四国の春は、のどかな遍路みちに満ちあふれている。
八十八か所霊場の一番札所、徳島の霊山寺に立ち寄った。
かつて空海(弘法大師)が、21日間の修行をしたと伝えられる寺だ。
本堂の薄暗い柱に、空海の言葉が貼られている。
佛法遥かに非ず 心中にして即ち近し
真如外に非ず 身を捨てて何処か求めん
仏や神というものは遠くに求めなくても、それぞれの心の中に在るものだという。
静かに胸に手をあててみる。ぼくはお遍路ではない。一介の行きずりの旅行者にすぎないけれど……。
空海によって開かれた真言密教は、神秘体験の宗教だといわれている。
目で見えるものではなく、耳に聞こえるものでもない。しかしそれは、厳然として存在し、ひとの魂に響いてくるものだという。その教義は、言葉で容易に説明できるものではないというから、われわれ凡人が理解するのは難しい。
真言とは、嘘のない真実の言葉という意味だが、真実の言葉とはどんな言葉であるか。いくら考えても、言葉の本当の意味はわからない。
たぶん、ひとの心に響くとき、その言葉は真実となるのだろう。
おんあぼきゃ・べいろしゃのう・まかぼだら・
まにはんどま・じんばら・はらばりたらやうん
光明真言という短い経を唱える。言葉の意味はわからない。
幾度もくりかえして唱えるうちに、言葉の響きに不思議な心地よさを覚える。身体にじかに沁み込んでくる音楽のようなものかもしれない。
小鳥の声や風の囁きのように、言葉ではなくいわゆる骨伝導として、自然に身体の中に入ってくるもののようだ。
ひんやりとした堂内、灯明の薄あかりのなかで法話を聞く。
このところ自然災害が多い。被災した人々の今日の苦難は、明日の私たちの苦難かもしれない、と僧侶が語る。苦しみは分かち合うことによって軽減し、喜びもまた共有することによって倍増するという。
孤立して苦悩する人々の魂に「きみはひとりではない」という言葉が、西から東へと、あるいは南から北へと伝播していった日々もある。ひとは喜びも苦しみも共有することができるのだ。
ときおり舞ってくる桜の花びらを浴びながら、自他の苦楽を背負って歩むお遍路たちに混じって、いつもよりも長い祈りを祈った。
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