風の記憶

≪記憶の葉っぱをそよがせる、風の言葉を見つけたい……小さな試みのブログです≫

ときには時を動かしてみる

2024年04月20日 | 「2024 風のファミリー」



時が過ぎてゆく。
時間に追われていた頃もあった。時間を追いかけていた頃もあった。
いまは、つれなく時間に追い抜かれている。近づく時の足音すら聞こえないことも多い。
締切がなくても、約束がなくても、それでも時は動いている。
いたるところに時を表示する時計はあるけれど、ときには時をじっと待ち、じっくり見つめ直したくなったりする。

古い腕時計を持っている。
私は旅行をする時ぐらいしか腕時計をしなかったし、最近はスマホが時計代わりになるので、普段は机の引き出しにしまったままになっている。
学生の時に父からもらったものだが、電池やネジで動くものではないので、いまでも動かせば動く。使わない時は止まったままだが、動かしたい時に手首にはめて腕を振る。それだけで動き始める。そんな旧式の時計だ。
スイス製だぞと言って、父は自慢げだった。まだ、スイス製の時計がまぶしかった頃のことだ。

父がいうスイス製は、あまり信用できないこともあった。
九州の片田舎で、父は古物を扱う商売をしていた。店では大阪の問屋から送られてくる質流れ品を扱っていた。種々雑多な商品があり、その中に腕時計もあった。
入荷したばかりの腕時計のブランド名を、父はローマ字が読めないので、高校生の私に一点一点確認させる。
私の判定力もいい加減で、セイコーやシチズン以外の舶来品はよく判らない。すると、残ったものはすべて、父のひと言でスイス製になってしまうのだった。
だから、私がもらった腕時計も怪しいものだ。それでも父よりも長生きして、時々は私の腕で役割を果たしたのだから、もはや商人としての父に恥をかかすこともないだろう。

父の死後に形見のつもりか、母が私にくれた腕時計もある。それまでずっと父が使っていた腕時計だった。
その腕時計は正真正銘のスイス製だったが、電池式だったので1年ももたずに止まってしまった。電池を交換すれば動くのかもしれないが、面倒なのでそのまま引き出しの奥で眠らせている。
考えてみれば、すでに父の十三回忌もとうに過ぎたので、その時計もほぼ永眠状態だといえるかもしれない。

古い腕時計の方が旧式なゆえに単純で、振るだけで動いてくれるというのも皮肉めいている。古さは、ときには新しさでもあるようだ。
いつだったか、ライトアップされた光のトンネルを見に行ったとき、途中で1時間遅れていることに気がついた。とうとうこの腕時計もガタがきたかと心配したが、その日は夜まで、正確に1時間くるったままで動いていた。
どうやら朝の時間合わせのときに、私の方が1時間まちがって針を合わせたようだ。ゼンマイがゆるんでいたのは、私の方だったのだ。

いまや、私に忠実に従ってくれるのは、この腕時計だけかもしれない。
野山も鮮やかな新緑に燃え始めている。ぼちぼち引き出しの眠りから目覚めさせて、どこかに連れ出してやろうかと思っている。
いつも、突然起こされたようにして動きだすのろまな腕時計だが、私には合っているように思えてきた。腕を気にしながら大きく振って歩く。すると時が動きだす。停滞ぎみの私の心の秒針も、つられて一緒に動きはじめるような気になる。




「2024 風のファミリー」




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