風の記憶

≪記憶の葉っぱをそよがせる、風の言葉を見つけたい……小さな試みのブログです≫

ひとよ 昼はとほく澄みわたるので

2024年05月22日 | 「2024 風のファミリー」



このところ、芳しい若葉の風に誘われるように、ふっと立原道造の詩の断片が蘇ってくることがあった。背景には浅間山の優しい山の形も浮かんでいる。白い噴煙を浅く帽子のように被った、そんな山を見に行きたくなった。

ささやかな地異は そのかたみに
灰を降らした……


私も灰の降る土地で育った。幾夜も、阿蘇の地鳴りを耳の底に聞きながら眠った。朝、外に出てみると、道路も屋根も草や木々の葉っぱも、夢のあとのように色を失って、あらゆるものが灰色に沈んでいた。だから、静かに灰の降る土地に親しみがあった。林の上には沈黙する活火山がある、そんな風景のなかで詩を書いた詩人に、特別な親近感があった。

立原道造は昭和14年3月に、25歳の若さで死んだ。たくさんの美しい詩を残した。
道造が生涯を終えた同じ年頃に、私は新しい生活を始めようとしていた。それまで私は一編の詩も書いてはいなかった。ただ、道造の詩を愛読するひとりにすぎなかった。浅間山と、軽井沢追分の地名と、幾編かの詩の断片が、青春の熱のように私の後頭部を熱くしていた。

新しい生活を始めるために、私たちは上野から汽車に乗った。夜遅く着いた軽井沢のホテルの食堂に、ふたり分の夕食だけが残されていた。そのテーブルに向かい合って座ったとき、ふたりの生活が始まったと実感した。宿泊客がほとんどいない5月のホテルで、2日間、私たちは食事時間以外は、まるで忘れられた客のようになって過ごした。

部屋の前には林と広い芝生の庭が広がっていた。それがゴルフ場であることも知らなかった。終日、誰もいない芝生の上に寝転がって、聞いたこともない珍しい鳥の声に驚いていた。辺りの木々は新緑に包まれ、林の上の青い空には、消え入りそうな優しい形をした山があった。それが浅間山だとはじめて知った。

吹きすぎる風の ほほゑみに 撫ぜて行く
朝のしめったそよ風の……さうして
一日が明けて行った 暮れて行った


静かに始まった草原の1日に続いて、つぎつぎと慌ただしく1日が明けて行った、暮れて行った。
子どもが生まれて生活が厳しくなった。仕事は楽しかったが、東京の生活に行き詰まりを感じて、身寄りの多い大阪へ移った。日々の生活に追われ時を忘れ、詩や詩人のことなどすっかり忘れた。10年間、家族の生活と平安のために不本意な仕事に耐えた。

やがて、自分がいちばん大事と思い直し、やりたかった好きな仕事を始めた。東京時代に習得した印刷関連の仕事だった。好きなことだから時間も忘れて没頭できた。やればやるだけの収入も得られた。家族も増え住宅も車も手に入れた。あっという間に毎日が明けて行った、暮れて行った。

やがて成長した子ども達が仕事や結婚で家を出ていった。
それまでコンピューターを使ってこなしてきた仕事を、こんどはコンピューターに奪われるようになった。私の作ったデータは無償でコピーされ再生され、私の手から次第に離れていった。さらに同じ仕事を続けるには心身ともに限界にきていた。私は仕事をなくし、同時に家も車も失った。

あとには夫婦2人だけの生活が残った。
生活の不安はあったが、私は妻の同意も得て仕事から離れた。だが残されたものは貧しさと自由な時間だけになった。ほかにも何か残っているかは分からなかったが、私は詩のことを思い出し、少しずつ詩のようなものを書くことを始めた。

しづかな歌よ ゆるやかに
おまへは どこから 来て
どこへ 私を過ぎて
消えて 行く?


ふたたび5月。2人で何十年ぶりかで軽井沢を訪ねた。青く湿った風に吹かれたいと思った。貧しさの中で、貧しかった若い頃に、私の魂は帰りたがっているようにみえた。

ああ ふたたびはかへらないおまへが
見おぼえがある! 僕らのまはりに
とりかこんでゐる 自然のなかに


そこには、変わるものと変わらないものがあった。かつて泊まったホテルの名称も変わっていた。林の木々はやわらかい緑に染まり、鳥たちは、甲高く透き通った声でしきりに鳴いていた。そして浅間山は、懐かしい記憶のかたちのままで残っていた。

ひとよ 昼はとほく澄みわたるので
私のかへって行く故里が どこかにとほくあるやうだ



        (文中の詩はすべて、立原道造の詩集から引用したものです)




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