人は死を予感するような大きな不安に見舞われるとどうなっただろうか?
恐怖のあまり、泣き叫んだり、空を見上げて絶望したり、パニックで狂乱すると頭の中で描いていたのだが…。
意外や意外、内心、不安だらけだった筈なのに冷静!そう思えるのは時間の故?恐怖を消し去るナニガシの力があるのだろう。
これは阪神淡路大震災や東日本大震災を情報として見てきた教訓か?火災や川内原発のことが気がかりだった。死にたくない!
それぞれが考えて行動していた。さぁ、どうする?同時に情報を共有したり行動するものだ。途方に暮れている者はいなかった。否、一生懸命に不安を押さえ込んでいたに違いない。
地震で、家の中に居られなくなり外に飛び出した近所の人達の中から自然にリーダー的な役割をする者が出てくる。少人数だと団結が固くなる。
ご近所少集団のリーダーは健軍商店街の八百屋のご主人だった。「ガスの元栓、ブレーカーをOFFして下さい。」
と点検を呼びかけていた。商売人はこういう時、機転が利くものだと関心した。掛け声は大切。
「この地区の避難場所は小学校の体育館です。」と教えてくれた。
黙々と落ちた瓦を片付けている若夫婦。「動いていないと落ち着かないのよ。」と言っていた。…「この町の様子をみて来よう!」と走るお父さん。
目で見てきたことの信用度は高い。
「怖かったね。」「あんた、名前は?歳は幾つね?何をする人ね?」ネホリハホリ、誰にでも話しかけるお母さんや娘さん達。いっぺんにご近所の小集団は他人ではなくなった。
これを地震仲間と言おう。小さな町ではお世話する、されることの関係が成り立ち易いと思った。小さいから手っ取り早くなるのだろうか。
余震がくるたびに静寂。…この沈黙は重かった。誰かが「キャーッ!」と叫ぶと連鎖反応が起こりそうな気配。ジッと歯を食いしばって我慢しているのがわかった。
「今の内に飲み水を買って来なっせ。」と寄ってくるお兄ちゃん。地域消防団の若者(ヤンキー)だった。独居老人の様子を見に走り回っていた。ヤンキーを見直した。
こういう時はひとりでいてはいけないね。
近くのコンビニに行ったら驚いた。店内は商品が散乱していた。ペットボトルの水が欲しかったのに、無い!弁当は処分したと言う。店内は早い者勝ちで拾い買いしていた。仕方なく、缶コーヒーと袋菓子をゲットする。数日、この袋菓子が主食になった。食べるものが何もない恐怖までには至らなかった。その後、コンビニは閉店ガラガラが続く。
まさか、熊本で大地震がやって来るとは思いもよらなかった。気象庁でも予報できやしないのだから。
熊本市内でも被害の大きいところとそうでもないところがあった。どうやら土地の硬さによって差があるようだ。人間、硬い奴は手に負えないが、土地は岩のように頑固なところが地震に強い。
隣町、直下型震源地の益城町はもっと酷いことになっている。これはLineやメール、SNSで確認できた。電話は通じない。
一旦、小学校体育館に避難したものの余震の揺れで天井からの落下に不安があり、ほとんどの人達はグランドに集まっていた。
大集団だと人はよそよそしくなるのだろうか?話しかけて来る者などいなかった。こちらも話しかけ辛い。人見知りするタイプではないのに、何故か皆の衆が無表情に見えたのだった。
こういう時の出番ですよ!演劇をやっている特権だ。…サービス精神で小学校の先生に喋りかけると「あんた、そんなことを言っている場合じゃなか!」とニコリともせず嗜まれた。…「戦争でも始まったような光景ですねー。」と言ったのだった。教員で良かった。自衛隊員に言ったら殴られていただろう。
結局、アパートの道路、ご近所さんが集まっているところに戻った。…日が経つに連れ、路上から人が減っていった。
数日後、北区清水町の娘ファミリーのマンションに身を寄せる。ほとんど被害がない。クドシンと座長の妹からオニギリを差し入れてもらった。コメはこんなにも美味しいものか!…飴や海老せん、ポップコーン、チョコレートなどが主食になっていた。
この日よりコメや汁物への欲求が膨れ上がる。食べてうんこして寝る。これが日常というものか?地震で教わったのだった。
癌の摘出手術をして退院の4ヶ月半後のことだった。この状況下、演劇公演のことを考えていた。色々な生きざまがあるのです。…それはご近所さんとの会話が生まれてわかった。
あれから1年。薄ペラペラと書いた。
不思議の時間!これより劇の脚本になだれ込みます。
あの人この人の顔を思い浮かべながら!
恐怖のあまり、泣き叫んだり、空を見上げて絶望したり、パニックで狂乱すると頭の中で描いていたのだが…。
意外や意外、内心、不安だらけだった筈なのに冷静!そう思えるのは時間の故?恐怖を消し去るナニガシの力があるのだろう。
これは阪神淡路大震災や東日本大震災を情報として見てきた教訓か?火災や川内原発のことが気がかりだった。死にたくない!
それぞれが考えて行動していた。さぁ、どうする?同時に情報を共有したり行動するものだ。途方に暮れている者はいなかった。否、一生懸命に不安を押さえ込んでいたに違いない。
地震で、家の中に居られなくなり外に飛び出した近所の人達の中から自然にリーダー的な役割をする者が出てくる。少人数だと団結が固くなる。
ご近所少集団のリーダーは健軍商店街の八百屋のご主人だった。「ガスの元栓、ブレーカーをOFFして下さい。」
と点検を呼びかけていた。商売人はこういう時、機転が利くものだと関心した。掛け声は大切。
「この地区の避難場所は小学校の体育館です。」と教えてくれた。
黙々と落ちた瓦を片付けている若夫婦。「動いていないと落ち着かないのよ。」と言っていた。…「この町の様子をみて来よう!」と走るお父さん。
目で見てきたことの信用度は高い。
「怖かったね。」「あんた、名前は?歳は幾つね?何をする人ね?」ネホリハホリ、誰にでも話しかけるお母さんや娘さん達。いっぺんにご近所の小集団は他人ではなくなった。
これを地震仲間と言おう。小さな町ではお世話する、されることの関係が成り立ち易いと思った。小さいから手っ取り早くなるのだろうか。
余震がくるたびに静寂。…この沈黙は重かった。誰かが「キャーッ!」と叫ぶと連鎖反応が起こりそうな気配。ジッと歯を食いしばって我慢しているのがわかった。
「今の内に飲み水を買って来なっせ。」と寄ってくるお兄ちゃん。地域消防団の若者(ヤンキー)だった。独居老人の様子を見に走り回っていた。ヤンキーを見直した。
こういう時はひとりでいてはいけないね。
近くのコンビニに行ったら驚いた。店内は商品が散乱していた。ペットボトルの水が欲しかったのに、無い!弁当は処分したと言う。店内は早い者勝ちで拾い買いしていた。仕方なく、缶コーヒーと袋菓子をゲットする。数日、この袋菓子が主食になった。食べるものが何もない恐怖までには至らなかった。その後、コンビニは閉店ガラガラが続く。
まさか、熊本で大地震がやって来るとは思いもよらなかった。気象庁でも予報できやしないのだから。
熊本市内でも被害の大きいところとそうでもないところがあった。どうやら土地の硬さによって差があるようだ。人間、硬い奴は手に負えないが、土地は岩のように頑固なところが地震に強い。
隣町、直下型震源地の益城町はもっと酷いことになっている。これはLineやメール、SNSで確認できた。電話は通じない。
一旦、小学校体育館に避難したものの余震の揺れで天井からの落下に不安があり、ほとんどの人達はグランドに集まっていた。
大集団だと人はよそよそしくなるのだろうか?話しかけて来る者などいなかった。こちらも話しかけ辛い。人見知りするタイプではないのに、何故か皆の衆が無表情に見えたのだった。
こういう時の出番ですよ!演劇をやっている特権だ。…サービス精神で小学校の先生に喋りかけると「あんた、そんなことを言っている場合じゃなか!」とニコリともせず嗜まれた。…「戦争でも始まったような光景ですねー。」と言ったのだった。教員で良かった。自衛隊員に言ったら殴られていただろう。
結局、アパートの道路、ご近所さんが集まっているところに戻った。…日が経つに連れ、路上から人が減っていった。
数日後、北区清水町の娘ファミリーのマンションに身を寄せる。ほとんど被害がない。クドシンと座長の妹からオニギリを差し入れてもらった。コメはこんなにも美味しいものか!…飴や海老せん、ポップコーン、チョコレートなどが主食になっていた。
この日よりコメや汁物への欲求が膨れ上がる。食べてうんこして寝る。これが日常というものか?地震で教わったのだった。
癌の摘出手術をして退院の4ヶ月半後のことだった。この状況下、演劇公演のことを考えていた。色々な生きざまがあるのです。…それはご近所さんとの会話が生まれてわかった。
あれから1年。薄ペラペラと書いた。
不思議の時間!これより劇の脚本になだれ込みます。
あの人この人の顔を思い浮かべながら!
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