風の記憶

≪記憶の葉っぱをそよがせる、風の言葉を見つけたい……小さな試みのブログです≫

まだ虫だった頃

2024年03月20日 | 「2024 風のファミリー」

 

寒さにふるえているあいだに、時だけが木枯らしのように走り去っていった。
短い2月の、アンバランスな感覚に戸惑っていたら、いつのまにか3月も終わろうとしている。3月だからどうということもないのだが、急き立てられる思いが、やはり日常の感覚と歩調が合っていない。
3月のカレンダーで、啓蟄という言葉が目にとまった。
日付のところに小さく「啓蟄」(けいちつ)とあった。地中の虫が這い出してくる日だという。暖かくなったということか。地中にいても、虫は季節の変化をちゃんと知っているんだと感心する。

季節のことも曖昧で、啓蟄という言葉も知らなかった頃、九州の別府で、結核療養所に閉じ込められていたことがある。22歳から23歳の頃だった。あのころはまだ地上の明るさも見えない、地中の虫だったかもしれない。
療養所での生活は、閉じ込められているという意識が強かった。初めの頃は遮断された外界のことばかりが気になった。そのうち外も内もなくなって怠惰な生活にも慣れると、閉じ込められた生活もそれなりに快適になっていった。

時間はいくらでもあった。薬の副作用で体が熱くなったり痺れたりはしたが、肺の一部に病巣があるというだけで体は元気だった。
将棋を指したり碁を打ったり、楽器を弾いたり、チャチャチャやドドンパなどで適当に踊ったりする。相撲の本場所が始まると賭博で一喜一憂する。消灯後にはこっそりベッドを抜け出して街に下り、ラーメンの屋台をさがして歩いたりした。慣れない戸外ではふわふわとして足が地につかなかった。体に小さくて不器用な羽が生えているみたいだった。

病人なのに、元気でなければ楽しめない生活だった。しかし本物の元気になれば、この生活も終わるのだった。
それぞれのベッドには、古参の顔があり新参の顔があった。若者も年寄りもいた。元気な人も弱っている人もいた。朝刊を読んでいた人が夕方には血を吐いて死んでいたりした。
どの病室にも同じ壁がありドアがあり、長い廊下があった。上下関係もなく利害関係もない。同病相憐れむではないが、同じ境遇だから誰とでも親しくなれた。

眠れない夜に、病室の白い壁をコツコツとノックしてみる。するとすぐにコツコツと返事がかえってくる。それらの音に意味があったか無かったか、その残響を夢の入口で追い続けていると、鼓動が速くなって夜はますます遠くなるのだった。
白い壁をコツコツとノックしていたのは、外界に出ていく虫の言葉だったのかもしれないと、その意味を知ったのはずっと後のことだった。その当時は、その意味を確かめることもできなかった。まだ地中の虫である私には、地上の明るさも見えない臆病な虫だったから。

親しかった人が退院する日をカレンダーで確かめた。そのとき啓蟄という漢字をはじめて知った。太陽の下で飛び立とうとする虫は美しかった。
小さなテントウムシが、私の掌のうえで羽を広げようとしていた。虫はいくどもいくども飛びたつ試みをしたのち、やっと思いたったように私の手から離れていった。突然の別れ、そうやって新しい季節が始まろうとするのを、ただ黙って見送るしかなかった。
いまでも地中では、虫たちが白い壁をノックしているにちがいない。春の扉をたたくコツコツという音が、どこからか聞こえてくるような気がする。




「2024 風のファミリー」




この記事についてブログを書く
« 水が濡れる | トップ | 白い花が咲いてた »
最新の画像もっと見る

「2024 風のファミリー」」カテゴリの最新記事