yoosanよしなしごとを綴る

つれづれなるままにパソコンに向かいて旅日記・斜読・よしなしごとを綴る

「等伯」斜め読み2/4

2023年06月13日 | 斜読
斜読・日本の作家一覧>   book552 等伯 上下 安部龍太郎 文春文庫 2015

上 第4章 比翼の絆 
 信春は教如15歳の肖像画を仕上げる。が、何かが欠けていると悩んでいるとき、信長軍が攻めて来た。恐怖で金縛りになるが、開き直り肖像画に向かう。若い教如の心に寄り添い、若さゆえの苦悩と可能性を慈しみ、始めから描き直す。
 雅やかな顔だち、意志の強さと聡明さ、未来にたどる波瀾万丈の人生を予感させる教如の肖像画に、前久は朝倉にやるのが惜しい、松栄は見えないものまで描き出す筆の力に感服、と誉める。


 教如の肖像画を携え、信春と前久の使者は信長軍を避けて尼崎、伊丹、池田、丹波、丹後を経て越前三国湊へ、ここから使者は越前一乗谷へ、信春は静子、久蔵のいる敦賀・妙蓮寺に向かう。
 妙蓮寺では新達上人が、追っ手が来たので静子、久蔵は妙顕寺に移ったと教える。妙顕寺で静子、久蔵と再会した信春は、前久の助言で家族3人いっしょに京都・本法寺に住めると話す。
 翌日、3人で気比神社大祭を見に行き、信春は朝倉家に仕官した兄武之丞、朝倉義景に会う(この1年後、朝倉家は信長により滅亡する)。


 1572年12月、雪の降るなか信春、静子、久蔵は本法寺に着き、日賢が部屋が8つ、客間は20畳の教行院に案内する。
 本法寺に、堺の豪商油屋常金の子で日尭上人の一門になる日通23歳が修業に来る。
 信春は、石山本願寺の伺い下絵の模写をもとに教行院の襖絵200枚を久蔵に見せながら描く。
 このころ、織田・徳川連合軍が三方原で武田信玄に大敗したのを機に、足利義昭は打倒信長の兵を挙げる。ところが、信長軍3万余が洛東・知恩院に集結し、武田信玄が病いに倒れ、信長が洛外に火を放ち、上京を焼き討ちにする。火を避け、信春は静子、久蔵を連れて大徳寺を目指しているとき、織田信忠配下の勢に見つかる。多勢に無勢、追い詰められたとき、信長の使い番である騎馬武者が助けに入る。
 信春たちは助かったが、足利義昭は信長包囲網を解くことになる。


上 第5章 遠い故郷 
 上京焼き討ちから6年、1579年、信長は安土城天守閣を完成させる。信長の居室には永徳による水墨画、金碧障壁画が描かれ、天主の絵も永徳一門が担当した。
 武田信玄が病没し、信長は足利義昭を追放する。朝倉家は滅亡し、浅井長政は自刃する。信長は近衛前久40歳を京都に呼び戻す。前久は信長政権の中枢で動くことになる。


 信春家族は本法寺が焼き討ちにあったので各地を転々としたあと、日通の縁で、堺・妙国寺の塔頭・常緑坊に身を寄せていた。妙国寺住職は、日通一門で油屋常言の子・日珖上人48歳である。
 信春は京都本圀寺日禛上人の肖像に取り組むが、絵が進まない。日禛上人18歳が、本圀寺日通29歳に案内され、妙国寺本堂で講話する。信春は日禛の講話を聞き、日禛の求道心の一途さ、気品、聡明さを絵に表現する。絵に日禛の一途な志が荘厳されていて、静子は感動し、久蔵は喜びを爆発させる。


 前後するが、堺には南蛮貿易で蓄財した日比屋了珪の店がある。了珪の屋敷に建てられた教会は南蛮寺と呼ばれた。ルイス・フロイスに同行してきたアルメイダが了珪の屋敷に住み、南蛮寺で診療を行っていた。洗礼を受けた了珪の娘サビナ春子がアルメイダの助手をする。
 常緑坊に暮らすころから静子は体調を崩し、アルメイダに肺炎と診断される。日禛上人図が完成して間もなく、サビナ春子から静子の余命は幾ばくと伝えられる。信春は静子を元気づけようと、部屋の三方の襖に七尾の山水図を描く。
 そこのろ、安土城下で宗教論争=安土宗論が起き、法華宗が負けさせられる。妙国寺は信長支配となり、信春たちは住めなくなる。
 信春は静子、久蔵と七尾へ戻ることにする。病の静子を連れ、大坂、伏見、琵琶湖関の津、湖北の塩津を経て、敦賀・妙顕寺に泊まる。七尾を追われて8年、信春は静子に苦労のかけ通しだったことを悔やむ。
 静子が夢に仏が現れたと話し、信春にあなたの絵が上達していくのを見るのが私の喜びだったので、辛いと思ったことはないと言い、久蔵に信春の弟子になり絵に精進するようにと話し、息を引き取る。
 信春は悲嘆にくれながら、妙蓮寺で葬儀を終える。静子の遺骨は、父母が眠る七尾の長寿寺に移すまで妙蓮寺に預けることにする。


上 第6章 対決
 信春は久蔵と知り合いの寺を転々としながら仏画、襖絵を描いて3年を過ぎた1582年、信長49歳が本能寺の変で没す。
 1583年、信春と久蔵は日通の世話で、日通の父である堺・油屋常金の屋敷に住む。茶会に招かれ、千利休、今井宗久ら知遇も得る。
 信春は、日比屋了珪から西洋の本を借り西洋画を習得する。静子の七回忌に、ダ・ヴィンチの「ジョコンド夫人」(=モナ・リザ)の遠近法を取り入れた鬼子母神を描こうとするが上手く描けない。油屋の娘で日通の従妹の清子は、絵の形だけを真似ていると指摘する。
 間もなく秀吉が関白になり、法華宗お構いなしとなる。京都所司代に就いた前田玄以が訪ねて来て、信春の自由を認める関白殿下の立て文を届け、近衛前久が秀吉を猶子にして関白の道を開いたことで都に戻れ、信春の自由に口添えをしてくれたと伝える。
 信春は京に上り前久に会って礼を述べる。前久は、絵師は求道者でなければならない、(永徳のように)この世の名利に目がくらんではいけないと語る。


下 第6章 対決(承前)
 信春は久蔵を連れて、1585年、上洛する。室町通理の賑わいを眺めていると、14年前に扇を描いていた扇屋浮橋の女将から声をかけられる。扇屋浮橋は三条通・衣棚通の角の了頓図子に店を移していて、隠居するので信春に任せるという。信春は、ここを住まいにし、2人の職人、千之助、茂造を引き継ぎ、新たに能登屋の看板を出して開店する。
 日通が来て、自分は本法寺に戻り、清子も手伝いで来ると伝える。
 近衛前久の嫡男・信尹が能登屋と揮毫した看板を届けに来る。
 本圀寺日禛上人から贈り物が届く。
 店は大繁盛で、大量の注文がくるので職人を増やし、清子が帳場を預かることになる。


 1586年、狩野松栄43歳が来て、聚楽第の襖絵を請け負うが1000枚以上で、人手が足りないと話す。永徳は、秀吉が信長の位牌所として建立した大徳寺総見院に信長の肖像画を描いたが、秀吉の意向で貧相な絵に描き直しさせられた。近衛前久から永徳は絵師の魂を忘れたと批判されている。松栄は、永徳の孤立を心配し信春に手伝って欲しいという。信春は久蔵とともに手伝うことにする
 狩野図子の松栄屋敷を訪ねる。永徳は信春を見下し、画題を山水花鳥図の中の梅に小禽図とした四面の襖絵で二人の優劣をつけることになる
 信春は、ダ・ヴィンチの「ジョコンド夫人」のような背後の遠近法を用いて、梅が自然の中にある感じを強く出そうと考える。しかし永徳に勝ちたいと焦ってしまい、自分を見失う。清子に何のために絵を描くのかと問われ、信春は我に返る。中央に存在感のある老梅、春の近いことを告げる小枝のつぼみ、自然の恵みと躍動感を表す蛇行した川の渦・・、絵を描く意味が明確になり、筆が踊り、確信に近づく。
 松栄の屋敷で8人の高弟と久蔵が札入れして信春、永徳の襖絵に優劣をつける。なんと、引き分ける。青ざめた永徳は、自分の襖絵を切り裂く。久蔵は涙を浮かべ絵が可哀想と言って、松栄に修復を願い出る。
 続く

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「等伯」斜め読み1/4

2023年06月12日 | 斜読
斜読・日本の作家一覧>   book552 等伯 上下 安部龍太郎 文春文庫 2015


 10数年前、内井昭蔵(1933-2002)設計の石川県七尾美術館(1995年開館)を見学した。美術館には長谷川等伯(1539-1610)を紹介したコーナーがあり、等伯が七尾の出身だったことを知った。
 その後「なんでも鑑定団」に登場した等伯の作品を鑑定士が解説するのを見て、等伯の特徴を少し学んだ。国宝「松林図屏風」は東京国立博物館に収蔵されているが、まだ実物は見ていない。
 長谷川等伯は狩野永徳(1543-1590、「book551洛中洛外画狂伝」参照)と同時代に活躍する。時代が絵師を求め、永徳、等伯という天才絵師がしのぎを削りあい、大勢の絵師が才能を伸ばしたようだ。
 「洛中洛外画狂伝」に続き安部龍太郎(1995-)著「等伯」を読んだ。阿部氏の本は「book536平城京」に次いで2冊目である。阿部氏は主題の背景をなす歴史考証に詳しい。「等伯」でも等伯の活躍が時代、社会の波に乗っていることが分かる。


上 第1章 京へ

 等伯の幼名は信春で、能登畠山氏に仕える家臣・奥村家の次男として生まれた。小さいころ武芸を仕込まれ、とくに兄武之丞はきびしかったようだ。
 信春は絵の才能があり、11歳のとき、絵仏師である長谷川家に跡継ぎがいないことから長谷川家の養子になる。のちに長谷川の一人娘静子と結婚する。信春は、養父宗清の指導で絵の才能を伸ばし、絵仏師として知られるようになる。
 信春28歳のころ、狩野永徳が24歳で描いた六曲一双の大作「二十四孝図屏風」を知り、時代を切り拓こうとする天才と感じて猛烈な競争心が芽生える。本物の絵師になるには都で和漢の名画に触れなければならない、との思いが強くなる。
 第1章「京へ」は信春33歳から物語が始まる。信春は5尺8寸≒180cmと大きい(武芸の腕、大きな体がのちに信春の人生を左右する)。妻静子は信春に献身的に尽くす。久蔵4歳がいる。久蔵も絵の才能を受け継いだようだ。
 奥村家が仕えていた畠山義綱は所領の領有権争いで重臣の七人衆と対立し、城を追われてしまう。義綱の娘夕姫は京都・三条西家に嫁いでいるが、畠山再興を画策し、信春も夕姫を頼りにしたり、裏切られたりする話が物語に織り込まれる。
 畠山義綱は越後・長尾景虎(のちの上杉謙信)、越前・朝倉義景の支援を受けて七尾城を奪い返そうとし、兄武之丞が画策して信春が巻き込まれる。
 このころ、室町幕府13代将軍足利義輝(1536-1565)が謀殺され、織田信長(1534-1582)が1568年に上洛し、15代将軍に足利義昭が就き、信長と浅井・朝倉連合軍と睨み合うなどの史実が挿入される。


 信春は、越中富山・妙伝寺から鬼子母神十羅刹女像を依頼される。信春は鬼子母神の威光を強く伝えたいと養父宗清に話すと、宗清は信仰と表現が一体になれば自然に生まれると諭す。
 奥村家の菩提寺は本延寺で、僧は京都本法寺から来た日便和尚である。信春は武之丞の指図で本延寺の花祭りに出かけるが武之丞は現れず、家に戻ると養父母が絶命していた。武之丞の画策が露見し、七人衆に責められたか?。静子と久蔵は土蔵に隠れ無事だった。


上 第2章 焦熱の道 
 長谷川家の菩提寺である長寿寺での養父母の初盆供養に信春、静子が参列すると、宗清の弟宗高が激怒し、信春に七尾から出て行けと命じる。静子は久蔵とともに信春について七尾を出る、と決意する。叔母が密かに銀三貫の手形を静子に渡す。
 京に向かう3人が江曽の宿場に入ると本光寺の僧永忍が信春を呼び止め、本光寺に行くと日便和尚が待っていて、義父母の死は絵師として精進せよという捨身と話し、洛中本法寺・日尭上人宛の紹介状を手渡す。
 
 芹川の宿から川船で羽咋に着いたとき、静子が熱を出す。羽咋の医者道頓は、心労が原因、栄養をとり静養することと診断する。静子と久蔵の寝姿を見ていて、信春は鬼子母神十羅刹女像の発想がふくらみ、下絵を描く。
 少し元気を取り戻した静子の勧めで、信春は久蔵と気多大社を参拝する。気多大社とかけ持ちの正覚院・尊海が本殿を開けてくれ、信春は7年前に描いた十二天像を改めて見る。精魂込めて描き上げた十二の神々が信春に迫ってくる。十二天像を見た久蔵は、自分も絵師になると言う。
 宿に戻ると宗高が現れていて、静子から銀三貫の手形を奪い取ってしまう。無一文になった信春には絵しかない。宿の襖に勝手に絵を描くと、宿主は怒ったが、医者道頓は気多大社の十二天像は都でも評判と話し、襖絵を八貫文で買い取ってくれた。


 信春は元気になった静子、久蔵と三国湊を経て、敦賀に入る。ところが近江で浅井と織田が戦っていて街道が閉鎖されていた。
 信春は本法寺の末寺の妙蓮寺・日達和尚を訪ね、日便上人の紹介状を見せる。日達和尚に頼み、信春だけが山道を抜けて京都に向かう、静子と久蔵は妙蓮寺に預ける、滞在費は妙伝寺から依頼された鬼子母神十羅刹女像の代金を当てる、ことにする。
 描き手の心はそのまま絵に伝わる。信春の鬼子母神十羅刹女像には、静子の久蔵への深い愛情が歓喜となって現れていた。


 信春が比叡山の尾根道を走るように進むが、延暦寺が浅井、朝倉を支援したため信長軍が関所を固めていて、何万人も兵が攻めてきた。信春が東塔へ向かうと、明智光秀勢が地獄絵のように老若男女皆殺ししていた。
 信春は横川から山を駆け上り、豊臣秀吉勢の追撃をかわし、京都への山道を下るとき、織田信忠勢20名余が僧を襲うところに出た。3歳くらいの子どもを抱いた僧がいたので、信春は一抱えほどの岩を転がし兵を散らし、子どもを抱いた僧の長刀で信忠勢に斬りかかる。奥村家で鍛えた腕前、4、5人をなぎ倒し、比叡山を逃げ下りる。助けた僧・徳善と子どもは東山の泉涌寺に避難する。


上 第3章 盟約の絵 
 比叡山焼き討ちで3000人以上が殺されてから半年が経った。信春は僧・徳善と子どもを助けたとき本法寺・日尭上人宛の書状を落としてしまう。本法寺で対応に出た日賢は、織田信忠が信春の人相書きを作って追っているので力を貸せない、と信春を追い出す。
 行く当てのない信春は扇屋浮橋の光太夫に声をかけられ、一日50枚の扇を描いて過ごし、半年が経った。
 扇の評判を聞いて本法寺の日賢が訪ねてくる。日賢は、日尭上人が病で明日をも知れない、上人の希望で信春に肖像画を描いて欲しいと伝える。
 日尭上人は信春に、私の修業がどこまで進み何が足りないのか、私のありのままの姿をのちに続く修行者に伝えたい、と話す。
 信春は全身全霊を打ち込み、絵に命と悟りを吹き込む。完成した絵を見て日尭は、肖像画には末那識にとらわれた自分が現れている、修行者は眼耳鼻舌身意の六識、次いで七段階の末那識、八段階の阿羅耶識を経て真如に至る、と話し、数日後、息を引き取る。
 日尭の一門である豪商油屋常金の莫大な寄進で盛大な葬儀画行われる。大勢が日尭上人像(本法寺蔵、web転載)に感激し、信春の名が知れ渡る。


 夕姫の侍女初音が信春を訪ねてきて、大徳寺仏間で夕姫に会うことになる。夕姫が古渓宗陳(朝倉教影の実子、のちに千利休の師)を紹介し、古渓宗陳のはからいで牧𧮾筆画「観音猿鶴図」を見る。宙にただよう空気の気配までとらえた水墨画に、信春は驚きと感動で身震いする。
 夕姫に頼まれ、信春は夕姫と御用船で大坂・石山本願寺に向かう。信春は、昇雲閣で関白太政大臣近衛種家長男前久(1536-1612)に会う。近衛家は、藤原北家、近衛、九条、鷹司、一条、二条の五摂家の筆頭である。前久24歳は比叡山で助けた子どもの父だった。
 前久は、5000の大軍を引き連れ上洛した長尾景虎(=上杉謙信)30歳と意気投合し、二人は足利義輝を助け幕府を建て直す壮大な戦略を練る。ところが長尾景虎の小田原北条氏包囲が長引き、武田信玄が景虎の隙を突き川中島に進出、さらに義輝が三好三人衆と松永弾正に弑されてしまう。前久はやむを得ず三好が押す足利義栄を将軍に立てるが、織田信長が上洛し、三好を倒し、義栄没後、足利義昭を15代将軍とする。間もなく信長と義昭は齟齬となる。前久は信長打倒のため政略結婚を進め、石山本番寺・顕如の子である教如を猶子にし、朝倉義景の娘と縁組みしようとしていた。
 前久は、縁組みのための教如の肖像画を信春に頼む。石山本願寺では狩野松栄(永徳の父)が200畳の大広間の襖絵を描いていて、前久は信春を松栄に紹介する。信春は教如の肖像画に取り組むあいだ、狩野派の技法を学ぶことができた。
  続く
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2022.9山梨・昇仙峡を歩く

2023年06月07日 | 旅行
 2022.9 山梨・昇仙峡を歩く


 武田神社をあとにして県道31号線、県道6号線を西に走り、笛吹川に合流する荒川に沿った県道7号線を北上する。山が迫ってくる。県道7号線は昇仙峡ラインと呼ばれ、荒川上流にはおよそ6kmに渡る渓谷=昇仙峡が続く。景勝地として人気だが、訪ねるのは初めてである。
 県道7号線=昇仙峡ラインは荒川に架かった長潭橋を渡ると、荒川沿いのルートと東のグリーンラインに分かれる。荒川沿いルートは平日上りだけの一方通行、土日祝日車両通行止めになる。グリーンラインを走る。グリーンラインからは渓谷は見えない。


 荒川に架かる静観橋を渡り、昇仙峡ロープウェイの駐車場に車を止め(写真)、昇仙峡ロープウェイでパノラマ台に向かった。往復1300円のロープウェイは、乗り口の仙娥滝駅あたりの標高が700m、降り口のパノラマ台駅あたりが1010m、標高差310m、全長1015mを5分で上る。
 ロープウェイから眺めると、荒川ダム能泉湖が見える(写真)。ロック式ダムのようで、湖手前の斜面が長い石積みになっている。
 能泉湖の先は緑の山また山が限りなく続いている。緑の山あいが湖の源流であろう。
 パノラマ台駅に着くと、展望台からたなびいた雲の上に勇姿を見せる富士山を遠望できる(写真)。富士山の遠望だけでもロープウェイで上ってきた甲斐があったと思う。左右対称の稜線が実にきれい、しばし眺める。
 展望台から山道が延びている(写真)。15分ほど歩くと標高1058mの弥三郎岳に登れるらしい。弥三郎岳までの標高差は50mほど、楽に登れそうである。山道は岩盤のように堅く、乾いた表層の砂が滑りやすい。ゆっくり歩く。
 岩の隙間や岩の切れ目の表土から樹木が勢いよく伸びていて、木の生命力に感心させられる。木々のあいだから山並みが遠望できるが、山道は狭く崖が深いので気を抜けない。
 10数分歩くと巨大な岩盤が立ちふさがる(次頁写真)。この岩盤が弥三郎岳山頂らしい。岩盤に凹みがえぐられていて、鎖を頼りに岩盤を登る。岩盤に根付いた松の木が、まるで鳥居か三門のように伸びだしている。松の枝をくぐり、弥三郎岳山頂に出る。
 驚いたことに、巨大な岩盤の頂部はお椀を伏せたように丸くなっていた。手すりはない。丸くなった岩盤頂部は滑りそうで、膝の不安があると足がすくむ。
 なんとか踏ん張り、360度の風景を眺める。ほぼ真南に富士山が雲から頭を出している(写真)。西には甲斐駒ヶ岳?・・、北には八ヶ岳?・・、東には甲武信ヶ岳?・・の山並みがぐるりと囲んでいる。見下ろすと山裾に街並みが見えている。
 360度の展望を眺めるが、足下が落ち着かない。深呼吸もそこそこに、おそるおそる岩盤を下る。松の枝をくぐり、鎖につかまり降りきった。
 山道を引き返す。見晴らしのいいところで、同年配の夫婦が眺めを楽しみながら持参のおにぎりを食べていた。ホッとしたせいか空腹を感じた。昇仙峡ロープウェイを下り、駐車場近くの食事処をのぞいたが、昼どきのせいか混み合っていた。


 車で静観橋まで下る。静観橋手前に仙娥滝入口があり、隣に食事処があったので、食事処に車を入れる。昇仙峡は蕎麦と水晶の里だそうで、手打ち蕎麦を食べる。
 仙娥滝入口から渓谷に沿って遊歩道が整備されている。遊歩道を歩き始めると石の鳥居が建っている。昇仙峡マップには昇仙峡ロープウェイのさらに北に夫婦木神社、金桜神社が記されているから、渓谷沿いの遊歩道は神社の参道だったかも知れない。
 遊歩道は岩肌を見せた崖が迫っている。少し下ると豪快な音を立てる滝が現れた。仙娥滝である(写真)。地殻の断層を荒川が流れ落ち、高さ30mの滝になったそうだ。しぶきが飛んで来そうな勢いがある。マイナスイオンをたっぷり吸い込む。
 遊歩道をさらに下り、荒川に架かった昇仙橋を渡る。遊歩道は対岸に移る。荒川の両側は切り立った岩盤である。
 見上げると切り立った岩が天を突くように見える(写真)。昇仙峡マップには覚円峰と書かれている。昔、畳数枚の広さの頂上で僧侶覚円が修業したので名づけられたそうだ。先ほど登った弥三郎岳山頂をイメージすると、気持ちを集中しないと頂上から滑り落ちるであろうから、修業の厳しさが想像できる。
 川には大きな岩がごろんごろんしている(写真)。今日の荒川は岩に遠慮するように白いしぶきを上げながら流れている。だが大雨で勢いのついたときは、流れが岩を砕き、岩を転がすのであろう。荒川と名づけられたのが納得できる。


 石門と呼ばれた岩が遊歩道を覆っている(写真web転載)。左の崖から岩盤がはがれ落ち、はがれた岩盤を右の大岩が支えているように見える。
 記念写真にカメラを構える人が多いが、触らぬ神に祟りなし、急ぎ足で石門を抜ける。
 石門の先に長田円右衛門の碑がある(次頁写真)。1800年代、山を切り、谷を割って昇仙峡新道を切り拓いた人物だそうだ。荒川両岸の岩盤を見ると、新道開削が困難を極めたであろうことが想像できる。
 碑の先は柵で立入禁止になっていた。落石の恐れがあるそうだ。石門のような岩盤が剥落してきたら逃げようがない。素直にUターンし、石門を抜け、切り立った岩盤を眺め、覚円峰を見上げ、仙娥滝でマイナスイオンを浴び、車に戻る。


 昇仙峡は6kmに渡る渓谷美がうたい文句なのに、通行止めで20分、1kmほど=往復35分、2kmほどしか歩いていない。昇仙峡マップを見ると、昇仙峡の始まりは長潭橋あたりで、橋の先に昇仙峡口バス停、橋の手前に天神森バス停と天神森市営無料駐車場がある。
 グリーンラインを下り、天神森市営無料駐車場に車を止める。ここから荒川に沿った平日一方通行、土日祭日通行止めの道路を歩く。道路は一方通行だがすれ違える広さがある。グリーンラインができる前は、ここが県道7号線=幹線道路だったようだ。
 仙娥滝あたりは荒川両側の切り立った岩盤が迫っていたが、天神森あたりは切り立った岩盤はなく、斜面は林で覆われ、川沿いに大岩、奇岩が続いている(写真)。大岩・奇岩には亀石、大砲岩、オットセイ岩、トーフ岩など、言われればそう見えなくもないと思える名がつけられている。
 名前のついた大岩・奇岩を眺めながら15分ほど歩く。仙娥滝あたりの遊歩道は大勢が散策していたが、天神森側は誰とも会わない。単調な風景を15分=往復30分ほど歩いて車に戻った。


 今日の宿は湯村温泉である。県道7号線を下り30分ほどで宿に着いた。湯村温泉は弘法大師が1200年前に開湯し、武田家も湯治に利用したといわれる。泉質はナトリウム・塩化物泉である。塩分は殺菌効果があるから、武田家の武将は戦いの傷を湯村温泉で癒やしたのかも知れない。
 透明で、臭いはほとんど感じない。塩分のせいか肌がすべすべする。弥三郎岳を登った足をよく揉みほぐす。夕食では山梨のワイン蒼龍と地酒七賢をいただいた。快食、快飲し、快眠する。
  (2023.6)

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