風の記憶

≪記憶の葉っぱをそよがせる、風の言葉を見つけたい……小さな試みのブログです≫

木にやどる神

2024年06月19日 | 「2024 風のファミリー」

 

クリスチャンではないので、教会にはあまり縁がないが、旧軽井沢の聖パウロカトリック教会のことは強く旅の印象に残っている。その素朴な建物に魅せられたのだった。
引き寄せられるように教会の中に入ってしまったが、居心地が良くて、しばらくは出ることができなかった。周りの木々に調和した木造の建物は、柱や椅子、十字架にいたるまで、木が素材のままで生かされており、木の温もりがあり、その温もりの中に神が宿っていそうだった。ただそこに居て、木の椅子に座っているだけで、誰かに抱きしめられているようで心地よかった。

「初めに言葉あり、言葉は神とともにあり、言葉は神なり」と規定される西洋の神よりももっと古い、言葉よりももっと古い神が、木には宿っているような気がしたし、私らが慣れ親しんでいる神があるとすれば、そのような木の神に近いものだと思った。
子供の頃の記憶で、大きな木の肌に耳を当てると神様の声が聞こえると言われた、そんな馴染みのある神が、この木の教会には、柱の陰などにひっそりと隠れているような気がした。

正面の十字架の後ろには四角い窓があり、眩い外光が室内のⅩ字型に組まれた木の柱や木の椅子に、やわらかい影を投げかけている。山小屋や農家の納屋にいるような、厳粛さなどとはちがった、もっと和やかで愉しい空気に包まれる空間があった。
やはり木は優しいのだ。木は建物の一部になっても生きつづける。その木肌に折々に触れた人々の汗と油を吸収し、艶となって鈍く輝いている。静かに昔語りをする老人のようでもあった。

いつか四国の古い芝居小屋を訪れて感じた、あの独特のくつろいだ雰囲気を思い出した。古くから土地の人々の生活とともにあって、そこには晴れやかに人々が集う日と、がらんとして静まり放置された日があり、その繰りかえされた生活の空隙に、木の舞台や奈落の装置は残されたままで、いまも人々を日常の外へと誘い出そうとしているようだった。
その場にいると、いつもより気分を高揚させる何かがあるのだった。あるいは夢幻の領域に引き込まれていくような、そんな不思議な感覚の中で時を忘れることができた。ゼウスの神とミューズの神が仲よく共存していそうな、やさしい木の棲み家だった。




「2024 風のファミリー」




 

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