風の記憶

≪記憶の葉っぱをそよがせる、風の言葉を見つけたい……小さな試みのブログです≫

桜は大いなる幻想だった

2019年04月15日 | 「新エッセイ集2019」

桜の季節が終わった。
桜が咲き誇っている道を歩くと、ああ、これはいつかの道だぞと、また同じ道を同じ景色の中を歩いているぞと、まるで記憶の道をなぞりながら歩いているような気分だった。懐かしいが不安でもあった。
この落ちつかない心の状態はなんだったのだろう。気持ちの整理がつかないうちに、またたくまに花は散ってしまったのだが。

桜の花が咲くというのは、春の大きな祝祭なのかもしれない。
しずかな風景が一変し、周囲がなんとなく騒がしくなる。いったい何ごとが起きているのか、楽しいけれど戸惑いがある。
満開の花の勢いに圧倒されているうちに、通り過ぎるように終わってしまうものがある。溢れるものがあり、足りないものがある。それはなんなのか、なんでもないのか、花とはそんなものだったのか。
花に奪われたこころは虚しくはないのだろうか。花ばかりが満ちあふれ、こころは空っぽになっていく。

   吉野山こずゑの花を見し日より
      心は身にもそはずなりにき  (西行)

いつだったか吉野の奥千本のさらに奥にある、西行庵を訪ねたことがある。その小さな庵で3年間もひとりで西行は、どうやって暮らしたのだろうか。
西行には桜の花を詠んだ歌が230首もあるという。桜の花がどんなに好きだったとしても、花の時期はほんのひと時にすぎない。あとは桜の幻を追って、月や雲などを眺めてすごしたのだろうか。

   あくがるる心はさてもやま桜
      ちりなむのちや身にかへるべき (西行)

そのひとは桜が散ってしまったあとに、どうやって浮遊した心を元の体に戻すことができたのだろうか。

 

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