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2018.4 石川丈山造営の史跡詩仙堂は凸凹を活かした名園も見事

2018年09月30日 | 旅行

2018.4 京都を歩く 3日目 ③詩仙堂

凸凹の土地を活かした詩仙堂は名園も見事
 京阪本線は鴨川に沿って北上する。といっても地下を走っているので風景は見えない。終点の出町柳駅で叡山鉄道に乗り換えになる。地下でも連絡しているが、地上に出て風景を眺める(写真は叡山鉄道改札口)。
 鴨川に賀茂大橋が架かっていて、賀茂大橋から右の上流が高野川、左が鴨川に分かれる。高野川と鴨川に挟まれた三角州デルタに糺の森、下鴨神社が位置する。
 2016年5月、鞍馬寺から貴船神社を歩き、叡山鉄道で出町柳に出て、賀茂大橋を渡り、今出川通を歩いて相国寺を拝観した。そのときの記憶と重なり、地理が何となく分かってくる。地図を確かめ、公共交通で実感しないと、地理はなかなかつかめない。


 11:00過ぎの叡山鉄道に乗り、出町柳駅から3つ目、5分ほどの一乗寺駅で降りる。2010年11月、土日を挟んで息子夫婦と紅葉の京都を歩いた。詩仙堂も訪ねたが、人気のスポットのようで、道路まで人があふれていて、参観は諦めた。今回は4月終わりの平日だから空いていると予想しての再挑戦である。

 駅を出て、曼殊院道を東に歩く。一乗寺駅、曼殊院道など、古都らしい名前がいい。白川通という大通りを渡ったあたりから上り坂になる、かなりの勾配になって間もなく詩仙堂に着いた(写真)。予想通り、空いていた。
 徳川家康に仕え、大坂夏の陣で功名を立てた石川丈山(1583-1672)は、その後、文人を目指し、1641年、59才のときに隠居所として詩仙堂を造営した。
 詩仙堂の名は、中国の漢晋唐宋の詩家36人の肖像を狩野探幽(1602-1674)に描かせ、詩を書き加えて四方の壁に掲げ、詩仙の間と呼んだことに由来する。

 パンフレットにもweb情報にも凹凸窠と書かれている。凹凸窠は凸凹した土地に建てられた草庵=住居の意味だそうだ。この言葉は初めて聞く。
 確かに来るときは急勾配の坂道だったし、門からの石段が一直線で上れないのも凸凹の影響のようだ(前掲写真)。丈山は庭造りの名手でもあり、凸凹の庭や建物を10の景色=凹凸窠10境に仕立てていて、史跡に指定されている。

 凹凸窠10境の第1が前掲写真の「史跡詩仙堂」の碑のある山茶花の樹影の下の小さな門で「小有洞の門」と名付けられている。
 石段を左に折れさらに石段を上った先に老梅が植えてあったそうでここが第2境「老梅関」になる。老梅関の門の先に詩仙堂が建っている(写真)。開け放しの間と雲形の窓を開けた土壁を組み合わせ、屋根の高さ、勾配を変えて表情を豊かにしている。
 屋根には楼閣が空に向かってそびえている。楼閣に登り月を見上げて朗吟したそうで、第5境「嘯月楼」の名が付いている。丈山の自由闊達さを感じる。

 拝観入口はかまどのある土間(前掲写真左奥)に設けてあり、500円の拝観料を払って屋内に入る。座敷に上がると、開け放たれた先に庭が広がっていて、明るい庭に目が行く(写真)。
 座敷から見る限り、庭の先は木立で終わっているように見えてしまうが、実は斜面が下に広がっていて、趣向をこらした造園を回遊することができる。

 座敷の一つが、中国の詩家36人の肖像に詩を書き加えて壁に掲げた第3境「詩仙の間」である(写真、web転載)。隣の部屋は第4境「至楽巣」という読書室、その脇に深い井戸の第6境「膏肓泉」、侍童の間である第7境「躍淵軒」が続く。
 庭に下りると、左手に第8境「洗蒙瀑」と名付けられた滝がある。その水が流れ込む池が第9境「流葉はく」になる。回りには斜面を活かした百花の植え込み第10境「百花塢」がつくられている。
 凹凸の多い斜面地のため平地が区切られてしまうが、それを逆に活かして小さな景色を小径でつなぎ奥行きのある庭に仕立てている。その小さな庭ごとに、四季折々にふさわしい植栽を配置して楽しんだようだ。
 藤棚の下にベンチがあった。座ると、静寂に包まれる。ときにはこうした緑の静寂に包まれる時間も必要である。詩仙堂の人気は庭にあるようだ。

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