goo

ホリエモン・ブログに思うネットの「野暮」と「粋」

 通称ホリエモンこと(ご本人は「takapon」と仰っているが)堀江貴文氏がブログを再開した。ご存じの方が多いかも知れないが、「六本木で働いていた元社長のアメブロ」(http://ameblo.jp/takapon-jp/)というタイトルで、アメーバ・ブログを使っている。ほぼ毎日更新されていて、なかなかアクティブだ。
 彼は重大な容疑での刑事被告人であり、法的あるいは倫理的にたぶん何らかの非があるのではないかと私は思っているが、それと、新しいブログとには重大な関係はない。発信する自由と、受け取らない自由の、双方の意味でネットの世界では「自由」が重要な価値だと思うが、この観点で判断すると、彼がブログを書いていることは非難にはあたらないと思う。堀江氏のブログが不愉快な人はこれを見なければいい。
 コメント欄が誰かによって管理されているのかどうかは知らないが、「堀江さん、あなたは、意見の発信などする身分ではない」とか「キミは極悪人だ」というような幼稚な非難を書き込む人がいるとすると、これはお門違いだし、両者の関係を見ると「見苦しい」(嫌なら見なければいいのであって、わざわざ寄ってくることが、対人関係上は恥ずかしい)。その場の文脈で議論として意味のある場合を除くと、彼のブログに、単なる堀江批判や罵詈雑言を書き込む人は、堀江氏の知名度に嫉妬しているのだろう(嫉妬を見破られることは、一般にかなり恥ずかしいことだ)。
 実は、私の現在のブログの運営方針は、堀江氏のブログの影響を受けている。
 ライブドア時代の彼のブログは、コメント欄を(たぶん)ほとんどオープンにして、読者に好きなことを書かせながら、彼のペースで進行していた。
 当時、私は、彼のブログを読みつつ、これがネットの作法なのかも知れないと思ったし、ある意味で「粋」ではないか、と思った。「そうか、ブログは、こういう具合にやるものか」と思ったので、私は、このブログのコメント欄を概ねカキコミ自由にして解放している。
 ただ、堀江氏のブログのようなスタイルが、積極的に「粋」と言えるのかどうかは、かつても今も、自信がない。ある程度自信を持っていえるのは、閉鎖的なブログが「野暮」だ、ということだ。
 ネットのコミュニケーションの基本は、不完全ではあっても多くの人が情報(意見も含む)を持ち寄り、お互いが他人の貢献とネットという場に感謝することだろう(再び言うが、嫌なら、見なければいい)。この場の状況を理解せずに、議論でなく力んで他人を批判したり、物事を決めつけたりするのは、ネットのコミュニケーションにとってネガティブだという意味で、場をわきまえない振る舞いだから「野暮」なのだ。
 もっとも、粋とか野暮とかの難しいところは、相手や事柄を「野暮だ」と口に出して指摘すること自体が、相当に「野暮」であることだ。出来れば、お互いに言わずもがなで分かり合うのが「粋」だ。
 あるいは褒めすぎかも知れないが、ブログに於ける堀江氏の長所は、自分に対して割合に客観的で、場合によっては自分を笑いの対象にする余裕があることだ。自分は偉くて、自分の主張こそが正しいのだと力んでいる文章に較べると、二分法的には随分「粋」だ。最近彼が書いている、「技術が経済のパイを拡げるって話」とか、「夢精の話」とかの「内容」には、そう感心するわけではないのだが、彼の文章の書き方は案外クールだ。
 具体例に引いて恐縮だが(許可も取っていないし)、当ブログによくコメントを書き込んで下さるペンネーム「作業員」さんのコメントは、時に激烈だったり、一見乱暴だったりするが、「自分が偉そうにしていない」ということが読者によく分かる点にあって、「粋」に分類できると思う。
 もちろん、ここで言う「野暮」と「粋」は、議論の文章の内容そのものとは直接に関係のない話で、野暮だけれども意味のある、感謝したくなるような内容のブログやコメントも世の中には多数ある。
 主にブログに関係して、「野暮」と「粋」の別を二分法的に考えてみた。異論や追加があれば、ご教示いただきたい。

1)カキコミの制限→野暮、自由なカキコミ→粋
2)実名の要求→野暮、匿名(ハンドルネーム)の許容→粋
3)自分が成功した(自慢)話→野暮、率直な失敗の告白(自虐)→粋
4)アフィリエイトの利用やバナー広告→野暮、無償の運営→粋
5)話の流れに関係ない話題→野暮、話に関連のある意外な話題→粋
6)一方的な批判→野暮、自説を批判の可能性に晒す姿勢→粋
7)詳細なプロフィール→野暮、控えめな自己紹介→粋
8)筆者自身が写り込んだ写真→野暮、話題に関連した写真や絵→粋
9)熱い議論→野暮、冷静な議論→粋
10)罵倒→野暮、ユーモア→粋
11)匿名で「どなる」→野暮、匿名を意識して謙虚→粋
12)徹底的な議論→野暮、センスのいい問題提起→粋

 最後の項目に関して一つ補足しておこう。
 実は、JMMでは村上龍編集長の方針で、メルマガ上で、寄稿者同士は直接議論しないことが暗黙のルールになっている。「JMMは、問題の提起までが目的で、結論を出すことまでは、この場に求めていません」というのが、いくらか記憶があやふやだが、村上編集長の動かない方針だった。(編集長が、以前に運営されていたホームページの教訓を生かしたものであるらしい)
 当初、この方針に「食い足りない」と思うことが私も何度かあったし、他の寄稿者もそう思ったことは一度ならずあると思う。
 しかし、後から振り返ってみると、JMMが「熱い議論の野暮な場」になって、後から後悔や倦怠感が漂うよりも、寄稿者と議論が適度な距離を取り合う方が、気持ちよく長続きできたのではないかと思う。今では村上氏の設計(粋なはからい?)に感謝している。

 私のブログの「野暮:粋の比率」は、野暮が少し高めだろう(管理者が田舎者だからだ)。野暮は、急に治るものではないが、もう少し「粋」に傾けようかなあ、とここのところ思うことが多い。。
 九鬼周造の「『いき』の構造」によると、「野暮と化け物とは箱根よりも東に住まぬことを『生粋』の江戸児は誇りとした」という。ネットの世界は、西も東も関係ないので、いろいろな人がいるなあ、というのが、当面の感慨だ。
コメント ( 25 ) | Trackback ( 0 )
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする