yoosanよしなしごとを綴る

つれづれなるままにパソコンに向かいて旅日記・斜読・よしなしごとを綴る

2018.1メキシコの旅9 車窓からアステカ最後の王クアウテモク記念碑、建国の父フアレス記念碑を見る

2018年03月11日 | 旅行

2018.1 メキシコの旅9 3日目 ディアナ・カサドラ噴水 クアウテモク記念碑 ベニート・フアレス記念碑
 2018年1月27日・土曜、5時ごろ目が覚めた。肌寒さを感じたが、持参の温湿度計は22°43%で、極端に寒いわけではない。寒気は2200mを越える高原のせいだろうか。2度寝すると寝過ごすかも知れないし、肌寒いので起きることにした。
 6:30、朝食に降りたら、日本人が大勢いた。やはりこのホテルは日本の旅行社に馴染みのようだ。食材は豊富だがほとんどは昨日と同じである。ときおり、ピリ辛を感じる。唐辛子が隠し味になっているようだ。
 今日は移動日なので、スーツケースを廊下に出す・・トラブルを防ぐため室内に置いたままのときもあるので、添乗員はドアの内側か外側か何度も念を押していた・・。

 出発までのあいだ、散策に出る。レフォルマ通りPaseo de la Reformaの車をすり抜け、緑道に渡る。新しい発見を探して独立記念塔の反対方向に歩き、次の交叉点で噴水を見つけた。弓を射る女性の彫像が飾られている。
 google地図にはFuenta de la Diana Cazadoraディアナ・カサドラ噴水と記されている。ディアナはギリシャ・ローマ神話に登場する月の女神、狩猟の女神である。いままさに弓を射る、といった躍動感にあふれた像はいかにも狩猟の女神らしいが、メキシコのこの地で何を狩ろうとするのだろうか。
 完成は、都市の美化、芸術化が進められた1900年代半ばだそうだ。彫刻家は神話の世界をテーマにすることで、政治から離れようとしたのかも知れない。

 8:40、ホテルに戻り、バスに乗り込む。レフォルマ通りPaseo de la Reforma=改革通りを北東に進む。土曜早朝にもかかわらず車は多い。流れが悪いので、車窓をゆっくり眺められる。
 ガイドが指さした。coanacochと銘打った彫像が胸を張り、空を見上げている。google地図、「歩き方」にはMonumeno a Cuauhtemocクアウテモク記念碑と記されている。クアウテモクは、アステカ最後の王である。

 アステカは、19世紀にドイツ人の学者・探検家が名付けた造語とされる。メキシコ中央高原の各地からメキシコ盆地に移り住んだ人々のうち、メシカ人が1300年代初頭、テスココ湖の島にテノチティトランと呼ばれた都市国家を築いた。同じようにアコルワ人がテスココ都市国家、テパネカ人がトラコパン都市国家を築いた。
 ほかにも都市国家があったらしいが、1428年ごろ、テノチティトラン国、テスココ国、トラコパン国が3国同盟を結び、テスココ湖の北~南をテノチティトラン国、テスココ湖の東をテスココ国、テスココ湖の西をトラコパン国が領有した。
 ドイツ人学者・探検家はこの3国同盟をアステカ王国と総称したようだ。主導権を握っていたのがテノチティトラン国だったので、一般にはテノチティトラン王=アステカ王とされている・・にわか勉強だから勘違いがあればご容赦を・・。

 1519年、コルテス率いるスペイン軍はテノチティトラン国に侵攻、モクテマス2世を倒す。続くクィトラワク王は病死、代わったクアウテモク王を1521年に殺害し、テノチティトラン国は滅亡する。
 前後してトラコパン国、テスココ国が滅ぼされ、アステカ王国が滅亡した。彫像はかつての王者の威厳を称えているのであろう。

 レフォルマ通りにはほかのアステカ王たちの彫像が空に向かって胸を張っているかも知れないが、次に見えたのはコロンブス(1451?-1506)の彫像Monumento a Colonだった。ガイドは、スペインでは英雄だがメキシコでは悪者として嫌われている、と話す。コロンブスが嫌われるくらいだから、アステカ王国を滅ぼした当事者のコルテスは話題にも上らないのか、記念碑は見当たらない。
 ファレス通りAv. Juarezを東に折れる。通りの北側は広々としたアラメダ公園Alameda Centerが広がっている。樹木が整然と並んでいて、木陰にくつろいでいる人々が見える。alamedaは遊歩道の意味で、緑陰の中に幾何学的な遊歩道が整備されている。
 その公園の中ほど、通りに面して半円形の列柱廊を背にしたベニート・フアレス記念碑Hemiciclo a Jurezが見えた(写真)。

 フアレス(1806-1872)は先住民の農家に生まれたが、両親ともはやく亡くなる。読み書きができなかったが、向学心に目覚め、フランシスコ会の支援を受けて熱心に勉強し弁護士となり、オアハカ州の知事も務めた。改革派の政府を立ち上げるが保守派に負け、アメリカに亡命する。
 アメリカ合衆国の支援を受けてメキシコに戻り、1861年、大統領に選ばれる。
 保守派の政権時にイギリス、スペイン、フランスから莫大な負債を負っていた。ナポレオン3世軍は債務を理由に1862年、メキシコに侵入、1863年、メキシコシティを占領、1864年、マクシミリアンがメキシコ帝国皇帝に就く。
 フアレスはアメリカ合衆国の支援を受けて徹底抗戦したためフランス軍は撤退し、1867年、マクシミリアンは銃殺刑となる。
 ただちにフアレスは共和制を宣言、同年の選挙で大統領に再選された。フアレスは近代化を促進させ、民主主義と先住民の平等を推し進めたが、1872年、心臓発作で息を引き取った。
 いまでも建国の父として慕われているそうだ。「功績のあるベニート・フアレス、故郷に」と刻まれた台座の上で、二人の天女に守られたフアレスは揺るぎのない信念をうかがわせていた。続く

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