スペインを行く43 2015年ツアー10日目 エル・コルテ・イングレス グラナダ市庁舎 王室礼拝堂 旧商品取引所 大聖堂 バール /2017.3 フルページ、写真はホームページ参照。
・・略・・ 午後は自由時間のせいもあり、くつろいだランチが終わったのは3時近くなった。バスでいったんホテルに戻り、希望者はOさんの引率で公共バスに乗り、市街の散策に出た。
バスに15分ほど乗って、最初にアセラ・デル・ダロ通りCalle Acera del Darroに面したエル・コルテ・イングレスEl Corte Inglesデパートに向かった。地下にはイベリコ豚やワインが豊富なスパーマーケットがあり、何人かはここで分かれた。ワインと食材を買って、部屋でくつろぐそうだ。
デパートを抜けて反対側のカレーラ・デ・ラ・ビルヘン通 ・・略・・ カンピージョ広場Plaza del Campilloに出る ・・略・・ 広場の先でアセラ・デル・ダロ通りと合流 ・・略・・ レジェス・カトリコス通りCalle Reyes Catolicosを進むとカルメン広場Plaza del Carmenに出る。カルメン広場の向こう正面がグラナダ市庁舎で、1階には観光案内所も入っている(写真)。入口周りを改修していたが、全体のデザインはルネサンス様式のようだから、レコンキスタ後の建物であろう。屋上に騎馬像が飾られている。鎧は着けていない。尻尾は大きくうねり、怪獣のような顔になっている。神話だろうか。説明は無い。
カルメン広場あたりでレジェス・カトリコス通りを渡り、ビブ・ランブラ広場Plaza de Bib-Ramblaを右に曲がって、右手に土産物店が並ぶ細いオフィシオス通りCalle Ofciosを進む。左は石積みの建物が覆い被さってくるが、道が細く、全景はつかめない。単調な石積みの壁に続いて、ルネサンス様式で、両側にコリント式オーダーの円柱を並べた半円アーチの入口が現れる。半円アーチの上には 聖職者?聖者?の彫像が飾られている。ユダヤ神殿教会Iglesia del Sagrarioらしい。
その先に道からくぼんだ小さな広場がある。ここが王室礼拝堂Capilla Realの正面入口になる(写真、左手の切妻屋根部分が正面入口、向こうの建物は大聖堂)。
正面入口にはロマネスク様式の特徴である半円アーチが用いられているが、窓の尖塔アーチや壁上部の立ち上がりのレースを思わせる装飾はゴシック様式である。
1492年、グラナダを奪還してレコンキスタを完了させたフェルナンド2世(1452-1516)は先に亡くなったイサベル1世(1451-1504)とともにグラナダを永眠の場所とするべく、1506年、墓所の建設に着手した。
完成は1521年、孫のスペイン王カルロス1世=カール5世(1500-1558)の代になった・・略・・。
王室礼拝堂の実際の入口は、広場左手の旧商品取引所である(写真)。
商品取引所は特異な外観である。半円アーチのロマネスク様式を基本にしているから、王室礼拝堂建設以前の建物のようだ。しかし、柱にはタオルをねじったような溝が彫られ、1階の半円アーチにはとっくりを重ねたような立格子に、ふたをかぶせたお椀のような彫刻が乗せられている。
ヨーロッパ各地の王侯貴族のあいだでは政略結婚が多く互いの文化的な交流もあったろうし、コロンブスの新大陸上陸に先立ち海外の文化も入っていたから、ビザンティン様式、ゴシック様式、ルネサンス様式、ムデハル様式や海外文化交流の影響が融合したのであろうか。
旧商品取引所を抜けて礼拝堂に入る。内部は静謐な雰囲気ながら、きらびやかさも感じられる。フェルナンド2世が先に亡くなったイサベル1世を思い、きらびやかさを希望したのだろうか。あるいは、カルロス1世=カール5世が祖父母のカトリック両王、その後ここを墓所とした父・ハプスブルク家出身のフェリペ1世(1478-1506)と母・イサベル1世の次女のフアナ(1479-1555)に敬意、追慕し、きらびやかにさせたのかも知れない。
鷲の紋章を飾った柵の奥の内陣に、カトリック両王=フェルナンド2世+イサベル1世とフェリペ1世+フアナの、見事な彫刻の施された大理石の墳墓が安置されている(写真、インターネット転載)。・・略・・
墳墓の見学後、隣接するユダヤ神殿教会Iglesia del Sagrarioをのぞいた(写真)。18世紀初頭の教会堂で、外観は石を積み上げただけの簡潔なデザインだが、堂内はどっしりとした角柱、半円アーチ、放射状リブのドーム、2階の回廊、随所の彫像などで荘厳な印象である。
細い道をぐるりと回り、大聖堂Catedralに入った。カルロス1世=カール5世がスペイン王を継いだ翌々年の1518年に着工された。もともとこのあたりにモスクがあった。そこに商品取引所、王室礼拝堂、そして大聖堂が建てられていったから、互いに隣接し合っているうえ、イスラム時代の通りは狭く曲がりくねっていたから、王室礼拝堂も大聖堂も全景を見ることはできない。
大聖堂は南西-北東軸に建てられている。敷地が狭かったためであろう。
初期の建築家はEnrique Egasで、ゴシック様式だった(前々頁、王室礼拝堂の奥に見える大聖堂の外観はゴシック様式)。1529年、建築家はSiloé Diegoに交代する。シロエ以降にルネサンス様式が取り入れたらしい(中写真、南西ファサード、インターネット転載)。さらに、堂内の装飾にはムデハル様式や、銀線細工による装飾=プラテレスコ様式、のちにはバロック様式も加味された(下写真)。
ドームの写真からもうかがえるように、明るく華やいだ壮麗な空間になっている。当初、カルロス1世=カール5世の霊廟として建築が進められたらしい。
コルテス、ピサロなどの征服者がアメリカ大陸を次々に支配下に置き、スペインの黄金期が始まった時期である。スペイン+神聖ローマ帝国+植民地の王にふさわしい霊廟が目指されたのであろう。
そのためか、バシリカ式の5身廊形式は柱、壁、天井ともに白で統一されて厳かであり、壮麗な主祭壇を際立たせているし、パイプオルガンは2列に配置されている(写真)。
ただし、カルロス1世=カール5世の後を継いだフェリペ2世は首都をマドリッドにし、王室霊廟もマドリッド郊外につくらせた。霊廟として使われることが無くなったためか、当初の予定の81m?の2本の塔は未完のまま放棄され、工事が長引き、スペイン継承戦争(1702~1714)さなかの1702年に完了したそうだ。
・・略・・ 夕方6時を回った。楽しみのバールに向かう。始めのバールには鎧兜の騎士が飾ってあった(左写真)。スペインではビールを頼むと人数分の小皿料理がついてくる。小皿料理を単数形でtapaタパというが、複数形のtapasタパスでも通じる。このバールではポテトサラダとコロッケ+ポテトフライがついてきた(前頁右写真)。
スペインの6時過ぎはまだ宵の口で人は少ない。ビールとポテトとコロッケを楽しんだあと、エル・コルテ・イングレスデパートに近いバールが軒を並べる通りまで歩き、2軒目のLas Capaというバールに入る(左写真)。
7時を過ぎているのに、まだ客はまばらだった。ここではアルハンブラビールを頼む。タパスはイカ・エビ・アジ・チリメン?などの唐揚げの盛り合わせ(右写真)、スペイン風オムレツ、オリーブなどを楽しんだ。ここでも大いに盛り上がり、8時半ごろお開きになった。
デパート近くからタクシーに乗り、ホテルに戻る。・・略・・
1995 内モンゴルの回教寺院 /1996
トルコのイスタンブルに代表されるスルタン・アフメッド・ジャミー、別名ブルーモスクに代表される回教寺院モスクはイスラム教の名実ともに象徴である。
ところが、イスラム教とは縁遠い内モンゴル自治区の都、フホホトにも回教寺院があったのである。
イスタンブルとフホホトのあいだは経度が九十度も違う。地球の四分の一も離れた距離に、しかも自動車も飛行機も無い時代、モンゴルに回教寺院が建てられていたのだから、如何に早くからアジアを縦断する陸路が栄えていたか、改めて驚かされる。
中国ではイスラム人を回族と表記する。その数は決して少なくなく55の少数民族の一つにあげられていて、中国各地に回教寺院を見つけることができる。
どうして土着でもないイスラム人が少数民族の一つに数えられるほど大勢住んでいるのか。
そもそもイスラム教はアラビア半島の砂漠地帯に興ったアッラーを唯一神とする信仰であり、アジアモンスーン地域での根強い様々な現象に神を見る土着のアニミズム的多神崇拝とは相容れない。
かつて隆盛を極めたイスラム教が長くインドや周辺諸族を統率し、そのままイスラム教が国教とした定められた国もあるが、しかし中国は南アジアのイスラム国家と友好同盟を結んだことはあるものの、一度もイスラム教に政権を委ねたことはない。
何故、回族が少数民族として認められるまでに力を持ち得たのか。その理由は、イスラム人が商いに長けていたことにありそうだ。
中国と西アジア、ひいてはヨーロッパにまたがるシルクロードによる交易が盛んであったことは誰しも知るところだが、その背景には東北アジア~中央アジア~西アジアの砂漠地帯を自由に行き来する遊牧民がいた。
彼等は馬やらくだを機動力として豊かな実りと草を求めて移動するうちに東の物資を西に、西の物資を東に運び富を得るようになった。東西の文化交流の始まりである。
中国は国家形成の当初から中華思想をとっていたから、献上してくる民族には寛大である。しかもイスラム人がイスタンブルをおさえてからはヨーロッパやアフリカの名品、珍品はすべてイスラム人の手を経ることになり、次第に回族は重視されるようになってきた。
代わりに中国の誇る陶器の数々がイスラム人の手を経てヨーロッパ渡り、以来、陶器はすべてチャイナと称されている。
イスラム教の特徴の一つに、イスラム人はどこに住もうともアッラーの神のもとに一つの集団を形成しようとする考えがある。そして日に5回、メッカに向かい礼拝を欠かさない。
身を清めるための沐浴も戒律の一つになっている。そのため本来のトルコ風呂である蒸気風呂ハンマームが回教寺院に併設されるほどである。
中国の回族も当然この教えに従うことになるが、メッカから遠く離れた異郷の地であるゆえ、内モンゴルの回教寺院は様々なところが漢化された。(写真:フホホトの回教寺院、木造瓦葺きで、入口の門構えなどは四合院を思わせるが、右奥にミナレットを備え、沐浴室も付設されている。本堂にはメッカに向かいミヒラブが設けられている。)
例えば、ミナレット。ブルーモスクでは石造の円柱状で垂直性が強調されていたし、雨の少ない地域だから屋根の意匠化は見らない。
しかし中国では木骨煉瓦積みの角柱状で、しかも中国建築に特有のそりあがった屋根がのっている。
寺院平面も矩形で、仏教寺院の講堂のように天井が仕上げてあり、ドームとは全く異なった表現である。
本来の回教寺院は石造のためドームが発達したし、ドームはまたアッラーの教えを大勢のムスリムに伝えるため抜群の音響効果があった。しかし、木骨煉瓦造ではドームを再現できなかったようだ。
それでもミヒラブ(メッカを示す窪み)が象徴化されていて紛れもなく回教寺院であることを示している。
表に出て止まったままの壁時計に気がついた。ムハンマドが息を引き取った時間のまま止めてある。
彼等にとって信仰は空間と時間を超えた意思の集まりであり、様式の漢化は些細なこと、そう訴えているように感じた。
1995 内モンゴルのカン /1996
内モンゴル自治区の中心都市フホホトは呼和浩特の漢字をあてるが、モンゴル語の意味は「青い城」である。
モンゴルの遊牧民が、砂利混じりの短い草しかはえていないゴビを越えてここに来たとき、一面に広がる青々とした草原を見入って名付けたのではないだろうか。地名は、そこに住む民の思い入れを表すことが少なくない。
モンゴルの遊牧民にとって草は貴重な資源であり、この草原で五畜に思う存分草を食べさせることができる、そう思った瞬間、「青い城」がひらめいたのかも知れない。
ところが私たちが見たフホホトには草原がない。草がなければ当然、遊牧風景も見られない。「青い城」には整然とした道路が走り、大きなビルが建ち並んでいて、自転車が走り回っていた。中国のどこにでもある町並みがそこにあった。かなりの失望感である。
アジアを馬だけで走り抜けヨーロッパに至る大帝国を築いたモンゴルは、話だけでも子どもの冒険心をわくわくさせる。それなのに彼らが青い城と名付けて感激したフホホトには、
草原も遊牧民もいないのだから、失望するのもうなずけよう。言い換えれば、それだけ漢民族の文化が定着したことを意味する。それはまた、農耕の定着と一致する。
漢民族は農耕を背景にした備蓄食糧を基盤に北へ、西へ、南へと勢力を広げていった。あわせて田や畑が開拓されていった。
土を掘り起こし、種を蒔き、雑草を抜き、収穫を得ていくのである。備蓄食糧があれば冷害や飢饉をのりこえることができるから、寒い内モンゴルでは必至になって農耕地の開拓を進めようとしたはずだ。
開拓にとって草原は雑草にしか見えず、農耕の目の敵になった。しかし、遊牧民からみれば、この草が五畜の貴重な餌に他ならず、五畜がいなければ遊牧民は生きていけないことになる。農耕民と遊牧民のし烈な土地争いが始まった。
農耕民と遊牧民の和睦友好のため、漢・元帝の妃の一人、王昭君が匈奴に嫁いだ悲劇は農耕と遊牧の対立を象徴する。その墳墓がフホホトの郊外にあり、登ってみると見渡す限り畑であった(1995年にはそのような碑が立っていたが、王昭君の墳墓は不明との説もある)。
畑地を寒い北風から守るためか、樹林が青々と繁っていて視界が止まる。ここの風景に関しては完全に農耕社会が圧倒している。王昭君の嫁入りが実を結んだともいえるが、このままでは遊牧のふるさとが消えてしまおう。農耕と遊牧が共存する社会が模索されてもいいように思うが。
寒さの厳しい地方に進出すれば、漢民族も応じた住み方の工夫が必要になる。その答がカンと呼ばれる暖房寝台である。原理は韓国のオンドルに似ているが、オンドルが部屋全体の床を暖めるのに対して、カンは部屋の一隅に煉瓦と土を用いて寝台を作り、その中に煙を通して採暖する。
一説には、遊牧民がテント内で煮炊き、あるいは暖房や明かりのため地面で火をおこし、その熱が地面に蓄熱されることを応用して、寝るところだけを暖めるカン、部屋の床全体を暖めるオンドルに発展したそうだ。廃熱を利用する原理は共通するし、何より先人の知恵に頭が下がる。
フホホトで訪ねた馬さんのお宅を紹介しよう。煉瓦造、切り妻瓦葺き、平屋建ての長屋が東西方向に数列並び、回りを煉瓦塀で囲んでいて、中国各地の町屋に共通する。
入り口はやはり南側にあり、その両わきに一部屋ずつ居室がある。西側の居室が寝室になっている。
ここの寝台が煉瓦と土でつくられたカンで、寝台内部には煙道が設けられ、かまどの廃熱を通し蓄熱する仕組みである(写真)。寝室の奥に炊事室があり、壁の向こうにかまどが据えられている。
かまどの煙道は切り替え式で、暑いときは炊事の煙を屋外に直接排気することができる。
馬さんいわく、快適だそうだ。断熱性の高い煉瓦で部屋を包み、熱容量の大きい土でカンを暖める、定住農耕民の知恵がすっかり根付いている、そう感じた。
地球環境が絶望的な危機に陥っているときに、こうした先人の知恵を使う生き方を謙虚に受けとめなくてはいけない、と思う。
book434 美貌の帳 篠田真由美 講談社文庫 2004 /2017.3読
篠田氏の本は2冊目、「幻想建築術」は飛躍過ぎで理解が追いつかないこともあったが、ローマ皇帝ハドリアヌスを登場させ、展開の早い内容でおもしろく読み終えた記憶がある(book064)。
最近、迎賓館赤坂離宮=旧東宮御所の一般公開を知り参観に出かけた。設計者片山東熊(1854-1917)は明治時代初頭、工部省工学寮で辰野金吾、曽禰達蔵、左立七次郎とともにジョサイア・コンドル(1852-1920)から造家学を学んだ第1期生(1879卒)である。だから旧東宮御所は、西欧化を目指した明治日本を代表する建築の一つといっていい。
関連した本を探していて、篠田氏著の建築探偵桜井京介シリーズを見つけた。桜井は文学部卒で、日本の近代建築史を研究する設定になっている。近代建築に隠された秘密?、近代建築を舞台にした事件?を解いていくのかと思い、ジョサイア・コンドル設計の鹿鳴館(1883、1940解体)が登場する「美貌の帳」を借りた。
「幻想建築術」の躍動感のある展開+鹿鳴館を舞台にした名推理、と勝手に思い込んだため、期待はずれた。
主軸は小野小町を主人公にした観阿弥の能・卒都婆小町=卒塔婆小町を下敷きにした三島由紀夫(1925-1970)の卒塔婆小町である。資産家として登場する天沼はかつてシャンソン歌手で女優である神名備芙蓉にすべてを捧げたいと思うほど愛したが、神名備は天沼が決して心を開かないことに気づき日本を離れてしまう。
時が経ち、高齢になった天沼は西伊豆にある自分の会員制オテル・エルミタージュで神名備芙蓉が主演する卒塔婆小町の公演を企画する。天沼は、オテル・エルミタージュの隣に建つ城のような3階建てに住んでいて、3階にジョサイア・コンドルの資料や遺物を収蔵している。桜井はコンドルの収蔵品の鑑定を理由に、天沼から神名備芙蓉の公演に招待された。
そして事件が起きる。神名備芙蓉と演出の大迫が衝突する、大迫が行方不明になる、公演中に天沼が倒れ公演は中止になる、自邸が大火事になる・・・・鹿鳴館を再現するような自邸の再建が始まる、卒塔婆小町の再演が企画される、天沼が倒れ桜井ほか数名の前で卒塔婆小町が再演される、上演中神名備芙蓉が刺される、天沼も刺される・・・・全容が説明される。
物語の流れを目次で説明すると、プロローグに代わる3通の手紙、幻影の明治、隠れ家という名のホテル、伝説の人、群衆、舞台の奇跡、パンドラの匣、探偵ごっこ、密やかな聖域、恋歌文、火魔跳梁、蘇る幻影、仮面劇場、人はなにを語り得るか、セイレーンの遺言、エピローグ・夢の帳、になる。
期待が外れた一つは、桜井が明晰な推理をするのではなく、むしろ桜井が心の支えになっている高校生の蒼の方が事件解明にかかわる場面に多く登場すること、
二つは事件にかかわる伏線が多岐にわたり、それぞれが冗長すぎ、躍動感を妨げていること、
三つは建築探偵桜井と銘打っているが、建築に隠された秘密の解明はほとんどないし、建築を重要な要素とする展開もなかったこと、である。
確かに、p315では桜井は即断即決、猪突猛進型では無く、行動を起こす前にその結果派生するかも知れぬ事態の可能性について検討をすませる、と桜井の推理法を弁解している。しかし、桜井による事態の可能性の検討はほとんど語られず、結果が出てから蒼の言葉などで補足説明される書き方になっている。建築探偵として活躍して欲しかった。
近代建築については、幻影の明治で、桜井と天沼の口からジョサイア・コンドルに関する新説や鹿鳴館の見方が語られ、エルミタージュ=隠れ家という名のホテルで、朝香宮邸=現庭園美術館について蒼の言葉で語られる。
しかし、いずれも話題として登場するだけで、事件解明とのかかわりはない。天沼の城のような自邸の3階のコンドル収蔵庫が大火事にもかかわらず原形をとどめ、事件解明の糸口になるが、建築的なおもしろさは無い。建築探偵というタイトルに期待しすぎた。
蒼は心に深手があるようで、p433ぼくはもう逃げないんだ・・せめて自分の足で立ちたい・・自分の行動は自分で決める・・と決心する。著者は、蒼を通して心に負荷のある人にメッセージを送ろうとしている。
重ねて、蒼にp442・・ぼくたち人間はみんな仮面をかぶって実体のない書き割りみたいな舞台の上で.孤独なお芝居をしている・・みんなその仮面を自分の好ましい意味に解釈し、自分こそが舞台の主役だと信じたがっている・・と語らせている。
やはりこの本は卒塔婆小町を主軸にして人生論を語りたかったようだ。
スペインを行く42 2015年ツアー10日目 アルハンブラ物語 カルロス5世宮殿 ワインの門 貯水池の広場 アルカサバ パラドール/2017.2
ナサリーエス宮殿をぐるりと回り、東側の庭園を抜けると、先ほど下ってきた石畳の通りに出る。右手のパラドール、サンタ・マリア教会、左手の民芸店を眺めながら石畳を下る。
歩きながら添乗員のOさんに二姉妹の間の近くで現地ガイドが説明したワシントン・アービング(1783-1859)を聞き直した。そのときは二姉妹の間や奥のアヒメセスの間に気をとられ、ワシントン・アービングとメモしたがあとは聞き損なった。
ワシントン・アービングはニューヨーク生まれの作家で、スペインに4年間滞在した。1829年、グラナダの総督に会ったときアルハンブラ宮殿の居住を許され、二姉妹の間の近くの部屋に寝泊まりすることになった。
その体験をもとにまとめたのが「アルハンブラ物語」である。本の名前は、栗田勇著の本などで知っていたがまだ読んでいなかった。
アービングが住んだころはかなり荒れ果てていたらしいが、「アルハンブラ物語」の出版で実情が広く知られるようになり、その後の修復のきっかけになったらしい。
アービングが寝泊まりした部屋に、ワシントン・アービングの間の銘板が貼ってあるそうだ・・見損なった・・。帰国後、アルハンブラ物語を読んだ・・斜読b408参照・・。
この本をあらかじめ読んでおき、見学のときも本を持参し、本をひもときながらたっぷり時間をかけて見て回ると、アービングの見たアルハンブラ宮殿に思いを馳せることができ、感慨がさらに深まると思う。
石畳の先は砂岩を積み上げたカルロス5世宮殿Palace de CarlosⅤである(写真)。ナサリーエス宮殿の外装はレンガ積みであり、内装は石化石膏アラバスター、鍾乳石飾りムカルスナ、イスラミックタイルを基調として華麗である。
対して、カルロス5世宮殿の外装はどっしりとした感じの石積みである。スペイン王カルロス1世=世神聖ローマ皇帝カール5世(1500-1558)は、華麗なイスラム様式を凌駕しようと荘重な宮殿を目指したようだ。
西側の入口から入場する。前室を抜けると、大らかな円形の中庭が広がる(写真)。設計を任されたペドロ・マチュカは、イタリア・ルネサンスを代表するミケランジェロ・ブオナローティ(1475-1564)の流れをくむそうで、カルロス5世宮殿はルネサンス様式でデザインされた。
外形は一遍およそ63mの正方形だが、中庭は円形の回廊に囲まれていて、空が円形に切り取られている。
イスラム建築の基本は角角とした矩形で構成されるが、ペドロ・マチュカは四角形に円形を組み合わせ、イスラム様式に対する差異性を強調しようとしたようだ。
回廊の円柱はどっしりとして、1階はもっとも簡素なドリス式オーダー、2階は簡素な装飾のイオニア式オーダーとし、柱・梁、壁、天井は彫刻を控え、過剰な装飾を避けているため、より荘重な印象になっている。
カルロス1世=カール5世が王位についた10年後の1527年に着工されたが、資金不足やモーロ人の反乱などでしばしば工事は中断した。
カルロス1世=カール5世もここに住まなかったし、後を継いだフェリペ2世(1527-1598)はマドリッドを都としたので、未完のままとなって荒廃し、20世紀中ごろに手が加えられいまの姿になった。
中庭は円形のため音響効果が良く、国際音楽フェスティバルが毎年開かれ、その他のイベントも開催されている。歴史建築であっても、活用されるからこそ生き生きしてくると思う。
2階にはナスル朝時代の工芸品やイスラム芸術を展示した博物館と宗教彫刻や絵画を展示した美術館がある。ナサリーエス宮殿の混雑に比べれば、はるかに空いていた。
カルロス5世宮殿を出ると左手にワインの門Puerta de Vinoがある(写真)。門の左に売店があり、飲み物が置かれていた。
かつてはここでワインを売っていたことからワインの門と呼ばれた、との説がある。イスラム教徒は禁酒だからレコンキスタ後にワインが置かれたことになるが、赤みのレンガ積み、門上部の馬蹄形アーチ、上階の馬蹄形2連アーチ窓などのデザインはイスラム様式だから、ナスル朝のころの建造であろう。
馬蹄形アーチの上部の白石には鍵の形が彫られている。イスラム教の信仰の力のシンボルだそうだ。どこかに手も彫られていて、手はムハンマドの手のシンボルで、五本指がイスラム教の五つの戒律を意味するそうだ。
ワインの門を抜けると、貯水池の広場 Plaza de los Aljibesに出る(写真)。この先が要塞で、要塞の水を確保するために大きな貯水池が設けられたとの説もある。
要塞への侵入を阻むために空濠が掘られていて、空濠を貯水池に利用したとの説もある。いずれにしてもシエラ・ネバダ山脈から引いた水であろう。水があり木陰があるので、観光で訪れた人々が一息している。
売店があり、観光客がソフトクリームをおいしそうに食べていたので、アルカサバ見学後に私もソフトクリームを食べた。甘い。疲れが癒やされる。
巨大な塔の先がアルカサバ Alcazaba、軍事要塞跡である。スペインを行く39で記したが、アルハンブラ宮殿はシエラ・ネバダ山脈に続く丘陵が西の平野に突き出た高台に位置している。最西端は高さ70mほどの崖になっている。
古代ローマはここに城砦を築き、西ゴート王国もここを要塞とし、ウマイヤ朝、続く後ウマイア朝もアルカサバ=軍事要塞とした。いま残っている遺構は9世紀ごろだそうだから後ウマイヤ朝時代になる。
高台の西端は三角形になっているため、アラブ人は高台を船に見立て、操舵室=船橋=艦橋に相当する見張り塔Torre de la Velaを築いた。
見張り塔に上ると、グラナダの街が一望できる(写真、中央がカテドラル)。町の先にどちらかといえば茶色が支配的な大地が広がり、彼方に山並みが見える。アルカサバからの見通しはいい。見通しの良さが古代ローマ以来ここを要塞化しようとした大きな理由であろう。
11時半過ぎ、見学が始まってから3時間、ガイドはここで任務完了になった。パラドールのランチまで自由時間になったので、貯水池の広場でソフトクリームを食べて一休み、カルロス5世宮殿をもう一度見て、サンタ・マリア教会堂に入り、土産物・民芸店をのぞき、パラドールに向かった。
パラドールparadorは古城や修道院などを改修した半官半民の宿泊施設で、国営ホテルと訳されている・・スペイン5日目にグアダルーペのパラドールに泊まっている=スペインを行く21・・。
ここのパラドールはアラブ時代の建物を修道院として改修し、再度国営ホテルに改修したそうだ。四角い中庭の中央に噴水がありアラブ時代の名残をうかがわせるが、半円アーチの回廊、上階の窓の格子のデザインはパラドールのための改修のようで歴史を感じさせない(写真)。
ホール、レストランは高級ホテルの雰囲気で、豆とチョリソのスープ、リーク=西洋ネギの重ね焼き、子牛のステーキ(写真)、アイスクリームをいただいた。おいしかったし、食器も凝っていた。