風の記憶

≪記憶の葉っぱをそよがせる、風の言葉を見つけたい……小さな試みのブログです≫

足跡も濡れている

2018年06月13日 | 「新エッセイ集2018」

 

雨水をいっぱいため込んだような、重たい雲が空を覆っている。
湿度80%をこえる日がつづく。
まもなく水棲生物になって、エラ呼吸を始めることになりそうだ。
水が体の中を通り抜けていく、あるいは水の中を体が潜り抜けていく。そんな生き方の感覚とはどういうものだろうか。
体のなかが洗われるようで、あんがい快いものかもしれない。

ときおり雨雲の飛沫が降りかかる。
1300年の霧がもやっている。奈良盆地も海の底だった。
この盆地から、新しいものを求める人々が山を越え、海を渡ろうとしたのはいつの頃だったか。
それは命がけの未知への航海だった。成功した者も失敗した者もいた。むしろ失敗した者の方がはるかに多かっただろう。
梅雨空を抜けると、海の向こうの、大陸の陽射しが眩ゆかったにちがいない。

最澄や空海が唐で学び、さまざまな仏教の教義や法具を持ち帰ったことは知っていた。だが、荒海を渡った遣唐使についての、ぼくの知識や関心は貧しいものだった。
手漕ぎの小さな船だから、嵐にあえば人も物も海の藻屑になってしまう。そんな苦難の中でのいくばくかの幸運が、わが国の文化の光源となり彩りとなったことを思う。
留学生や学問僧のほかにも陰陽師や雑使、水手(水夫)など、1艘の船におよそ100人が乗り組み、4艘の船団が一組となって漕ぎ出したらしい。
4艘のうちの1艘でも無事に渡航できればという、信じられないほどの過酷で運任せな航海だった。

渡航には3か月ほども要したので、気象条件の悪い6月から7月ごろに、日本を出航しなければならなかったらしい。
ちょうど今頃の季節に、海の神である住吉大社に航海の無事を祈ったあと、難波の海を出航していったのだろう。
最澄や空海のほかに、山上憶良、阿倍仲麻呂、吉備真備など、名前を残した遣唐使はわずかにすぎない。船とともに海に沈んだ者や大陸で病死した者など、数千の無名の者たちの犠牲があった。
その中にあって、日本の若い留学生のことを記した、石刻の墓誌が中国で発見されたのは幸いだった。

石に残された留学生の名前は、井真成(せい しんせい)。「公姓井字眞成國號日本」とあった。
それまで彼のことを千年以上も誰も知らなかった。そして今もなお詳しいことはわかっていないようだ。
墓誌によると、井真成は生来の優れた才が認められて唐に派遣された。唐では身だしなみや教養を完全に体得し、懸命に勉学して将来が宿望されていたが、734年の正月に36歳で急死したという。
時の皇帝はその死を悼み、「尚衣奉御」という格式高い官職を贈り、葬儀を官費で執り行わせたという。

井真成と同時期に渡唐したとされる吉備真備らが無事に帰朝したのは、井真成が死んだ翌年のことだった。
ひとりの若い遣唐使の姿は、異国の地で石が語りつづけたが、刻まれた171文字以外のことは想像するしかない。
墓誌の最後には「形旣埋于異土魂庶歸于故鄕」とある。
体は異国に埋葬されたが、魂はきっと故郷に帰るだろう、と。

 


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4 コメント

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Unknown (熊子の百葉箱)
2018-06-13 06:53:32
教科書以外の人は確かに知らない。
きっとたくさんの者が命を落とした
であろうとは思っていたけれど
異国の地で名が刻まれる程の
者がいて想像するしかなくても
教科書に載ってて欲しかったな・・・

私もたまに思う、小さな船でどうやって
食料を積んで渡ったろう?
荒波を超えるに覚悟がある当時の者は
今より遥かに精神性が高かったのでな
かろう。生きて帰る上に「学び」を
手に入れようとするのだから
登録ありがとうございました (くまさん)
2018-06-13 11:02:05
読者登録ありがとうございました。

更新してゆきますので
https://blog.goo.ne.jp/hiro_kuma3

今後共 くまさんのつぶやき を
どうぞ 宜しくお願いします
輝かしい時代 (yo-yo)
2018-06-13 17:55:31
熊子の百葉箱さん
いつも読んで下さり、ありがとうございます。

石刻の墓誌が発見されたのは2004年のことなので、
今から14年ほど前になるでしょうか。
奈良の高松塚古墳が発見されたのが1972年ですから、
それに比べると、ごく最近の発見といえるかもしれません。
年代をずっとさかのぼると、井真成が活動した頃と
高松塚古墳が作られた頃と重なるかもしれませんね。
ある意味で、輝かしい時代だったかもと想像します。
よろしく! (yo-yo)
2018-06-13 17:57:42
くまさん
こちらこそ読者登録ありがとうございました。
これからも、よろしくお願いします。

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