風の記憶

≪記憶の葉っぱをそよがせる、風の言葉を見つけたい……小さな試みのブログです≫

満開の桜の下で

2019年04月06日 | 「新エッセイ集2019」

 

寝床の中でYouTubeの朗読を聴いている。
やわらかく耳から入ってくる音声が、まだ目覚めぬ夢のつづきが語られているように心地いい。
意識よりも感覚の海を漂っている感じだ。
困ったな困ったなという、あいまいな思いの小舟が揺れている。
今日あたりは桜が満開にちがいない、という意識がかすかに波立っている。
桜が満開であるだろうということが、なぜだか、そのことが困ったことのように思えている。
たぶん、まだ寝ぼけている。
聴こえてくる物語は、坂口安吾の短編小説『桜の森の満開の下』。
ぼくの困った桜は、しだいに物語の桜へと誘惑されていく。

大昔は桜の花の下は怖しいと思っても、絶景だなどとは誰も思いませんでした……という。
満開の桜の下を通り抜けようとすると、旅人はみんな花の下で気が変になったという。そんな街道はだれも通らなくなるのだが、そのさびれた桜の森にひとりの山賊が住み始める。
彼は剛毅な男だったけれど、それでも満開の桜は嫌いだった。
花の下では、風もないのに冷たい風がごうごうと鳴っていて、花びらがぼそぼそ散るのが、まるで魂が散って、命が衰えていくように思われるからだった、という。

それでも桜の森に住み続けているうちに、山賊は8人も妻ができてしまう。もちろん略奪した女ばかりだ。そして最後の8人目の妻は、絶世の美女。だが恐ろしい女だった。
自分以外の女たちを殺すことを、彼女は男に命じる。男がためらっていると、「お前は私の亭主を殺したくせに、自分の女房が殺せないのかえ」と迫る。
女が女中に選んだいちばん醜い女を残して、男はほかの女をすべて殺してしまうが、さすがの山賊も不安になって腰を抜かしてしまう。それでもなお、女の美しさに魂は奪われている。
男の不安な気分は、あの桜の花の下を通るときの気分に似ていると、男には漠然とそれくらいのことしか分からない。

8番目の妻はとてもわがままな女だった。
櫛や笄や簪や着物と、女は際限なく物を欲しがるので、男は都へ出ていくことを決心する。
都では、男は夜ごと着物や宝石などを盗み出してくるが、女が欲しがるものはそんな物ではなく、人の首だった。その首で、女は首遊びというものを始める。
それは残酷きわまりない遊びだった。女は首遊びに飽きることを知らず、男は首にも都にも、そんな涯のない生活に耐えられなくなってくる。

ある朝、満開の桜の下で目を覚ました男は、桜の森を思い出し山へ帰ろうと決心する。山には女が欲しがるようなものは何もないからと、男はひとりで帰ることを打ち明ける。
男の決心が固いことを察した女は、「お前と首と、どっちか一つを選ばなければならないなら、私は首をあきらめるよ」と、心にもないことを言って男を喜ばす。
この女にもそのような思いやりの心があったかと、男は嬉々として女を背負って桜の森へと帰っていくのだが。
おりしも桜は満開。花の下は四方から冷たい風が吹き寄せていた。いつのまにか、女の手もすっかり冷たくなっている。男は異変に気づいて振り返る。すると、背中にしがみついていたのは、紫色の顔をした鬼だった。

すっかり目覚めたぼくは、朝のウォーキングに出かけた。
おりしも公園の桜も満開。
見あげると、空が明るすぎて桜の花は翳ってみえる。ひんやりと冷たい風も吹いていそうで、花の領域はどこまでも涯が無いようにみえる。
去年も今年も、満開の桜は同じだと思ってしまう。まばゆく華やかだが、明るさの中に小さな影をいっぱい包み込んでいる。
困ったな困ったなと、なんだかまた困ってしまうような感覚に捉えられてしまった。

 

コメント (4)    この記事についてブログを書く
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4 コメント

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Unknown (rikocherry)
2019-04-08 05:48:30
坂口安吾のこの小説は、怖い中にも最後は美しい桜だけが残り鬼と化していた女も、そして心を取り戻した男ま全て消えたという最後のシーンが、とても美しい映像が目に浮かびます。
桜の下は人の死体が埋まっている…なんて言われますが狂おしくなるほどの桜の美しさは、本当にそうなのかもしれないと思います。

久々にお邪魔し、昔読んだこの作品を偲ぶことが出来ました。
有難うございました。
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桜の花の魔力 (yo-yo)
2019-04-08 17:28:13
rikocherryさん
コメントありがとうございます。

むかし「花の季節になると、旅人はみんな森の花(鈴鹿峠)の下で気が変になりました」ということですが、現代でも満開の桜の下で、ひとは狂乱しそうになりますね。桜の花には不思議な魔力があるようです。でも最後は落下して、ただの花びらですが。

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Unknown (aya7maki)
2019-04-09 10:36:04
桜の木の下には、死体が埋まっている、
という言葉で、なんとなく知っているだけでしたが、読んだことはなく、
初めて内容を知りました。
桜が咲くと、部屋から見える桜のところまで、
毎日出かけていきます。
今日は満開か、明日は散るかと
落ち着きません。
確か歌にも、なかりせば、というのがありましたね。
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花に隠れて (yo-yo)
2019-04-09 18:27:24
aya7makiさん
コメントありがとうございます。

桜の花が咲いていると思うと、なぜか
こころ落ち着きませんよね。
ただ静かに咲いているだけなのに、
大きな声で呼ばれているわけでもないのに、
気になって仕方がない。
もしかしたら、
花に隠れて誰かが呼んでいるのでしょうか。

  世の中にたえて桜のなかりせば
  春の心はのどけからまし (在原業平)

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