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2018.1メキシコの旅12 コルテスはアステカ王城跡に宮殿を建設、コルテスの命じた大聖堂は威容を誇る

2018年03月23日 | 旅行

2018.1 メキシコの旅12 3日目 メキシコシティ/テンプロ・マヨール サグラリオ教区教会 メトロポリタン大聖堂 ソカロ広場 国立宮殿

 9:30、大聖堂の左手、東の一区画に位置するテンプロ・マヨールTemplo Mayor=アステカ王国中央神殿跡をのぞく(写真、ホームページ参照)。

 1300年代初頭、テスココ湖の島にテノチティトラン国が築かれたことはメキシコの旅10に記した。1519年にアステカ王国を滅ぼしたコルテス(1485-1547)は、アステカの都市を破壊し、チチカカ湖を埋め立て、テノチティトランの都跡にスペイン風の街をつくり、メキシコシティMexicocityと呼んだこともすでに書いた。
 格子状の道路で整然と区画され、街の中心にソカロ広場が配置され、メトロポリタン大聖堂が建てられた。テノチティトランなどアステカの街は地上から姿を消し、忘れ去られた。
 1913年、大聖堂の東で地下へ降りる階段が発見された。さっそく発掘が始まり、テノチティトランの遺構と判断された。1979年には直径3.25mの巨大な石板が発掘された。1450~1500年ごろの石板で、アステカ神話の月の女神コヨルシャウキが彫られていて、ここがテノチティトランの中央神殿テンプロ・マヨールTemplo Mayorだったことが分かった。

 歴史的な発見であり、アステカ王国の遺構の全容の発掘が待たれるが、地上にはメトロポリタン大聖堂を始めとしたスペイン風の街並みが建ち上がっていて、発掘はなかなか進まないようだ。
 さらには、テンプロ・マヨールの下にも遺構があるらしい。古い神殿の上に重ねて新しい神殿を建て、時代が過ぎると?王が替わると?天変地異が起きると?、さらにその上に重ねて新しい神殿を建てたらしい。伊勢神宮の式年遷宮であれば20年ごとに隣の敷地に建て替えていくが、アステカでは上に重ねて建て替えていくのかも知れない。

 写真奥は崩れたピラミッドである。ピラミッドの石も建物の外壁に転用されたり、チチカカ湖の埋め立てに利用されたりして、原形をとどめていない。復元も難しそうである。入場すると赤い神殿跡や生け贄を載せたチャック・モールの石像、蛇頭像などが見られるらしいが、私たちは上からのぞいただけで大聖堂に向かった。
 9:55、メトロポリタン大聖堂Catedral Metropolitanaはソカロ広場を圧倒するほど巨大な威容を誇っている(写真、左が双塔のそびえる大聖堂、右はサグラリオ教区教会)。
 アステカ王国時代の王城は現ソカロ広場の東あたりに建っていたらしい。1519年にアステカを征服したコルテスは王城を破壊し、1523年、王城跡に宮殿を建て始めた。同時進行で、ソカロ広場やコルテスの居城であり植民地の本拠となる宮殿を中心に、スペイン風の街づくりが進められていった。
 1563年、ソカロ広場の北に大聖堂の建設が始まった。コルテスは1540年にスペインに帰国、1547年に死んだが、コルテスは居城と同時に大聖堂の建設も命じていたようだ。建設は、街の骨格ができ、住民の居場所が定まり始めたころに着手されたのではないだろうか。コルテスのスペイン帰国やカリフォルニア遠征、コルテスの死なども影響したのかも知れない。

 大聖堂の右に建つのはサグラリオ教区教会Parroquia Asuncion Sagrario Mtoropolitanoである(写真、ホームページ参照)。1749~1769年に、大聖堂付属の宝物、図書、資料、司祭の衣類の保管所としてつくられた。
 大聖堂の外観は灰色の石を基調にするが、サグラリオ教区教会は赤みの石を基調にして、隅角部やファサードに灰色の石を配し、小さいながらも存在感が強調されている。ファサードの彫刻は細かな動きまで表現された、秀逸な造形である。が、外観を眺めて通り過ぎた。

 サグラリオ教区教会の先に大聖堂の入口がある。メトロポリタン大聖堂は、スペインの力を誇示し、キリスト教への改宗を促すため?、高さ29m、奥行き110m、幅55mの巨大さを誇る豪壮な構えである。
 完成は着工から120年後の1681年になった。堂内は、オーダーを載せた円柱には古典的なつくり、高い天井とリブドームにはゴシック的なつくりがうかがえるが、金を用いた装飾を始めとして基調はバロック様式で、明るく華やかである(写真、ホームページ参照)。
 中央に、スペインの大聖堂では一般的な形式の高位聖職者席・聖歌隊席コロが配置され、大聖堂の品格を表している。 

 コロ壁面の身廊側祭壇には褐色のイエス像が飾られている(写真、ホームページ参照)。褐色の聖母マリアはスペイン・グアダルーペ修道院で見た・・スペインを行く22・・。メキシコでも褐色のグアダルーペの聖母が現れ、その後寺院が建てられ、いまでも巡礼者が絶えないそうだ。フランス、ポーランドでも褐色の聖母マリアが祭壇に飾られているらしい。しかし、褐色のイエス像は珍しいのではないだろうか・・webにはペルーのヘスス・マリア教会に飾られていたとの情報あり・・。先住民にキリスト教改宗を受け入れやすくするためのアイデアかも知れない。

 大聖堂前の広場の床にガラスがはめ込まれ、アステカ王国の遺構がのぞけるようになっているが、ガラスが曇っていて見えなかった。webには地面の沈下の様子が分かるとの説があったが、テノチティトランは小島の上に建設された都だから地盤は固いと思う。ガラスの曇りが誤解を招いたのではないだろうか。
 
 メトロポリタン大聖堂の南がソカロ広場Zocaloになる(写真、ホームページ参照)。催し物が開かれているようで、テントが張られ、大勢が行き交っていた。ソカロ広場の南東、写真中央奥は最高裁判所で19世紀の建物、写真右は政府庁舎として使われている建物で、連続アーチの開廊が設けられているから商業系の建物を兼ねていて、年代も古そうだが、詳細は分からない。
 ソカロ広場の東、写真の左の建物は国立宮殿Palacio Nacionalである。前述したが、コルテスはアステカの王城を破壊し1523年、王城跡に自らの居城の建設を始めた。アステカの財宝を略奪して資金は潤沢であり、先住民を労働力としたから贅を尽くした居城になったに違いない。
 その居城は1624年に火災に遭い、1692年に倒壊し、その後再建されたのが現国立宮殿である。全長200mにおよぶ壮大さは、メキシコに君臨する為政者の威厳を表しているようだ。

 ガイドブックには、正面階段を覆い尽くす壁画が最大の見どころで、「メキシコの歴史」と題された壁画はディエゴ・リベラの最高傑作だと書かれているが、私たちは次の観光があり、通り過ぎてバスに乗った。

 10:10、バスはソカロ広場から北に向かって走り出した。レフォルマ通りを渡った右に三文化広場Plaza de la Tres culturasがある。三文化の3とは、アステカ王国時代のトラテルロコ遺跡、スペイン植民地時代の16世紀に建てられたサンティアゴ教会、現代的な高層団地のことで、三文化を一望にできる広場として整備された。
 広場には・・耐えがたい苦しみの末、メスティーソの国が生まれた・・いまのメキシコである・・と刻まれた碑があるそうだ。メキシコが、耐えて耐えて生き抜いた人々の国であることを象徴する広場のようだが、バスはあっという間に通り過ぎた。続く

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