風の記憶

≪記憶の葉っぱをそよがせる、風の言葉を見つけたい……小さな試みのブログです≫

だったん(春の足音がする二月堂)

2024年03月13日 | 「2024 風のファミリー」

 

ちょうど阪神大震災が起きた年だった。
東大寺二月堂の舞台から、暮れてゆく奈良盆地の夕景を眺めているうちに、そのままその場所にとり残されてしまった。いつのまにか大松明の炎の行が始まったのだ。舞台上でまじかに、この壮烈で荘厳な儀式を体感することになったのだった。はるか大仏開眼の時から欠かさずに行われてきたという、冬から春へと季節がうごく3月初旬の、14日間おこなわれる修二会(お水取り)の行である。

眼下の境内のあちこちに点灯された照明が、集中するように二月堂に向かっていて眩しい。その頃には、明かりの海と化した奈良盆地から、透明な水のように夜の冷気があがってくる。欄干から下をのぞいてみると、境内はいつのまにか人で埋め尽くされていた。
7時ちょうどに大鐘が撞かれると、境内の照明がすべて消された。芝居の拍子木のように鐘が連打され、これから始まる儀式への期待が高まっていく。とつぜん視界の右手下方の一角が明るくなって、大松明が勢いよく燃えながら、暗くて長い登廊の階段を上がってくる。大きな炎の固まりは、階段の途中で止まっているようにも見え、動いているようにも見え、逡巡する何か大きな生き物のようだ。大松明は上堂する練行衆の道明かりで、それぞれの大松明に錬行衆がひとりずつ導かれて登ってくる。練行衆とは、修二会の行に参籠する僧のことらしい。

やがて階段を上りきった大松明は、本堂の舞台に勢いよく登場し、童子(松明を運ぶ僧)が長くて太い真竹の柄を欄干で支えるようにして、燃えさかる炎を中空の闇へ突き出す。どっと沸きあがる歓声。つづいて太い真竹の柄を抱えるようにしてぐるぐると回すと、四方八方に飛び散る火の粉を浴びた観衆の、さらに大きな歓声が炎の闇を突き上げてくる。
10メートルほどもある大松明が目の前を走り抜けていく。あたりが燃えあがるように明るくなって熱気が広がる。炎となった杉の葉のはじける音と香ばしい匂いが充満し、板敷きの上では飛び散った火の粉が燃えている。それを東大寺の法被を着た雑司が、忙しく箒で掃いて消していく。回廊の端まで到達した大松明が、最後の火の粉を振り払って脇へと下がると、反対側から次の大松明を抱えた童子が、再び勢いよく火の粉を散らしながら駆け抜けていく。

背後の本殿からは、鉦の音と声明が聞こえてくる。本殿奥の内陣は薄暗く、白い帳を透して灯明の明かりだけがぼんやり見える。その暗がりで一体なにが行われているのか、静かになったり騒がしくなったりする。練行衆たちが駆け回っているらしく、いっとき床を踏みならす木沓のかん高い音、そして再び静寂。達陀(だったん)の行法というものが行われているらしい。
このとき光と音に包まれた二月堂は、冬から春へと季節が分かれる闇の窪みで、生まれ出ようとする生き物がうごめいているようだった。
地軸が傾き、大地が揺れ動く。
この冬に遭遇した、その感覚と恐怖は、いまも体の中で揺れつづけているものだった。

マンション9階のまだ薄暗い部屋で、大揺れに揺さぶられた。何が起きているのか分からなかった。とほうもない大きな怪物が、建物を壊そうとしていると思った。大きな手がベランダの戸を、ガタガタとこじ開けようとしている。何本もの手が、食器棚の食器を床に投げつけている。次は私の体が、コンクリートの壁とともに、大地に叩きつけられるにちがいない。ああ何もかも終わってしまう、と絶望か恐怖かわからない巨大なものに掴まれていた。
さまざまな音が襲ってきた。体が揺れた。一瞬いま居る場所を忘れていた。闇の中を炎が走り抜けた。つぎつぎに大松明が火と煙をふりまいて駆け抜けた。

火の儀式は終わった。二月堂に静かなもとの夜が戻ってきた。眼下の闇を水のように人々の影が引いてゆく。そのあとも薄暗い内陣では儀式が続けられている。帳を透かして白く浮いた灯明の前を、ときどき黒い影が遮り、床を踏みならす木沓の音も、なお続いている。千数百年前と同じ行法が、そこでは行われているのだろう。平重衡の南都焼き討ちのあとも、大仏殿が焼け落ちたあとも、そしてさまざまな災害や大震災のあとも、儀式は途切れることなく引き継がれてきたのだ。
古都の夜を明るく照らし、駆け抜けていった大きな炎をみた。千年の歴史を運びつづけてきたという、火の軌跡をみた。人々の命を燃やした、火の輝きをみた。心の内に熱く燃える炎が残った。
お水取りが終わると、近畿には春が来るといわれている。だったんの沓音が、命の扉を叩きつづけた、そんな春の始まりだった。




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