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1982年連載 生活空間再考3「幻想としての住まい」 家の幻想として追い求めているものは商品化された住居?

2016年06月26日 | studywork

1982 生活空間再考3 「幻想としての住まい」/建築とまちづくり誌
 1982年に建築とまちづくりに連載した生活空間再考の第3稿である。第2稿は行方不明。

 かつて布野修司氏は、建売住宅文化考(見える家と見えない家 岩波書店)の中で次のように指摘している。
 切り刻まれた土地の上に軒を寄せ密集する戸建住宅地と、中高層の鉄筋コンクリートの集合住宅の建ち並ぶ団地、前者は都市生活者の家への幻想の疎外態であり、後者は都市生活者の共同体への幻想の疎外態である。
 そこに住むことは彼等の選択の結果ではあるが、それは選択肢の少ない中からの苦渋に満ちた、ネガティブなものでしかなく、究極的な住居のイメージとしては都市郊外の戸建住宅地が意識されていると述べ、暗に建築家の責任を問いつつ、住まい、住むことへのイメージの希薄さに言及している。

 また、家の構造、その社会学的考察(川本彰 社会思想社)によれば「・・家族のもつ生活保障機能の重要さは疑うことができない。家族は生きるための集団であった・・個人よりも全体の永続、安定に価値を求める家族の意味がある。家族は全体性を抽象し、結晶化して『家』を形成し・・『家』とは建物だけでもなく、その中に住んでいる現実的な成員だけでもない。永遠の過去から永遠の未来にいたるすべての成員を統一し、その基盤として家産をもつ歴史的実体である・・土地の上に先祖代々子々孫々が一期一期うつり変り、生れ、そして死んでいくのである・・」と、人間生存の象徴として家、土地があったことを論じている。

 ・・その結果、ムラを捨てざるを得なかった人々が、今度は住むところを手に入れ得ないという二重の被害者であることに、そして、家の幻想として追い求めているものが、実は商品化された住居にすぎないのであるということに気がつかないでいることである。
 このままでは主体性までもがパッゲージされかねない。

 30年余が過ぎたが、まだまだ現実は変わっていないようだ。



 

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