yoosanよしなしごとを綴る

つれづれなるままにパソコンに向かいて旅日記・斜読・よしなしごとを綴る

1982年連載生活空間再考1 「地域と定住度」 家を託した子どもたちにまちづくりの主体としての活動を期待

2016年06月25日 | studywork

1982 生活空間再考1 「地域と定住度」 /建築とまちづくり誌

 1982年ごろ、建築とまちづくり誌に12回連載で生活空間再考を連載した。それから30年余も過ぎた。連載で指摘した状況は、30年たってもさほど変わっていない気がする。一方の私は30年余も過ぎると生活状況が大きく変動した。そのころ小学生だった子どもたちは、それぞれ幼稚園~小学生の父、母となった。つまり世代の交替である。
 そのころの家を子どもに託して私たちが転居したので、私たちは地域から離れ、定住も遠い話になったが、家を継いだ子どもたちが地域で活動することを念じて、生活空間再考を転載する。

 ・・開発から保存へ、人工から自然へ、全体から部分へ、普遍から特殊へ、量から質へ、科学万能から人間主体へ、そしてスーパースターから草の根へ等々、価値基準の本来的な姿への転回を、一種の設計手法あるいは様式としてではなく、町や建築を計画する上での原点として把えようとするならば、冒頭のフアノンの言葉は、大きな指針となろう(ファノンについてはホームページ参照)。
 すなわち、①町をつくり生活をする主体は、あくまでも地域住民であり、住民の筋肉と頭脳の理解なくしては、住民を真に豊かにしないこと、
 ②住民の中にあって、住民を啓蒙し、より良い社会へと発展させていく突出した人々の存在が欠かせないこと、
 ③建築家技術者は常にプロフェシェンとして正しい価値基準を有し、その専門性は住民のものとして位置づけられねばならないこと、の三者三様の立場、役割が有機的な関係性を持ちながら共存することが、町や建築をつくっていく上での基本であるといえる。

 さて、それでは町づくりの主体である地域住民、あるいは地域とは何であるかが問題となってくる。人間が単にマスとして集合しているだけの状態では、集合のしやすさと同じぐらいに離散しやすいのであり、人々の結合力は乏しく、したがって地域社会を形成し維持していく母体とはなり得ない。
 社会学の分野においては、特定の人々の間で持続的かつ頻度高く相互行為が行なわれ、相互行為の網の目が集積する場合、あるいは、ある一群の人々がお互いを同一視し、共属感情、共通の考え方の枠組み、一定の規範を有する場合に集団(社会集団)が成立するとしている。
 このような集団が、一定の地理的範域の中で社会的生活を累積して始めて、地域社会の母体となり得ると言えよう。すなわち、空間的(地域的)、時間的(歴史的)、社会的に同一性、結合性を有することのできる集団が町づくりの主体としての住民であるといえる。

・・・ということで、子どもたちはまちづくりの主体としての活動を期待し、私たちはそのサポートに努めたい。

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2004年 舘岩村づくり研究会の面々と現地を歩き、資源を掘り起こし、木賊マップ「木賊のくつろぎ方」をつくる

2016年06月23日 | studywork

2004  木賊マップ「木賊のくつろぎ方」 福島県舘岩村村づくり研究会 /2005.5記
 
 福島県旧舘岩村での活動は何度か紹介している。2004年度は村づくり研究会で木賊マップ「木賊のくつろぎ方」を作成した。
 地域資源マップの狙いを要約すれば以下になる。
1.観光立村とは村人も楽しめて、都市民が楽しめるむらづくりが基本である
2.実は、舘岩村は自然景観資源、文化的資源の宝庫。しかし、見慣れているため見落としてしまう
3.そこで、村の資源を維持、醸成する環境美化条例を活用し、環境美化審議会+ふるさとの美しさを推進する専門部会+村づくり研究会で
4.都市民に楽しんでもらえる自然景観と文化資源の宝をガイドするマップをつくる
5.マップづくりを通して、村民は村の資源を再発見、再評価し、子どもたちに村の宝をプレゼントすることができる

 地域資源マップの作り方は、私の経験から以下の進め方がよさそうである。基本は、あくまでも村民による村のマップづくりである
ステップ1 ウォッチング・現地を歩く /地区の人+村づくり研究会が中心になって、地区をウォッチングし、自慢できるところ、懐かしいところ、好きなところをみんなで見てまわる
ステップ2 ヒヤリング・話しを聞く /地区の言い伝え、言われ、暮らしぶりを聞き取る
ステップ3 マッピング・地図に貼る /地図を広げ、ウォッチングの写真、ヒヤリングのメモを貼っていく。写真を大きく・文字をはっきり、など、意見を交換する
ステップ4 チェック・見直す /マップ案をつくり、もてなしの目で見直す、家族、若い人、観光客の意見に耳を傾ける
ステップ5 ヤッタ!・できあがりを喜ぶ /なかなかの出来映えと自画自賛、村の人や観光客に自信を持って紹介する

 その結果、「木賊のくつろぎ方」としてまとまった。マップはホームページ参照、または現南会津市に問い合わせを。四季おりおりのくつろぎ方のイメージは以下になる。
/西根川に沿ってすすむ まぶしいほどの新緑に 桃、桜の彩りが映える かなたの帝釈山にはまだ雪が残る 雪解けが田植えの合図だ 歩き疲れたら広瀬の湯で一休み 時がゆっくり流れていく
/清流西根川でのイワナ釣りもいい じっくり引きを待つ一瞬 時を忘れる 西根川の滝巡りもいい 清流の飛沫が涼をつくり虹に童心を思い出す 長卸山のハイキングもいい 会津駒ヶ岳の勇姿に気がみなぎる
/木賊の秋は早い 色とりどりの紅葉に足が止まる カメラを構える者 絵筆をにぎる者 句をひねる者 花より団子、新そばを味わう者 岩風呂に我を忘れる者 それぞれの秋が ゆったり過ぎていく
/しんかんと降り積もる雪が静寂をつくり つかれを解き放す 月明かりの銀世界は幻想的だ 気持ちが洗われていく 翌朝の宿の主人の飾らない笑顔と熊汁に 心も体も暖まる  新しい一日の始まりだ

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スペインを行く25 小雨のなか、まずセビリアの観光名所スペイン広場へ、歩いてコロンブス記念碑、サンタ・クルス街へ

2016年06月21日 | 旅行

スペインを行く25 2015年ツアー7日目 スペイン広場 コロンブス記念碑 サンタ・クルス街 ベラスケスセンター アルカサル /2016.6記

 久しぶりのスペイン紀行続報。2016年10月26日・月曜の9時、セビリアは小雨が降っていた。まず、1929年のセビリア万国博覧会のパビリオンだったスペイン広場を見学する。
 パビリオンは直径およそ200mの半円状=半円の長さはおよそ310m余と長大で、2階建てだが、背丈より高い基壇の上に建っているから圧倒する大きさがある。
 基壇には連続アーチごとにアズレージョによるデザインが施されている。アズレージョazulejoはポルトガル語で、スペインではアスレホと発音される。イスラム教徒=ムーア人=モーロ人がイベリア半島に持ち込んだ釉薬タイルがアズレージョの始まりで、ポルトガルでは青みを基調に彩色されている。
 スペイン広場の基壇を彩るアズレージョは、青をベースにしながら、スペイン各地の特徴的な出来事や風景を色彩豊かに描き出している。スペインに詳しければ絵柄を見るだけでどの地域のどんな行事か分かるらしいが、解説がないので外国人には何を表した絵柄かは分かりにくい。

 スペイン広場から歩いてサンタ・クルス街に向かった。途中に、コロンブス記念碑が立っている。
 ジェノバ生まれのクリストファー・コロンブス=スペイン語クリストバル・コロンは子どものころから船に乗っていて、次第に西回りに航海すればアジアにたどり着けると考えるようになったらしい。
 ポルトガル王に西回り航海の援助を求めたが断られ、コルドバでカステーリャ女王イサベル1世・アラゴン王フェルナンド2世=カトリック両王に謁見するも、答えは持ち越された。
 1492年1月、フェルナンド2世はイスラム最後のグラナダを奪回する。レコンキスタ完了で財政の見通しがつき?、5月にコロンブスへの資金援助が決まる。8月、コロンブスの一行はスペインのパロス港を船出し、10月、西インド諸島に上陸する。
 これが教科書で習うコロンブスの新大陸上陸の第1歩になる。しかし、コロンブスは新大陸の認識はなく、アジアのどこかに上陸したと確信していたらしい・・西インドの名づけ方にその思いがうかがえる・・。
 コロンブスは新大陸ですさまじい略奪、虐殺を繰り返したが、ヨーロッパにその事実は伝わらず英雄視されたようだ。
 記念碑の途中に船がシンボライズされていて、側面にイサベル、フェルナンドが刻まれ、上部にコロンブスのレリーフが刻まれている。

 その先にユダヤ人街だったサンタ・クルス地区がある。イスラム支配下ではユダヤ人の居住が認められていたが、レコンキスタ後、ペストが流行したのを機にユダヤ人は追放された。そのご、セビリアの貴族や裕福層がここに館を建てていった地区である。
 その先がアルカサル=王城であり、大聖堂、ヒラルダの塔がある。続く

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2016年6月、紀尾井ホールで始めてづくしのコンサートを楽しむ

2016年06月20日 | よしなしごと

2016.6.20
 一昨日、東京・四ッ谷の紀尾井ホールのコンサートに出かけた。
 紀尾井ホールは初めてである。1995年、旧新日本製鐵=現新日鉄住金が創立20周年記念で建てたコンサートホールで、クラシック専用800席の中ホールと250席邦楽用の小ホールがあるそうだ。こぢんまりしたホールだが、音響がいいとの評判である。
 中ホールは、長方形のシューボックス型で、中央の横22席はステージを向いているが、左右の壁際の席はステージと同じ高さで中央席に向かう配置である・・少しステージ向きに振ってあるが・・。2階席も同じく、後ろ壁側席はステージを向き、左右壁側席は中央に向き、ややステージ向きに振ってある。2階席の左右壁側席の観客がときどき立ち上がってのぞき込んでいたから、ステージが見にくいのかも知れない。
 ただし、客席が一列おきに半席分ずれていて、ステージが見やすくなっている。ときどき前の席と重なりステージが見えにくいホールがあるから、紀尾井ホールはよく工夫されている。

 1995年の開館早々、紀尾井シンフォニエッタ東京が結成され、定期的に演奏会が開かれているそうだ。一昨日は105回目の演奏会だった。そうした演奏会が開かれていたとは知らなかった。お恥ずかしい・・・。
 曲目は「弦楽のための組曲」フランク・ブリッジ(1879-1941)、「タブラ・サリ」アルヴォ・ペルト(1935-)、「弦楽セレナーデホ長調Op.22」アントニン・ドヴォルザーク(1841-1904)である。
 「弦楽のための組曲」も「タブラ・サリ」も始めて聞く。そもそも音楽に疎く、ブリッジもペルトも始めて聞いた名である。お恥ずかしい・・・。

 演奏は、指揮者をおかずヴァイオリンのアントン・バラホフスキーがリーダーとなって進められた。四重奏など少人数の演奏では指揮者を置かないのが普通だろうが、およそ30人のコンサートで指揮者を置かない演奏は初めてである。これまたお恥ずかしい・・・。
 もちろん、アントン・バラホフスキーのリードで素晴らしい演奏だった。

 アントン・バラホフスキーはロシアの生まれ、夫人でヴァイオリン演奏のリュドミラ・ミンニバエヴァはタジキスタン共和国の生まれ、作曲のフランク・ブリッジはイギリス、アルヴォ・ペルトはエストニア、そしてアントニン・ドヴォルザークはボヘミア=現チェコと国際色豊かな演奏会だった。
 新しいことずくめの演奏を楽しんだ。

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2004年、「金峰町はあなたの子どものふるさとになります」を掲げた住宅マスタープラン策定に参画

2016年06月19日 | studywork

2004 「金峰町はあなたの子どものふるさとになります」 鹿児島県金峰町住宅マスタープラン /2005.4記

 鹿児島空港から吹上浜に向かって車でおよそ1時間走ると金峰町に着く。目印は標高636mの金峰山・・きんぽうざんと読む、関東の金峰山はきんぷさんと読み、標高2599mである・・で、美人岳の別名があるほど、優美な形である。頂上には金峰神社が祀られ、ここからの眺めも素晴らしい。
 2004年初頭、教え子を通して、金峰町住宅マスタープラン策定委員長の要請を受けた。
 金峰町には町営の温泉宿泊施設があり、ここに宿を取り、町内視察を重ねながら住マスに知恵を絞った。4回の策定委員会、4回の策定ワーキングを経て、2005年3月に「金峰町はあなたの子どものふるさとになります」という魅力的なタイトルを冠した報告書がまとまった。

基本目標と基本方針は、
基本目標1 多様な世代が交流する活力あふれる集落の形成
  基本方針1 誰もが快適に過ごせる良質な住まいの提供
基本目標2 自然と調和した独自文化の継承・創造
  基本方針2 これまで培ってきた文化の継承
  基本方針3 新たな町の魅力の再発見
基本目標3 安全で安心できる暮らしの確保
  基本方針4 自然災害等に負けない安全性の高い住まいづくり
  基本方針5 高齢者や障害者が安心して暮らせる住まいの形成
基本目標4 地域手作りの金峰町
  基本方針6 将来を担う人材の育成
  基本方針7 住民の住まいづくり活動への支援  である。

 さらに、優先的に解決すべき課題に対応した施策、総合的かつ一体的に取り組むことができる施策などを「重点プロジェクト」として設定し、計画的に実施していくことが必要なので、重点プロジェクトを設定した。
  重点Ⅰ:集落活性化のための公的住宅整備
  重点Ⅱ:空き家の利活用
  重点Ⅲ:「金峰町住まいづくり会(仮称)」の組織化

 短い時間だったが地元の方の熱心な取り組みで、「金峰町はあなたの子どものふるさとになります」を将来像に掲げ、行政+ワーキングで空き屋調査などを展開し、その実績で「金峰町住まいづくり会(仮称)」の組織化まで進むことができた。市町合併後においても、住マスを通した活動が金峰町地区の住まいづくり、まちづくりの原点になっていくと期待する。

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