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新教育基本法を手掛かりに、愛国心について考える

「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと」。これは、先般、「やらせタウンミーティング」などで、さんざんケチが付きながらも、国会を通過した新しい教育基本法で、最も論議を呼んだ箇所の一つ、第二条第五項です。

私が、先入観無しに(と、努力して)この文章を読んだ場合に、この文章自体には、そう悪い印象は持ちません。むしろ、「他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと」とある点が、偏狭なナショナリズムを排していて、好ましい、と思うくらいのものです。

但し、この条文が、さまざまに解釈されて、何らかの強制力を持つ法として機能する可能性を考えると、幾つか、疑問な点、心配な点が出てきます。その中でも、最大のポイントは、「我が国」を愛する、と言う場合に、愛する対象が、具体的には何で、どうすれば「我が国を愛した」ことになるのか、ということです。

しかし、直観的に言って、日本国を愛することと、日本の政府を愛することとは、本来、別のことであり、両者は明確に区別されるべきではないでしょうか。取りあえず、ここから、考え始めたいと思います。(但し、この前提は、後から訂正されるので、注意して下さい)

そう考えると、かつての政府である、天皇家や幕府などといったものは、伝統や文化を理解するために知っておきたい知識の一部ではあっても、愛国心の対象とは別物だろうと思います。では、「我が国」とは一体何なのでしょうか。

先の条文の文章を拡大解釈すると、「我が国」とは、伝統と文化をはぐくんできたものだと読むことが出来そうです。

たとえば、多くの伝統と言えそうなものは、日本語で表現されていますから、日本語を使う「人」が「国」の実体なのでしょうか。では、デーブ・スペクター氏や邱永漢氏は「我が国」として愛すべきものの一部なのか。私は、それでも構わないと思いますが、言葉を便利に定義することを考えると、それなら、何も、「我が国」という区分を設ける必要はなさそうです。別に、その人が日本語を話さなくてもいいし、現に、外資系の会社で一緒に働いた外国籍の人物に、面識のない日本国籍の人よりも親近感を覚えることはありますし、それが悪いこととは思えません。

また、我々が文化と考えるものの相当部分は外国の人々が「はぐくんできた」ものです。ファッションが文化なら、洋服は、まさに西洋ではぐくくまれてきたし、音楽についても、我々が聞いているものの大半が、クラッシックにせよ、ポピュラー・ミュージックにせよ、外国の影響を受けています。今日読まれている日本語で書かれた文学や哲学も大半がそうでしょう。もちろん、日本人が「はぐくんできた」ものもたくさんありますが、両者の価値を区別することは無意味ではないでしょうか。教育のための法律としては、単に、「文化と伝統を理解し尊重する心をやしなう」とでも書けばよろしい。

「我が国」を敢えて定義しようとすると、幾らか循環的になりますが、現在、我が国とされている地域、つまり、日本の国土上に存在する、もの全体、あるいは、もう少し狭く考えると、人間の社会、ということになるのでしょう。

但し、たとえば、北海道と九州がなぜ同じ国でなければならないのか(余談ですが、北海道の人と、九州の人は、割合に「ウマが合う」ことが多いように思いますが)という疑問が湧きます。国土を決めているものは何でしょうか。また、現在、日本には、日本国籍を持たない多くの人が存在しますが、彼らを日本人と区別するのは、どのような理由によるのでしょうか。お互いの助け合いの関係を重視するなら、人種や国籍よりも、たとえば納税しているかどうか、といったことの方が重要でしょう。

こうして、順に、考えると、結局、国土は時の政府が決めており、人や物の出入りに対して、何らかの強制力によってこれをコントロールしているのであり、また、人に関しても、これを「日本人」とするかしないかを、日本国政府がコントロールしています。結局、「国を愛する」とは、時の政府を愛すること及び、政府が国と認め伝統や文化とみなすものを愛すること、とならざるを得ません。

新しい教育基本法の条文では、国を愛することが、郷土を愛することと巧妙にくっつけられていますが、先に見たように、愛国心の正体が政府に従属した愛だとすると、これは、郷土愛とは、明らかに別物でしょう。

私の場合、郷土というか、地域への愛着は、生まれ育った北海道の一部の地域(生まれは、旭川市、育ちは、札幌市です。この周辺の地域は今でも懐かしい)に対する懐かしさと愛着、同様に、北海道よりも随分長く住んでいる東京の幾つかの場所に対する愛着もあれば、漠然とアジアはいいなと思うこともあり、西日本と対置して東日本への親近性を感じることもありますし、行ったことのない韓国よりも、行ったことのあるロンドンやニューヨークに親近感を覚えるということもあります。私に限らず、地域に対する愛着は、自分の経験や知識、考え方によって変化するものでしょう。

また、この事情は、人に対しても同様でしょう。個人的な感情としては、外国人でも好きな人は好き、良いことをする人は良い人だ、と思うでしょうし、日本国籍を持った人でも、嫌いな人は嫌いであり、悪いことをする人に対して敵意を抱くことはあるでしょうし、それで拙いとは思えません。生物としての人間が、お互いに、協力し合い、寛容であることが望ましい、という一般的な倫理を導入するとしても、そこでは、「国」を区別する必要はありませんし、国への拘りは、むしろ、いけないことであり、抑制しなければならない悪習である、と言えるでしょう。

思い切って言ってしまえば、愛にとって、「国」というものは、「余分」なのではないでしょうか。国は、それをどのように考えるとしても、何らかの政府を前提としなければ定義できないものです。また、その有り様は、多くの場合、排他的であって、「愛」とは、相容れません。

よく、「自分の国を愛せない人が、他国も愛することはできない」ということを、無前提に当然のように言う人が居ますが、これは、そもそも問題意識のズレた無意味な言説であって、「自国の人も、他国の人も、国に拘らずに、愛する」ことが重要なのではないか、と私は考えています。

また、政府というものは、結局単に人間が営んでいる組織であって、そのものに別個の生き物のような意志がある訳ではありません。要は、一群の人間が、たまたまその時に利用している制度に過ぎない、ということであって、「国」とは、政府がその影響範囲に貼ったラベルに過ぎません。敢えて国の「実体」といえば、暴力と徴税を中心とした権力のことになるのでしょうが、これを実行しているのは、国の立場を取っているとはいっても、あくまでも個人(複数の、でしょうが)です。

「国」に対して、人に対するように、「愛する」とか「裏切る」とか「捨てる」とか言うことは、比喩としては成立しても、人に対するのと正確に同じ意味ではありません。たとえば、外国で酷い目に遭ったのに十分な救済を受けられなかった人が、「国に捨てられた」と言うかも知れませんが、実際には、「日本国」という意志を持った主体が、その人を「捨てた」のではなくて、その判断に関わった外務省の役人さんなり政治家なり、何人かの個人がその人を捨てたのです。この点については、個人が、「国」をいわば隠れ蓑代わりに使っているということなので、注意が必要です。

結局、国の正体は政府です。もう少し細かく見ると、世俗宗教が神をでっち上げて人を支配するように、「国」とは、政府が国民をコントロールするために、あたかも実在するかのように作り上げた概念だ、ということでしょう。従って、この小論のスタートの「日本国を愛することと、日本の政府を愛することとは、本来、別のことであり、両者は明確に区別されるべき」だという前提条件は、実は、間違っていた、ということになるように思われます。

ここに至って、人や地域を自由に愛したいという感情と、いわゆる「愛国心」とが、どうにも相容れないことの理由が、分かってきましたし、新教育基本法が、国民に「愛させたい」ものが何なのかも分かってきます(もちろん政府及び、政府が決めたものを愛させたいのです。しかし、ここで政府を利用して愛国心の対象を決めるのは、複数でしょうが特定の個人です)。不気味な法律が制定された、ということが、理解できました。この不気味な愛人(=政府)は、「本当に愛しているなら、愛するもののために、何でも出来るはずだ、命も捨てられるはずだ・・・」と言い出しかねません。

先に私が挙げた前提条件の間違いの原因を探ると(実のところ、私は、この前提条件が正しいと思って、書き始めました)、「国を愛する」ということには、政府を愛する以外の何らかの実体があるはずだ、という先入観が働いていたことと、「愛国心」というものは、自然な感情として誰にでも存在する筈だという、これまた先入観の刷り込みが存在したことの二つが挙げられると思います。

私のように、どちらかというと、政府に対して疑いを持ちやすい性格を持っていても、「本来の愛国心」というものが存在する、という先入観から自由になれないくらい、愛国心というものが、方々で周到にプロパガンダされているのでしょう。

もちろん、自分が利用する政府を取り替えることには大きなコストが掛かり、日々の生活にとって、政府には便利な点も多々あるので、「国」の正体が政府だからといって、この政府の全てを、しかも、はじめから憎む必要はありません。「なるべく、いいものにしていこう」と考えることが、利用者にとっては、自然なことでしょうし、私も、その程度に考えています。

私個人は、たぶん、日本国政府を意図的に選んで生まれてきたわけではありませんが、その後、日本に居続けて、法律や制度を含む日本国政府の利用者を続けて居るところを見ると、今のところ、制度としての日本国政府に、不満はあっても、総体としてはそこそこに満足しているのでしょう。但し、将来、子供が徴兵されるようになったり、税金があまりに高くなったりすれば、利用する政府を変える、つまり、海外移住して、日本を離れることは選択肢の一つとしてあり得ます。今のところ、一利用者としての私の、日本国政府に対する気持ち、即ち、敢えて言えば私の愛国心の内容は、「私は、兵隊には行かないけれども、税金は払ってもいい、しかし、税金を払う以上は、なるべく良くなるように意見も言いたい」というものです。

ただし、私としては、日本国政府が、必ずしも、今のままのようなものでなくても、構いません。それが、自分にとってより便利であれば、アメリカと共通の政府でもいいし、中国、或いは韓国と一緒であっても構いません。私にとって、現在の日本及び日本国政府は、現状がそうである、という以上に、特別な意味を持つものではありません。

具体的には、国益、防衛、外交、ナショナリズム、経済政策、国際スポーツ大会における応援、諸文化に対する態度、など、多々論ずべき内容はありますが、それらに対する私の個人的な意見と、上記の愛国心に関する理解とは、今のところ整合的であるように感じています。

簡単に例を挙げると、「国益」とは、多くの場合、政府を利用する特定の個人ないし集団にとっての利益であって、国民にとって、無条件かつに存在するものではない、怪しい概念だと考えていますし、人や地域については「国」に拘らずに愛することが重要であって、「ナショナリズム」というものは、自己抑制すべき風土病のようなものだと考えています。もちろん、サッカーのワールドカップでも、オリンピックでも、国にこだわらずに、好きなチーム、好きな選手を応援するのが、正しい姿だと思っています(日本人を応援することも、しばしばあります)。

尚、以上は、私が考えたことをメモした程度のものであって、もちろん私個人の意見ですし、他人に同調を強制しようとするものではありません。また、この問題について、他の考えの方と、論議の白黒を付けよう、というような情熱は、現在持ち合わせていません。
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