一言で言うとク行の旅だった。クルクル、クリクリ、クラクラだった。東京は空が小さく見えるところだ。
さて、「あっ」という間に走り過ぎた2泊3日の旅日記。失語症のおしゃべりハジメマス。
9月28日(水)
朝6時、座長に熊本空港まで車で送ってもらう。ここからはひとり旅だ。
搭乗手続きでトラブル発生!荷物検査で危険物があると再チェックされる。ライターは1本までと決められているのだが、もう1本あると言うのだ。プライバシーの底の底までひっくり返され、ライターを見つけるのに冷や汗どしゃ降り。麻薬を運んでいるような目つきになった。不徳の致すところ。
羽田空港着9:00。京急で品川駅で降り、友人に電話をかけまくり、午後2時開演のSpace早稲田演劇フェスティバルのオープニング公演「OKINAWA1972」を誘うも、突然過ぎて誰も応ぜず。そりゃそうだ!平日の昼間はみんな仕事中だった。
早稲田には早く着き過ぎてしまい、近くの喫茶店で暇を弄んでいるところに流山児祥氏が現れる。いつもの習性で「伏せ」の姿勢になってしまう。ヤクザじゃないが、自分では子分だと思っているからいつでも犬のような悲しい性が出てしまうよ。玉を遠くに投げられると、すぐに走って取りに行きたくなる。これはもう一生抜けきれないだろう。
■「OKINAWA1972」
1972年の沖縄返還の時代、それを沖縄のヤクザの視点から捉えた劇になっていた。同時に日本と米国との返還を巡る政府の駆け引きが進行する。なんと、流山児さんは時の総理、佐藤栄作で出演していた。はっきり言おう。顔や存在感はどこも似つかぬ。そこが面白さ、恐ろしさを倍増してくれたのだ。A作はなんて小さな男だったんだ。卑屈な男、無責任な男。米国の日本、沖縄への「核」持ち込みや戦争で使用することに対して部下任せ、自分では責任をとろうとしない頼りなさ。葛藤は自身の保身でしかない。そんな総理総裁、日本の首相だった。それは島民(ウチナンチュー)にとっても恐ろしい未来を暗示していた。あの時の返還には裏があったのだった。その時のツケを今でも払い続けている現実がある。
サメのように生きている流山児さんとは真逆な男と言って良い。A作は自分の力で突き進むことができない男だったことがよく理解できた。流山児さんがA作をやることによって、その狡さが拡大された。島民、国民にとっても悲しみが深まる。演出家=流山児氏は偉大な役者だった。太鼓を持っているのではないよ。神輿を担いでいるのでもない。ひたすら、演劇をやり続けて良かったと実感出来たのだ。
1945年の沖縄地上戦は悲惨極まることが起こっていた。1972年の返還時、沖縄のヤクザ抗争はある意味、日本の世界の内部分裂のハジマリだった。ヤクザの切り口で劇を見せ切れるのは容易なことではないと思った。■
公演が終わり、村山治さんと目黒駅近くのライブに行く。熊本地震復興支援ライブだった。東京の方々が熊本を応援してくれている。それだけでも目頭が熱くなり、歌を聞きながら泣きそうになったよ。いかんいかん、ここはひとつ、クルクルじいさんで通したいのだ。元気なところも見せたい。歌は勇気に代わる。今夜が初対面だというのに古くからのお友だちに見えたのだった。
9月29日(木)
宿泊先は大塚駅のビジネスホテル。今日は新宿アルタ前で朝の10時に坂上君(劇団の旗揚げをした1979年からの仲間)と待ち合わせていた。
ヘェ〜、お孫さんと暮らしているのかい!驚きだが、それだけの年月は流れている。私だって孫が4人いるよ。座長=夢現(さかもとまり)と坂上君は早稲田大学の同級生だからもう還暦なのだ。10月21(金)-23(日)の九州「劇」派「少女都市からの呼び声」では2年ぶりにお世話になります。軽く打ち合わせのつもりだったが、話は2年後のブラジル公演までオーバーヒートしたのだった。彼はダンスやイベントで南米交流を続けており、文化庁や国際交流基金の交渉窓口(足を運んでもらったり、顔を繋いでもらったり)のスタッフとして関わって頂くことになっている。話が過去現在未来と行ったり来たりしながら、後は公演当日会いましょう!と握手を交わした。
午後からは隙間時間があり、高田馬場駅周辺のお店でダメ元のチラシ置きに挑戦する。余ったら、夜からの新宿ゴールデン街で置かせてもらうつもりもあった。ところが、千部あったチラシが全部はけてしまったのだった。「熊本からわざわざ!」・・・第一印象は胡散臭く見られるも「熊本の地震は大変だったでしょうに!」とチラシを預かって頂けた。
夜7時、新宿ゴールデン街クラクラで、公演の出演者、新大久保鷹さんと待ち合わせていた。ここは劇団椿組の外波山文明さんのお店である。旗揚げ時1979年のメンバーだったシンスケしゃん、2004年当時、まだ中学生だったカヤちゃんも駆けつけてくれた。外波山さんも加わり、盛り上がった。クラクラでは、たこ八郎さんの写真や像が祀られており、何だか胸が熱くなった。
ヒゲと頭つるんつるんの新大久保鷹さんは身長190センチ以上あるのだが、更に身長を伸ばして2メートルのママで登場する?見世物小屋の男としては天下一品だ。飲みながらイイネ百連発だった。どうやら私のことを勘違いしていた。九州の演劇を一つに束ねようとしていないよ。そんなことは1ミリも思っていない。九州派のネーミングが一人歩きして誤解が誤解を呼んでいるようだ。ヤクザじゃない。そこのところを夜露死苦。
9月30日(金)
朝日新聞社に走る。メールなどでメディア各社には取材協力や宣伝をお願いしている。だが、メジャーにとって、私たちは馬の骨。お金も権威も、東京では透明な存在か。実は予約状況悪し。2年前に東京公演ご来場頂いたお客様の輪を広げていくしかなさそうだ。10月に入って公演まではカウント状態になった。もがき苦しみます。もう、恥も外聞もない。振り乱れます。
東京の空は小さい。熊本の方が広いよ。そびえ立つ摩天楼の故か?地下に潜ると方向感覚がなくなる。
羽田発17:55。熊本着19:35。飛行機は予定通り、飛んでくれて無事に生きて帰れた。
死んでたまるか、もういっぺん!
Space早稲田でお待ちしています。
■九州「劇」派■
「拝啓 唐十郎さま『少女都市からの呼び声』より」
■Website 九州「劇」派ホームページ http://gekiha.wix.com/gekiha
■予約フォーム https://www.quartet-online.net/ticket/gekiha
さて、「あっ」という間に走り過ぎた2泊3日の旅日記。失語症のおしゃべりハジメマス。
9月28日(水)
朝6時、座長に熊本空港まで車で送ってもらう。ここからはひとり旅だ。
搭乗手続きでトラブル発生!荷物検査で危険物があると再チェックされる。ライターは1本までと決められているのだが、もう1本あると言うのだ。プライバシーの底の底までひっくり返され、ライターを見つけるのに冷や汗どしゃ降り。麻薬を運んでいるような目つきになった。不徳の致すところ。
羽田空港着9:00。京急で品川駅で降り、友人に電話をかけまくり、午後2時開演のSpace早稲田演劇フェスティバルのオープニング公演「OKINAWA1972」を誘うも、突然過ぎて誰も応ぜず。そりゃそうだ!平日の昼間はみんな仕事中だった。
早稲田には早く着き過ぎてしまい、近くの喫茶店で暇を弄んでいるところに流山児祥氏が現れる。いつもの習性で「伏せ」の姿勢になってしまう。ヤクザじゃないが、自分では子分だと思っているからいつでも犬のような悲しい性が出てしまうよ。玉を遠くに投げられると、すぐに走って取りに行きたくなる。これはもう一生抜けきれないだろう。
■「OKINAWA1972」
1972年の沖縄返還の時代、それを沖縄のヤクザの視点から捉えた劇になっていた。同時に日本と米国との返還を巡る政府の駆け引きが進行する。なんと、流山児さんは時の総理、佐藤栄作で出演していた。はっきり言おう。顔や存在感はどこも似つかぬ。そこが面白さ、恐ろしさを倍増してくれたのだ。A作はなんて小さな男だったんだ。卑屈な男、無責任な男。米国の日本、沖縄への「核」持ち込みや戦争で使用することに対して部下任せ、自分では責任をとろうとしない頼りなさ。葛藤は自身の保身でしかない。そんな総理総裁、日本の首相だった。それは島民(ウチナンチュー)にとっても恐ろしい未来を暗示していた。あの時の返還には裏があったのだった。その時のツケを今でも払い続けている現実がある。
サメのように生きている流山児さんとは真逆な男と言って良い。A作は自分の力で突き進むことができない男だったことがよく理解できた。流山児さんがA作をやることによって、その狡さが拡大された。島民、国民にとっても悲しみが深まる。演出家=流山児氏は偉大な役者だった。太鼓を持っているのではないよ。神輿を担いでいるのでもない。ひたすら、演劇をやり続けて良かったと実感出来たのだ。
1945年の沖縄地上戦は悲惨極まることが起こっていた。1972年の返還時、沖縄のヤクザ抗争はある意味、日本の世界の内部分裂のハジマリだった。ヤクザの切り口で劇を見せ切れるのは容易なことではないと思った。■
公演が終わり、村山治さんと目黒駅近くのライブに行く。熊本地震復興支援ライブだった。東京の方々が熊本を応援してくれている。それだけでも目頭が熱くなり、歌を聞きながら泣きそうになったよ。いかんいかん、ここはひとつ、クルクルじいさんで通したいのだ。元気なところも見せたい。歌は勇気に代わる。今夜が初対面だというのに古くからのお友だちに見えたのだった。
9月29日(木)
宿泊先は大塚駅のビジネスホテル。今日は新宿アルタ前で朝の10時に坂上君(劇団の旗揚げをした1979年からの仲間)と待ち合わせていた。
ヘェ〜、お孫さんと暮らしているのかい!驚きだが、それだけの年月は流れている。私だって孫が4人いるよ。座長=夢現(さかもとまり)と坂上君は早稲田大学の同級生だからもう還暦なのだ。10月21(金)-23(日)の九州「劇」派「少女都市からの呼び声」では2年ぶりにお世話になります。軽く打ち合わせのつもりだったが、話は2年後のブラジル公演までオーバーヒートしたのだった。彼はダンスやイベントで南米交流を続けており、文化庁や国際交流基金の交渉窓口(足を運んでもらったり、顔を繋いでもらったり)のスタッフとして関わって頂くことになっている。話が過去現在未来と行ったり来たりしながら、後は公演当日会いましょう!と握手を交わした。
午後からは隙間時間があり、高田馬場駅周辺のお店でダメ元のチラシ置きに挑戦する。余ったら、夜からの新宿ゴールデン街で置かせてもらうつもりもあった。ところが、千部あったチラシが全部はけてしまったのだった。「熊本からわざわざ!」・・・第一印象は胡散臭く見られるも「熊本の地震は大変だったでしょうに!」とチラシを預かって頂けた。
夜7時、新宿ゴールデン街クラクラで、公演の出演者、新大久保鷹さんと待ち合わせていた。ここは劇団椿組の外波山文明さんのお店である。旗揚げ時1979年のメンバーだったシンスケしゃん、2004年当時、まだ中学生だったカヤちゃんも駆けつけてくれた。外波山さんも加わり、盛り上がった。クラクラでは、たこ八郎さんの写真や像が祀られており、何だか胸が熱くなった。
ヒゲと頭つるんつるんの新大久保鷹さんは身長190センチ以上あるのだが、更に身長を伸ばして2メートルのママで登場する?見世物小屋の男としては天下一品だ。飲みながらイイネ百連発だった。どうやら私のことを勘違いしていた。九州の演劇を一つに束ねようとしていないよ。そんなことは1ミリも思っていない。九州派のネーミングが一人歩きして誤解が誤解を呼んでいるようだ。ヤクザじゃない。そこのところを夜露死苦。
9月30日(金)
朝日新聞社に走る。メールなどでメディア各社には取材協力や宣伝をお願いしている。だが、メジャーにとって、私たちは馬の骨。お金も権威も、東京では透明な存在か。実は予約状況悪し。2年前に東京公演ご来場頂いたお客様の輪を広げていくしかなさそうだ。10月に入って公演まではカウント状態になった。もがき苦しみます。もう、恥も外聞もない。振り乱れます。
東京の空は小さい。熊本の方が広いよ。そびえ立つ摩天楼の故か?地下に潜ると方向感覚がなくなる。
羽田発17:55。熊本着19:35。飛行機は予定通り、飛んでくれて無事に生きて帰れた。
死んでたまるか、もういっぺん!
Space早稲田でお待ちしています。
■九州「劇」派■
「拝啓 唐十郎さま『少女都市からの呼び声』より」
■Website 九州「劇」派ホームページ http://gekiha.wix.com/gekiha
■予約フォーム https://www.quartet-online.net/ticket/gekiha