夢淡き東京

2018-01-24 09:53:24 | 懐かしのメロディー
夢淡き東京 藤山一郎




1 柳青める日 つばめが銀座に飛ぶ日
  誰を待つ心 可愛いガラス窓
  かすむは春の青空か あの屋根は
  かがやく聖路加(せいろか)か
  はるかに朝の虹も出た
  誰を待つ心 淡き夢の町 東京

2 橋にもたれつつ 二人は何を語る
  川の流れにも 嘆きをすてたまえ
  なつかし岸に聞こえ来る あの音は
  むかしの三味(しゃみ)の音か
  遠くに踊る影ひとつ
  川の流れさえ 淡き夢の町 東京

3 君は浅草か あの娘(こ)は神田の育ち
  風に通わすか 願うは同じ夢
  ほのかに胸に浮かぶのは あの姿
  夕日に染めた顔
  茜の雲を見つめてた
  風に通わすか 淡き夢の街 東京

4 悩み忘れんと 貧しき人は唄い
  せまい露路裏に 夜風はすすり泣く
  小雨が道にそぼ降れば あの灯り
  うるみてなやましく
  あわれはいつか雨にとけ
  せまい露路裏も 淡き夢の町 東京





昭和22年(1947)リリース。長谷川幸延作の連続ラジオドラマを映画化した『音楽五人男』(東宝)の主題歌。B面に収録された『白鳥の歌』とともに大ヒットしました。

歌詞に出てくる地名を見ると、このころまで、東京の重心は今よりずっと東にあったことがわかります。

高度経済成長期以降、新宿の新都心化、渋谷・池袋の副都心化が進み、重心は西に移動しました。

しかし近年、ウォーターフロントの再開発が進むにつれて、重心はまた東に戻る傾向が出ています。

銀座といえば、長い間、柳の並木がシンボルでした。「銀座の柳」は、さまざまな歌や小説、エッセイなどに描かれています。

しかし、それを知る人も、次第に少なくなってきました。

銀座に並木が植えられ始めたのは、明治10年(1877)ごろのことです。

当初は、柳のほかに松や桜なども植えられていましたが、生命力が強いということで、柳に統一されるようになりました。

柳は大事に管理され、銀座の四季を彩る風物詩となりましたが、大正10年(1921)、京橋・新橋間の車道拡幅のために撤去されてしまいました。

写真は撤去される前の柳並木。

大正12年(1923)9月1日には、関東大震災により、銀座そのものが焼失してしまいます。

昭和に入って震災からの復興が進むと、「銀座の柳」復活の気運が高まってきます。

「昔恋しい銀座の柳……」と歌った『東京行進曲 』(西條八十作詞、中山晋平作曲)の大流行も、その復活を助けました。

そのようにして復活した柳並木も、昭和20年(1945)3月と5月の東京大空襲で街ぐるみ焼失。

その後、柳並木は再生しましたが、昭和43年(1968)、またも道路整備のために撤去されてしまいました。

地元住民など銀座を愛する人たちは、「銀座の柳」の復活を希望しましたが、道路事情から実現は困難でした。

並木としては復活しなかったものの、昭和62年(1987)に中央区の木として柳が制定されたのを機に、日野市の建設省(現国土交通省)街路樹苗園に移植保存されていた「銀座の柳」が、同区内の何カ所かに数本ずつ分植されるようになりました。

1番の聖路加は中央区明石町にある聖路加国際病院のこと。

キリスト教の聖人・聖ルカにちなんだ名前なので、セイルカと呼ぶのが正しいようですが、一般にはセイロカ病院と呼び慣らわされています。

藤山一郎もそう歌っていました。

ところで、マスターが生まれたのはこの年、昭和22年の暮れでした。

マスターが歌謡曲を筆頭に音楽に興味を持ったのは「おばぁちゃんこ」だったせいだと思います。

父は教師、母は田んぼ・畑仕事、マスターはおばぁちゃんに育てられました。

そのおばぁちゃんが歌謡曲が好きだったのです。
















































































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