の縁で、堺・妙国寺の塔頭・常緑坊に身を寄せていた。妙国寺住職は、日通一門で油屋常言の子・日珖上人48歳である。
 信春は京都本圀寺日禛上人の肖像に取り組むが、絵が進まない。日禛上人18歳が、本圀寺日通29歳に案内され、妙国寺本堂で講話する。信春は日禛の講話を聞き、日禛の求道心の一途さ、気品、聡明さを絵に表現する。絵に日禛の一途な志が荘厳されていて、静子は感動し、久蔵は喜びを爆発させる。


 前後するが、堺には南蛮貿易で蓄財した日比屋了珪の店がある。了珪の屋敷に建てられた教会は南蛮寺と呼ばれた。ルイス・フロイスに同行してきたアルメイダが了珪の屋敷に住み、南蛮寺で診療を行っていた。洗礼を受けた了珪の娘サビナ春子がアルメイダの助手をする。
 常緑坊に暮らすころから静子は体調を崩し、アルメイダに肺炎と診断される。日禛上人図が完成して間もなく、サビナ春子から静子の余命は幾ばくと伝えられる。信春は静子を元気づけようと、部屋の三方の襖に七尾の山水図を描く。
 そこのろ、安土城下で宗教論争=安土宗論が起き、法華宗が負けさせられる。妙国寺は信長支配となり、信春たちは住めなくなる。
 信春は静子、久蔵と七尾へ戻ることにする。病の静子を連れ、大坂、伏見、琵琶湖関の津、湖北の塩津を経て、敦賀・妙顕寺に泊まる。七尾を追われて8年、信春は静子に苦労のかけ通しだったことを悔やむ。
 静子が夢に仏が現れたと話し、信春にあなたの絵が上達していくのを見るのが私の喜びだったので、辛いと思ったことはないと言い、久蔵に信春の弟子になり絵に精進するようにと話し、息を引き取る。
 信春は悲嘆にくれながら、妙蓮寺で葬儀を終える。静子の遺骨は、父母が眠る七尾の長寿寺に移すまで妙蓮寺に預けることにする。


上 第6章 対決
 信春は久蔵と知り合いの寺を転々としながら仏画、襖絵を描いて3年を過ぎた1582年、信長49歳が本能寺の変で没す。
 1583年、信春と久蔵は日通の世話で、日通の父である堺・油屋常金の屋敷に住む。茶会に招かれ、千利休、今井宗久ら知遇も得る。
 信春は、日比屋了珪から西洋の本を借り西洋画を習得する。静子の七回忌に、ダ・ヴィンチの「ジョコンド夫人」(=モナ・リザ)の遠近法を取り入れた鬼子母神を描こうとするが上手く描けない。油屋の娘で日通の従妹の清子は、絵の形だけを真似ていると指摘する。
 間もなく秀吉が関白になり、法華宗お構いなしとなる。京都所司代に就いた前田玄以が訪ねて来て、信春の自由を認める関白殿下の立て文を届け、近衛前久が秀吉を猶子にして関白の道を開いたことで都に戻れ、信春の自由に口添えをしてくれたと伝える。
 信春は京に上り前久に会って礼を述べる。前久は、絵師は求道者でなければならない、(永徳のように)この世の名利に目がくらんではいけないと語る。


下 第6章 対決(承前)
 信春は久蔵を連れて、1585年、上洛する。室町通理の賑わいを眺めていると、14年前に扇を描いていた扇屋浮橋の女将から声をかけられる。扇屋浮橋は三条通・衣棚通の角の了頓図子に店を移していて、隠居するので信春に任せるという。信春は、ここを住まいにし、2人の職人、千之助、茂造を引き継ぎ、新たに能登屋の看板を出して開店する。
 日通が来て、自分は本法寺に戻り、清子も手伝いで来ると伝える。
 近衛前久の嫡男・信尹が能登屋と揮毫した看板を届けに来る。
 本圀寺日禛上人から贈り物が届く。
 店は大繁盛で、大量の注文がくるので職人を増やし、清子が帳場を預かることになる。


 1586年、狩野松栄43歳が来て、聚楽第の襖絵を請け負うが1000枚以上で、人手が足りないと話す。永徳は、秀吉が信長の位牌所として建立した大徳寺総見院に信長の肖像画を描いたが、秀吉の意向で貧相な絵に描き直しさせられた。近衛前久から永徳は絵師の魂を忘れたと批判されている。松栄は、永徳の孤立を心配し信春に手伝って欲しいという。信春は久蔵とともに手伝うことにする
 狩野図子の松栄屋敷を訪ねる。永徳は信春を見下し、画題を山水花鳥図の中の梅に小禽図とした四面の襖絵で二人の優劣をつけることになる
 信春は、ダ・ヴィンチの「ジョコンド夫人」のような背後の遠近法を用いて、梅が自然の中にある感じを強く出そうと考える。しかし永徳に勝ちたいと焦ってしまい、自分を見失う。清子に何のために絵を描くのかと問われ、信春は我に返る。中央に存在感のある老梅、春の近いことを告げる小枝のつぼみ、自然の恵みと躍動感を表す蛇行した川の渦・・、絵を描く意味が明確になり、筆が踊り、確信に近づく。
 松栄の屋敷で8人の高弟と久蔵が札入れして信春、永徳の襖絵に優劣をつける。なんと、引き分ける。青ざめた永徳は、自分の襖絵を切り裂く。久蔵は涙を浮かべ絵が可哀想と言って、松栄に修復を願い出る。
 続く

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