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司馬遼太郎著「箱根の坂」下で早雲は「百姓の持ちたる国」を目指し伊豆、三浦半島、そして箱根を越える

2018年09月23日 | 斜読

book471 箱根の坂 上中下 司馬遼太郎 講談社文庫 2004  

下巻
 早雲は「百姓の持ちたる国」と考えているため、年貢が四公六民である。百姓は暮らしが楽になり、早雲は慕われていた。
 反面、早雲と家族の暮らしはつつましく、家臣も薄禄で、財政は逼迫していた。一方、伊豆の農民は貧窮していて、興国寺城領に逃げ込んでくる者も少なくない。
 早雲は「百姓の持ちたる国」を目指し、伊豆を手に入れ、三浦半島の三浦氏を滅亡させる。戦国時代の始まりである。そしてついに箱根を越え、小田原城を攻め落とし、相模を支配下に置いて「百姓の持ちたる国」を実践する。

伊豆の山
  早雲の考える百姓の国には四公六民が基本だが、領地はわずか12郷しかなく財政が逼迫していた。早雲は伊豆を支配下に置こうと考えた。ここで司馬遼太郎は伊豆の歴史、地形、勢力を解説し、後段で金にも触れる。

 伊豆の堀越には公方足利政知がいる。伊豆の百姓は伊豆公方を養わなければならない。伊豆の守護職は関東管領山内の上杉顕定で、山内上杉は扇谷の上杉定正と戦を繰り返していて、戦費のため重税をかけていた。そのため、興国寺城領への逃亡が続いていた。
 早雲58才のとき、次男氏時が生まれる。早雲60才のとき、北川殿=千萱が病没する。
修善寺の湯
 
  堀越の伊豆公方足利政知には病没した夫人の生んだ長男茶々丸、後妻の子である次男義遐、末弟がいた。公方・後妻は茶々丸を退け、義遐を跡継ぎとして育てた。
 長男の茶々丸は公方に就こうとして、父政知、義母、末弟を殺してしまう。義遐は逃げだし、早雲に助けを乞う。
 早雲は茶々丸を倒すべく、堀越の検分に向かう。途中、修善寺でおじの禅僧隆渓に会う。隆渓は「公方は百姓のために何もなさらなんだ、ただ搾るのみ」「天下は天下の天下なり」と怒り、早雲の援助を引き受ける。

出帆
 
早雲は小川法栄から船20艘、今川氏親から武者200を借りる。朝比奈太郎は手勢50で加わる。「百姓の持ちたる国」を目指して伊豆に向かう。

襲撃
  早雲の襲撃で茶々丸は逃げだし、三浦半島の三浦氏の保護を受けた。三浦氏は山内上杉方である。一方、伊豆の国人、地侍、百姓は、「百姓の持ちたる国」を標榜する早雲を待ちかねていた。

三浦半島
  早雲は「時という人の知恵や力ではどうしようもないものがある」と、三浦攻めの機会を待った。

 三浦半島は西の大森氏頼と東の三浦時高が二大勢力だった。三浦時高は跡取りに扇谷上杉の出である義同を養子をもらったが、年老いて実子高敦が生まれたので、義同を亡き者にしようとする。義同はいち早く母の出の小田原城主大森氏頼を頼って逃げる。
出陣
 
三浦義同は信望する兵を集め、新井城にこもる三浦時高を攻める。時高とともに茶々丸も自刃する。

秋の涯
 扇谷上杉と山内上杉の戦いに古河公方が登場する。

高見原
  またも扇谷上杉と山内上杉の戦線が開かれた。早雲は扇谷上杉軍として善戦するが、扇谷上杉定正は落馬し首がはねられる。早雲はしんがりを務めながら、敗走する。

三島明神
  早雲は早急な財政を立て直しが急務だった。敗者の扇谷上杉氏、勝者の山内上杉氏ともに地頭、地侍、国人たちは連年の戦いに嫌気がさしていた。小田原城大森氏も跡継ぎに統率力が無く、衰退していた。早雲は大森氏攻略を練る。

箱根別当
  早雲は箱根権現別当海実に会い、相模を百姓の持ちたる国にするべく、大森氏攻略を明かす。

坂を越ゆ
  早雲は箱根の地勢を読み解き、戦略を立て、一気に小田原城を攻め落とす。

早雲庵
  早雲は本拠を韮山に置きながら、小田原城の普請を進め侍を城内に常駐させた。相模の東半分を領する三浦勢は戦力がしのいでおり、秋の収穫時に攻めてきて麦、稲を刈り取るも、早雲は戦わず17年も待ち続ける。機が熟し、酒匂川で三浦軍を壊滅させ、岡崎城まで落とす。三浦氏を滅亡させて相模を支配下に置き、四公六民とともに士農へ日常規範の訓育を進める。

 1519年、早雲87才で病没、長男氏綱が後を継ぐ。のち、氏康、氏政、氏直と栄え、豊臣秀吉の小田原征伐で後北条家は終わる。
 早雲自身は北条を名乗らず、氏綱から北条氏になったというのが定説である。鎌倉幕府の執権を務めた北条氏と区別するため、後北条氏と呼び分けている。

 京の伊勢新九郎=早雲は妹分千萱、その子ども竜王丸=のちの今川氏親を助けるため駿河国に向かう。このときすでに時代の変化を読んでいて、これからの日本を考えていたのかも知れない。興国寺城主になったころから生涯の生き方である「百姓の持ちたる国」を目指す。四公六民がその表れであるが、財政が逼迫してしまう。財政難解消のためには領地を広げなければならない。早雲の周辺で起きる跡継ぎ紛争、勢力争い、民を顧みない公方、管領を理由に伊豆、東相模、西相模に進出していく。司馬遼太郎は、早雲を民のための戦いとして描いていく。美化しすぎとも思えるし、早雲が現れなくても戦国時代が到来しただろうが、北条氏を興した早雲が江戸時代に続く武家社会の先駆けであることはよく理解できた。(2018.9)

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