運動と脳―運動こそが脳の機能を活性化させる―
私たちは、体を動かすことが健康に良い結果をもたらすことを経験的に知っています。
逆に、体を動かさないでじっとしていると、体調も何となく思わしくなく、気分もす
っきりとはしません。
それどころか、最近の医学界では、座ったままじっとしていると、それだけで寿命が
縮まるともいわれています。
そこで、長野県のある地域では、「301運動」を合言葉に、健康の増進を心掛けて
いるグループがあります。これは、30分座ったままでいたら一度立ち上がりましょ
う、という意味です。
体を動かすこと、すなわち運動がもたらす効用は広い分野に及びますが、脳にたいす
る影響を中心として科学的に説いた本はあまりありません。
そんな中で、スウェーデンの精神科医アンデシュ・ハンセンの『運動脳―新版・一流
の頭脳―』(御舩 由美子訳 サンマーク出版、初版2022年9月10日、2023年1月
25日)が出版されました。
本書の現地でのスウェーデン語の出版は2016年で、英訳のタイトルは『脳―最良のそ
して最新の神経科学による、いかにしてあなたの脳を鍛えるかの方法』でした。
この意味で、本書は科学に基づく、一種の「ハウツーもの」ではあります。
ハンセン氏は当初、数千人の人が本書を興味深く読んでくれればいいと思っていたと
いう。
ところが、人口1000万人のスウェーデンでたちまち67万部が売れ、日本でも初
版(第1刷)が2022年9月10日に翻訳されてわずか4か月余りで2023年1月25日
には15刷まで増刷され、現在まで25万部と驚異的に売れています。
これは、いかに多くの人が現に物忘れや認知症などに悩み、あるいは将来認知症にな
るのではないか、と不安を感じているかを物語っています。
ハンセンは、人類がこれまでたどってきた歴史を背景に、世界で行われてきた 多く
の科学的あるいは化学的実験や調査結果を参照し、そこから彼の結論を導き出してい
ます。
その結論とは、運動が脳の各領域との連携を活性化するというものです。
これらのデータは随所に示されていますが、それらは本を読んで確認してもらうとし
て、もっと大筋をまず理解する方が有益だと思われます。
まずハンセン氏は、「生物学的には私たちの脳と身体は、今もサバンナにいる。私た
ちは本来、狩猟採集民なのである」という人類史から出発します。
この表現について少し補足しておくと、ヒトの祖先は600万年ほど前に、近縁のチ
ンパンジーと別れ、森から草原に出ました。そこで起こった大きな変化は、それまで
森が与えてくれた豊富な食料や敵から身を隠してくれる木々が草原にはないことです。
そこで、ヒトの祖先は、逆に自ら動いて狩猟を行い、あるいは食料となる木の実や地
下の食物を探して生きるようになりました。
この際、長時間獲物(動物)を追い、ある時には戦って獲物(特にタンパクや脂肪を
多く含む動物)を獲る必要があります。
また、他方で動物だけでなく、食料となる木の実や地下に眠る食べ物を広い草原の中
を歩いて探しだす必要がありました。
いずれにしても、サバンナに出た人の祖先が生きるためには、獲物を追いかけてサバ
ンナを歩き回って食物を確保しなければなりませんでした。言い換えると、そのよう
な能力をもった人の方が生き残る可能性が高くなります。
これをハンセンは、本書の第9章のタイトルである「最も動く祖先が生き残った」と
いう言葉で表しています。
このような能力は数百万年の進化の過程で遺伝され、今日の私たちに引き継がれてい
るのです。
これが、「生物学的には私たちの脳と身体は、今もサバンナにいる」つまり「狩猟採
集民なのである」という表現の意味です。
ところで、この狩猟採取という行為は、たんに身体能力の向上をもたらしただけでは
ありませんでした。
ここから、本が最も強調したい変化が生じたのです。それは、脳の発達です。ここで
いう「脳の発達」とは脳の大きさ(重量や体積)が増えるという意味ではありません。
自然界には人間の脳より大きな脳をもった生物がいます。しかし、機能的な脳とは細
胞がたくさんある脳でも、細胞同士がたくさんつながっている脳でもなく、各領域
(たとえば前頭葉・頭頂葉・海馬)がしっかりと連携している脳のことです。
それがプログラムをスムーズに実行処理するための前提となる。そして、ここが肝心
なのですが、身体を活発に動かせばその連携を強化できる。これが基本条件であり、
ハンセン氏の主張の核です。
狩猟採集とは、決して脳を使わない単純な活動ではありません。いつごろ、どこでど
んな獲物が得られるかを、季節や場所、風の向き、地形、あるいは行動中の水の補給
場所など、実に多くのことを考えなければなりません。
採集にしても、ただ広大なサバンナの中を探し回るのではなく、何時ごろどこに行け
ばどんな食べ物が手に入るかを知らなければなりません。
いずれにしても、狩猟採集民は常に体動かしています。そして、ここがハンセン氏の
主張の核心なのですが、「身体を活発に動かせばその連携を強化できる」。
人類はこれまでの歴史の99%の時間を狩猟採集生活で生きながらえ、その間に盛ん
に体を動かして脳を発達させてきたといいうことになります。
人類の歴史を1日に短縮すると、私たちは午後11時40分まで狩猟採取で生活を送
っていたのです。
そして1万年ほど前に、農耕社会が始まりますが、これも人類史の中ではわずか1%
の時間にしかすぎません。
その後200年前に工業化社会となりましたが、これは午後11時59分40秒、1
日が終わるまで、あと20秒というときでした。
さらにデジタル社会が普及したのは午後11時59分59秒、1日の最後の1秒です。
人類の長い歴史の中で、つい最近まで私たち脳と身体と脳は狩猟採集の時代のままで
すが、身体を動かすことだけが激減しました。
現在も狩猟採集生活を送るアフリカ・タンザニアに住むハッザ族の人たちに歩数計を
付けてもらって計ったところ、男性は1日8~10キロ、歩数で1万1000歩から
1万4000歩(女性はこれよりやや少ない)だった。
一方、欧米人の1日の平均歩数は6000歩~7000歩です。つまり大雑把に、狩
猟採集民は欧米人の倍以上歩いていたことになります。
人類は、知識を文字や映像、音などあらゆる媒体で蓄積することができるため、他の
生物とは比較にならないほどの文明を築いてきました。
その反面、次第に身体を動かすことが減ったため、新たな問題を抱え込むことにもな
ったのです。たとえば、ストレス過多による「ウツ病」であり、あるいは、記憶をつ
かさどる海馬が過度のストレスホルモン(コルチゾール)にさらされて委縮しまうこ
と、さらに脳の諸器官の連係の低下による認知症などです。
詳しい説明は本を読んでいただくとして、著者は、こうした現代人の問題のかなりの
部分は、身体を動かすことで改善がみられるという。
身体を動かすことほど脳を変えられる、つまり神経回路に変化を与えるものはないこ
とが分かっています。しかもその活動は特に長く続ける必要はなく、20分から30
分、身体を活発に動かすだけで充分に効果がある。
ただし、ハンセン氏によれば、いわゆる身体を動かすのではなく、「脳トレ」をいく
ら行っても、脳の機能を高めることにはならないそうです。
実際、脳を使うだけでは、かえって老化を早めてしまうことも知られています(注1)
日本の都市部に生活していると、移動は電車や車に頼り、体を動かす機会はますます
減っています。本書を読んで、できる限り体を動かすよう心掛けたいと思いました。
(注1)『日本経済日経』Gooday(2023/2/10)
https://gooday.nikkei.co.jp/atcl/report/23/020600006/020600001/?waad=abLZtgAl
私たちは、体を動かすことが健康に良い結果をもたらすことを経験的に知っています。
逆に、体を動かさないでじっとしていると、体調も何となく思わしくなく、気分もす
っきりとはしません。
それどころか、最近の医学界では、座ったままじっとしていると、それだけで寿命が
縮まるともいわれています。
そこで、長野県のある地域では、「301運動」を合言葉に、健康の増進を心掛けて
いるグループがあります。これは、30分座ったままでいたら一度立ち上がりましょ
う、という意味です。
体を動かすこと、すなわち運動がもたらす効用は広い分野に及びますが、脳にたいす
る影響を中心として科学的に説いた本はあまりありません。
そんな中で、スウェーデンの精神科医アンデシュ・ハンセンの『運動脳―新版・一流
の頭脳―』(御舩 由美子訳 サンマーク出版、初版2022年9月10日、2023年1月
25日)が出版されました。
本書の現地でのスウェーデン語の出版は2016年で、英訳のタイトルは『脳―最良のそ
して最新の神経科学による、いかにしてあなたの脳を鍛えるかの方法』でした。
この意味で、本書は科学に基づく、一種の「ハウツーもの」ではあります。
ハンセン氏は当初、数千人の人が本書を興味深く読んでくれればいいと思っていたと
いう。
ところが、人口1000万人のスウェーデンでたちまち67万部が売れ、日本でも初
版(第1刷)が2022年9月10日に翻訳されてわずか4か月余りで2023年1月25日
には15刷まで増刷され、現在まで25万部と驚異的に売れています。
これは、いかに多くの人が現に物忘れや認知症などに悩み、あるいは将来認知症にな
るのではないか、と不安を感じているかを物語っています。
ハンセンは、人類がこれまでたどってきた歴史を背景に、世界で行われてきた 多く
の科学的あるいは化学的実験や調査結果を参照し、そこから彼の結論を導き出してい
ます。
その結論とは、運動が脳の各領域との連携を活性化するというものです。
これらのデータは随所に示されていますが、それらは本を読んで確認してもらうとし
て、もっと大筋をまず理解する方が有益だと思われます。
まずハンセン氏は、「生物学的には私たちの脳と身体は、今もサバンナにいる。私た
ちは本来、狩猟採集民なのである」という人類史から出発します。
この表現について少し補足しておくと、ヒトの祖先は600万年ほど前に、近縁のチ
ンパンジーと別れ、森から草原に出ました。そこで起こった大きな変化は、それまで
森が与えてくれた豊富な食料や敵から身を隠してくれる木々が草原にはないことです。
そこで、ヒトの祖先は、逆に自ら動いて狩猟を行い、あるいは食料となる木の実や地
下の食物を探して生きるようになりました。
この際、長時間獲物(動物)を追い、ある時には戦って獲物(特にタンパクや脂肪を
多く含む動物)を獲る必要があります。
また、他方で動物だけでなく、食料となる木の実や地下に眠る食べ物を広い草原の中
を歩いて探しだす必要がありました。
いずれにしても、サバンナに出た人の祖先が生きるためには、獲物を追いかけてサバ
ンナを歩き回って食物を確保しなければなりませんでした。言い換えると、そのよう
な能力をもった人の方が生き残る可能性が高くなります。
これをハンセンは、本書の第9章のタイトルである「最も動く祖先が生き残った」と
いう言葉で表しています。
このような能力は数百万年の進化の過程で遺伝され、今日の私たちに引き継がれてい
るのです。
これが、「生物学的には私たちの脳と身体は、今もサバンナにいる」つまり「狩猟採
集民なのである」という表現の意味です。
ところで、この狩猟採取という行為は、たんに身体能力の向上をもたらしただけでは
ありませんでした。
ここから、本が最も強調したい変化が生じたのです。それは、脳の発達です。ここで
いう「脳の発達」とは脳の大きさ(重量や体積)が増えるという意味ではありません。
自然界には人間の脳より大きな脳をもった生物がいます。しかし、機能的な脳とは細
胞がたくさんある脳でも、細胞同士がたくさんつながっている脳でもなく、各領域
(たとえば前頭葉・頭頂葉・海馬)がしっかりと連携している脳のことです。
それがプログラムをスムーズに実行処理するための前提となる。そして、ここが肝心
なのですが、身体を活発に動かせばその連携を強化できる。これが基本条件であり、
ハンセン氏の主張の核です。
狩猟採集とは、決して脳を使わない単純な活動ではありません。いつごろ、どこでど
んな獲物が得られるかを、季節や場所、風の向き、地形、あるいは行動中の水の補給
場所など、実に多くのことを考えなければなりません。
採集にしても、ただ広大なサバンナの中を探し回るのではなく、何時ごろどこに行け
ばどんな食べ物が手に入るかを知らなければなりません。
いずれにしても、狩猟採集民は常に体動かしています。そして、ここがハンセン氏の
主張の核心なのですが、「身体を活発に動かせばその連携を強化できる」。
人類はこれまでの歴史の99%の時間を狩猟採集生活で生きながらえ、その間に盛ん
に体を動かして脳を発達させてきたといいうことになります。
人類の歴史を1日に短縮すると、私たちは午後11時40分まで狩猟採取で生活を送
っていたのです。
そして1万年ほど前に、農耕社会が始まりますが、これも人類史の中ではわずか1%
の時間にしかすぎません。
その後200年前に工業化社会となりましたが、これは午後11時59分40秒、1
日が終わるまで、あと20秒というときでした。
さらにデジタル社会が普及したのは午後11時59分59秒、1日の最後の1秒です。
人類の長い歴史の中で、つい最近まで私たち脳と身体と脳は狩猟採集の時代のままで
すが、身体を動かすことだけが激減しました。
現在も狩猟採集生活を送るアフリカ・タンザニアに住むハッザ族の人たちに歩数計を
付けてもらって計ったところ、男性は1日8~10キロ、歩数で1万1000歩から
1万4000歩(女性はこれよりやや少ない)だった。
一方、欧米人の1日の平均歩数は6000歩~7000歩です。つまり大雑把に、狩
猟採集民は欧米人の倍以上歩いていたことになります。
人類は、知識を文字や映像、音などあらゆる媒体で蓄積することができるため、他の
生物とは比較にならないほどの文明を築いてきました。
その反面、次第に身体を動かすことが減ったため、新たな問題を抱え込むことにもな
ったのです。たとえば、ストレス過多による「ウツ病」であり、あるいは、記憶をつ
かさどる海馬が過度のストレスホルモン(コルチゾール)にさらされて委縮しまうこ
と、さらに脳の諸器官の連係の低下による認知症などです。
詳しい説明は本を読んでいただくとして、著者は、こうした現代人の問題のかなりの
部分は、身体を動かすことで改善がみられるという。
身体を動かすことほど脳を変えられる、つまり神経回路に変化を与えるものはないこ
とが分かっています。しかもその活動は特に長く続ける必要はなく、20分から30
分、身体を活発に動かすだけで充分に効果がある。
ただし、ハンセン氏によれば、いわゆる身体を動かすのではなく、「脳トレ」をいく
ら行っても、脳の機能を高めることにはならないそうです。
実際、脳を使うだけでは、かえって老化を早めてしまうことも知られています(注1)
日本の都市部に生活していると、移動は電車や車に頼り、体を動かす機会はますます
減っています。本書を読んで、できる限り体を動かすよう心掛けたいと思いました。
(注1)『日本経済日経』Gooday(2023/2/10)
https://gooday.nikkei.co.jp/atcl/report/23/020600006/020600001/?waad=abLZtgAl