yoosanよしなしごとを綴る

つれづれなるままにパソコンに向かいて旅日記・斜読・よしなしごとを綴る

北京から2100kmの雲南省昆明のサニ族は版築構造の小さな土の家に住む

2016年11月28日 | 旅行

1991 「雲南省昆明郊外樂爾村の住まい」 中国民居を訪ねる /建築とまちづくり誌 1992.9

 1991年11月、ベトナム・ラオス・ビルマ、その三国に国境を接する雲南省の省都昆明にいる。
 ビルマまでは道路が通じおよそ300km、ハノイまでは鉄道が通りベトナムまで300kmぐらい、町にはベトナムやラオスの人が行き交い、インドシナが生活にかなりとけ込んでいる。

 対して北京から眺めると、昆明は直線でおよそ2100km、距離もさることながら、雲に隠れた南の方と言われるほど遠い存在だった。
 にもかかわらず、かつて漢の武帝が雲南に居住していた少数民族を支配しようと、昆明の湖ティエンチーを模して水戦訓練用の人造湖を長安の郊外に造ったほど、武帝の戦略対象地でもあった。

 これほどまで昆明が重視されるのは何故か。一つには、のちに南のシルクロードの交易地として栄える地の利がある。
 がそれだけではない。地図を丁寧にみると改めて驚くが、インドシナ半島を流れるメコン川の上流は昆明の東側100数十km、中国大陸を東西に流れる長江は昆明の北数10km、そして広州・香港に注ぐ珠川はティエンチーを源流とする。

 つまり、高度2000mの高原・山岳地帯に位置しながら、この水利と年平均気温15~16℃の穏やかな気候のおかげで稲作適地として豊かであったこと、そして川を介した交流が早くからあったことが大きい理由ではないのか。
 ・・近年新しい学説では稲の起源は黄河・長江流域と仮説されているが・・、最も古い稲作農耕の地として知られるアッサムは、これらの川の上流域に接する。漢民族には雲の向こうの実り豊かな国に見えたに違いない。


  昆明周辺にはおよそ24の部族が居住する。これらが闘争、統合を繰り返して昆族明族に集約され、そして昆明としてまとまったそうだ。漢字ならではの名付け方に日本の町村合併を連想する。

 訪ねた民居は昆明市街から約90kmあたりに住むサニ族である。
 道路沿いに立つ表示版にはリーエル村とある。簡略字なので意味は不明だったが後で調べると樂爾村、ここは楽しい村とはなんともおおらかな名前だ。

 村の入口近くの水辺では大勢の女性が民族衣装をまとい洗濯とおしゃべりに花を咲かせる。固有な民族衣装ほど人を美しく仕立てるように思えてならない。
 住まいはいずれも切り妻で、古い建物は草葺、新しいものは瓦、構造は40~60cmの版築または日干し煉瓦造となっている。結婚するときに建てていくそうで一つ一つの建物の規模は小さい。
 C さんは晩婚で、4年前に3000元でこの家は建てた。給与換算で15年分になったそうだ。ここでも住宅難のようである。
 室内は妻壁の上部に換気をかねた小さな明りとりがあるだけでかなり暗いが、十分に乾燥している。

 北側中ほどの入口から見て左側が寝床、ついたてで仕切られた奥に夫婦と子供の3人が寝る。
 あとは仕切りがなく、炊事、食事、団らん、接客に用いる。漢民族の多くは炊事を分離するが、ここでは習慣が違うようで、寝室はグー、炊事場はガブー、入口をヅンナーと漢語とは異なって発音する。

 住まいも民族に固有な文化をよく残すとき人をいっそう美しく仕立てるのかも知れない。C さんの笑顔はどこまでも明るく健やかである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする