2018.4 京都を歩く 3日目 ②三十三間堂
三十三間堂/境内を歩き→60年ぶりに観音菩薩に再会
本堂入口は大型バスから降りてきた生徒でごった返していたので、先に境内を歩いた。
本堂には濡れ縁が巡っている(前掲写真)。江戸時代、三十三間堂の縁側の北端に的を置き、南端から矢を射る「通し矢」が競われたそうだ。
前掲写真からも想像できようが、およそ118mの先は肉眼ではもうろうとしている。当時の武士はよほど遠目が効き、118mを射通す力があったことになる。
いまは成人式に現代版通し矢が行われているが、前庭に設けられた射場は60mだそうだ。パソコン、スマホ、テレビで目を酷使し、身体を昔ほど鍛えていない現代人は、60mでも的が定まらず、矢も届かないかも知れない。
境内東中ほどに夜泣泉と書かれた井戸がある。説明には本堂建設の翌年、僧が夢のお告げで清水の泉を掘り当てたそうだ。
このあたりは東山からの伏流水が流れていて、水脈を見つければ井戸を掘ることができると思うが、夢のお告げの方が仏のありがたさを感じさせる。
泉の湧き出す音が子どもの夜泣きに似ていることから夜泣泉と呼ばれるようになり、いつのころからか夜泣き封じの願をかける地蔵が置かれたらしい。
夜泣泉あたりに東大門があるが、三十三間堂パンフレットにもwebにも東大門に触れていない。
そのまま南外れまで歩くと、塀の外に堂々たる南大門が見える(写真)。塀が巡っていて出られないので、鉄格子扉の隙間から眺めた。
豊臣秀吉(1537-1598)が、南大門、西大門、築地塀=太閤塀を寄進したそうで、秀吉らしい豪壮な構えである。切妻瓦葺き屋根、柱間3間の八脚門で、桃山時代の遺構を残していて重要文化財に指定されている。
西大門は明治時代に東寺の南大門として移築され、やはり重要文化財の指定を受けている・・東寺を訪ねたとき南大門も見ている。重要文化財の指定も受けていて、説明板も読んだはずだが、三十三間堂西大門だったことは意識に残っていない・・。
ただし、南大門には1600、豊臣秀頼と記されているそうで、再建のようだ。
南大門に続き三十三間堂の南には豊臣秀吉が寄進した築地塀=太閤塀が残っている(写真、web転載、左が南大門)。鮮明な黄土色で、末広がりに少し傾斜していて、瓦屋根を載せ、瓦には豊臣秀吉の桐紋が焼かれている。高さは5.3mもあり、堅牢なつくりをうかがわせる。
修復のとき、1588と刻まれた桐紋の瓦が見つかったことから、南大門、西大門、築地塀=太閤塀ともに1588年築造と推定されている。いずれも桃山時代の遺構で、重要文化財である。
境内の西側に回る。三十三間堂の東正面は中央に向拝が伸び出している(前掲写真)が、西背面は向拝が無いのでおよそ118mの長さが実感できる(写真)。境内を歩いている人は少ない。生徒は本堂の仏像に圧倒されてしまうのか、境内までは足が向かないようだ。
拝観口に戻る。ちょうど一団の生徒が出てきたところだった。生徒たちは、1001体の観音菩薩像に興奮させられたのか、みんな上気しているように見える。
三十三間堂の観音菩薩群はテレビや美術書などで何度も見ている。しかし、いくら詳細で鮮やかな画像でも画面、印刷物は本物とは実感が異なる。本物は仏堂という厳かな空間と一体になって拝観者に迫ってくる。だから、いくら画像に見慣れていても、本堂での再会は生徒たちのように興奮を感じるに違いない。
本堂に入る。一瞬、1001体が宙に舞い上がり、私に穏やかな顔を向けたような錯覚にとらわれた(写真、堂内撮影禁止、web転載、出口側からの眺め)。いきなり足が止まり、目が釘付けになる。
観音菩薩の正式な名称は、十一面千手千眼観世音である。実際に11面、1000手、1000眼があるということではなく、無心に手を合わせると11面1000手1000眼の法力を感じることができるということであろう。
入口側からは全体の構成が分からないが、中央下段の中尊を中心に左右それぞれ10段、50列に観音菩薩立像が並んでいる。
中尊とその他の観音菩薩あわせて1001体、さらに、左右両端の高みに風神と雷神、最前列と中尊の四方に28部衆と呼ばれる仏像が配置されている。
観音菩薩をゆっくり眺めながら、東側の廊下を進む。一般の拝観者も多い。ガイドから説明を受けているグループもいる。10段に重なって並んでいるので後の方の観音菩薩は見えないが、先頭の観音菩薩は10体分の迫力を感じさせる。
南北桁行は35間118mだから、観音菩薩は単純計算で118÷35間×33間÷100列≒1.1m間隔で並んでいることになる。少し小股の2歩ごとに観音菩薩と相対しては、顔を拝観した。
中尊の前では、混雑しているので立ったまましばし合掌する。出口側までゆっくり拝観して、もう一度始めから拝観しようと人混みを縫って入口側に戻ろうとしたが、新たな生徒の一団が入ってきた。とても戻れないので、中尊に再度合掌し、出口側に戻った。
観音菩薩は桧材の寄木造り+漆箔で、124体は三十三間堂創建時の平安時代作、800余体は鎌倉時代の再建時の復興で、中尊は仏師運慶の長男の湛慶(1173-1256)の作だそうだ。中尊は国宝、1000体の観音菩薩は重要文化財だが、観音菩薩1000体も2018年中に国宝指定の予定だそうだ。
雲にのった躍動感のある木彫の風神・雷神は鎌倉時代復興期の作で、寄木造り+彩色で玉眼であり、国宝である。俵屋宗達の風神雷神図のモデルともいわれる。いかめしい顔をした28部衆も、寄木造り+彩色で玉眼であり、国宝である。
出口側から振り返ると、もう行くのか?、よくよく仏教に帰依せよ!、といわんばかりの観音菩薩群の視線を感じた。
仏像1体でも厳かさを感じるのに、中尊+100体+28部衆+風神雷神はベートーベン交響曲第9番の大合唱に勝るとも劣らない迫力で拝観者を包み込んでくる。60年ぶりぐらいになる再会だったが、初めての拝観のような感動を覚えた。
およそ60分の拝観を終え、10:50ごろ七条駅から京阪本線に乗る。