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深川くずし

2025-04-13 05:27:44 | ザ・ピーナッツ
ザ · ピーナッツ



丸髷(まるまげ)に、結(ゆ)われる身をば持ちながら
粋な 島田や ホントニ ソウダワネ
チョイト 銀杏(いちょう)返し
取る手も恥かし左褄(ひだりづま)
デモネ、……

一年や二年はおろか三年先に
きっと添われりゃ ホントにソウダワネ 
チョイト 嬉しいが
男心と秋の空
デモネ、……
 




深川くずし、・・・「くずし」があるなら、くずさない「本家」があるのでは。

調べてみますと、たしかに本家「深川節」というのがありました。(笑)


深川節



猪牙でいくのは深川通い
上る桟橋のあれわいさのさ
いそいそと
客の心は上の空
飛んでいきたいあれわいさのさ
主のそば

かごでいくのは吉原通い
おりる衣紋坂あれわいさのさ
いそいそと
おおもんぐちをばながむれば
ふかいなじみがあれわいさのさ
おたのしみ 




江戸時代の深川といえば、今の江東区、門前仲町、清澄公園、森下あたり。

深川が江戸の辰巳(東南)の方角にあったため、当地の芸者は「辰巳芸者」と呼ばれ、羽織姿が特徴的なことから「羽織芸者」とも呼ばれていたようです。

舞妓・芸妓が京の「華」なら、辰巳芸者は江戸の「粋(いき)」。

薄化粧で身なりは地味な鼠色系統、冬でも足袋を履かず素足のまま、当時男のものだった羽織を引っ掛け座敷に上がっていたとか。

男っぽい喋り方で、気風がよくて情に厚い、芸は売っても色は売らない心意気が自慢。

・・・という辰巳芸者は粋の権化として江戸では非常に人気があったと言われています。











































































































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東京の女 (ひと)

2024-08-02 02:06:51 | ザ・ピーナッツ
ザ・ピーナッツ




おばかさんなの私
あの日別れた人
今夜も逢えそな気がして
ひとり待つ待つ 銀座よ

悪い人でもいいの
つらくされてもいい
愛してもう一度 私を
霧に泣く泣く 赤坂

夢で終った恋を
今も探がしてるの
あなたがいないまま灯りが
消えてゆくゆく 青山

恋を失くした日から
影もうすいみたい
ひとりで踊ってもはかない
夢が散る散る 新宿

どこに行ったらいいの
夜が更けゆく街
私のため息が流れて
霧になるなる 東京





この曲の特徴として先ず思い浮かぶのは、非常に短い曲だということです。

たった12小節しかありません。

珍しいと称していいと思います。

これだけ短いと、俳句や短歌の世界みたいなものですから、詩も曲も白眉の出来でなければ名曲となりえませんよね。

そこが辛いところです。(笑)

作詞:山上路夫 作曲:沢田研二、これだけで編曲:宮川 泰がなかったなら、いかにザ・ピーナッツの歌唱でも、この歌が聞き惚れられる要素があるでしょうか。

実に簡単なメロディーですし、音域も狭い、ハーモニーの聞かせ処もないし、起伏がないので感情の乗せようもない、テレビでもステージでも一向に

映えない歌です。

メインディッシュになりえないような前菜や洒落たデザートのイメージかも知れません。(笑)

しかし、このお洒落感覚を精一杯活かしたのが宮川 泰の編曲での工夫ではないでしょうか。

印象的なギターのメロディーでイントロが始まります。

これは普通に4小節流れます。

次いでトランペットで続きが奏でられますが、5小節という不思議な半端さに注目。

普通は4の倍数にするのではと思うのですが、この「5」が全体に異様な感覚を与え、楽曲が不安というか虚ろというか奇妙な印象を残したのではないかと

感じます。

1コーラス目と2コーラス目は続けて歌われますが、2回目は「パパヤパー」という多重録音でのスキャットが入ります。

なかなか効果的で、あれっという意外性をここに与え単調な繰り返しを避けています。

2コーラス目と3コーラス目の間はイントロのショートバージョンが使われます。

とにかく単調に流れるのを嫌い、楽曲に変化をつけようという意図が感じられますよね。

3番と4番の歌詞は、1。2番と同じパターンで歌われます。

ここでマンネリ気味のように感じられることを察知したかのように曲の先頭に戻り、今度はフルバージョンのイントロが流れますが、

そこでいきなり「パパヤパー」です。

総集編のように聞かせたら、エンディングでの今迄にないメロディー、そして、新たなスキャットで大きく変化をつけて曲を終らせています。

う~ん、たった12小節しかない曲で、こんなに難しく説明を要したのは初めて。(笑)


































































































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さよならは突然に

2024-06-30 01:10:14 | ザ・ピーナッツ
ザ・ピーナッツ 

あなたは どこへ行くの
傘もささず雨の街を 消えてゆくの
私はどこへ行くの
傘の波に もまれながら 流れてゆく
アー 身も心もただ
アー あなただけに生きてた
私はどうしたらいいの
何を何を 頼っていくの.
別れは予告もなく
突然にやって来たの私の前・・・


..





岸田首相、在職1000日 戦後8人目、浮揚の兆しなく

岸田文雄首相の在職日数が29日で1000日を迎えた。  戦後8人目の大台達成だが、内閣支持率は依然低迷。次期衆院選を控えて危機感を強める自民党内では「岸田離れ」が加速する。さらなる記録更新には、9月に想定される党総裁選がハードルとなるが、政権浮揚の兆しはなく、再選に向けた視界は不良だ。(時事通信)

1000日を100日と言われても違和感を感じない、そんな首相です。(笑)

























































































































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明日になれば

2024-06-28 02:26:01 | ザ・ピーナッツ
ザ • ピーナッツ



タバコのけむりで あの人を想う
彼のいない 不思議な夜よ
背中が寒いわ 鏡にうつるの私ひとり
ぼやけてみえるのたった2日 逢わないだけで
こんなふうになるなんて
さみしくないのよ信じているから
明日になればあの人に逢える
 明日になればあの人に逢える・・・





この曲「明日になれば」ですが、カヴァー・ポップス「乙女の涙」のカップリングとして1965年12月に発売されまし。

馴染みは薄いですが、安井かずみ・宮川泰コンビによる傑作の曲だったとマスターは思っています。

安井かずみさんの詩は他の歌でもそうなんですが、普通の人は心の中でそう思っても口に出来ないもどかしさがある、

そこに切り込んでいる感性の素晴らしさがあります。

宮川先生もこんないい曲なのに、何故大ヒットしないのかなと思ったかも。





















































































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恋のフーガ

2023-07-01 18:46:18 | ザ・ピーナッツ
ザ・ピーナッツ 恋のフーガ


岩崎良美


島津亜矢/多岐川舞子  



追いかけて追いかけて
すがりつきたいの
あの人が消えてゆく
雨の曲り角
幸せも想い出も
水に流したの
小窓打つ雨の音
ほほぬらす涙
はじめから結ばれない
約束のあなたと私
つかのまのたわむれと
みんなあきらめて
泣きながらはずしたの
真珠の指輪を

はじめから結ばれない
約束のあなたと私
かえらない面影を
胸に抱きしめて
くちづけをしてみたの
雨のガラス窓
ドゥン・ドゥビ・ドゥバ
ドゥン・ドゥ・ドゥビ・ドゥバ
パヤ・パヤ・パヤ・・・・・・




フーガとは、いくつかの独立したパートが同時に演奏され、そのなかで何度も決まったメロディ(主題)が出てくる形式です。

このメロディはどのパートにも登場するので、全部のパートが主役にもなりますし、伴奏にもなります。

ざっくりですが、フーガとは概念に近く、大体これを満たしていればフーガといいます。

メロディがぐるぐると回っている様子を聴いていると、まるで迷路にいるような感覚になりますよね。

しかし言い換えれば、終わりが見えないほど壮大で、どこか神秘的な音楽なのではないでしょうか。

最初のメロディが何度も登場する様子が、追いかけられ、逃げているように聴こえることから「逃げる」を意味するラテン語の“fugere”から名付けられたのだとか。

岸田政権、まさにフーガ政権? (笑)



































































































































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悲しきタンゴ ザ・ピーナッツ

2023-02-20 23:13:47 | ザ・ピーナッツ
悲しきタンゴ ザ・ピーナッツ 




あなたにも私も 窓辺のリラも
今では枯れはて 風にふるえる
心に流れる 悲しい唄は
あなたと踊った ラストタンゴ

泣きながら 泣きながら
ひとりゆれて踊る タンゴ

部屋のかたすみの 小さな椅子も
あなたの帰りを 待っているの

抱きしめて 抱きしめて
私ひとり踊る タンゴ

来る日も来る日も 悲しいだけで
心に花咲く 春は遠い





「謝罪」と「賠償」という言葉があります。

もちろん、このふたつの言葉は、類語でも対語でもなく、まして四字熟語でもなく、おのおのに独立した言葉であって、また違った概念を表す言葉です。

しかし、近年は、「謝罪と賠償」という組み合わせのフレーズで聞くことが多くなりました。

そして、このフレーズについては、政治的、または外交的な問題に絡んでよく使われることが多いのは、多くの方がご承知のとおりかと思います。

しかし、現在のマスターの知識や見識でこれを語るには、あまりに難しく、ここは基本に立ち返って、もっと身近な話題や考え方を例にあげて、語ってみたいと思います。

まず、謝罪いうのは、自己の非を認めて、罪や過ちを詫びて、相手の許しを請うことです。

そして、もちろん問題なのは、まず、この非を認めて、ということにあります。

つまりは、非を認めるということが、自己に責任があると認めることとされるからです。

そして、謝罪は、相手の許しを請う、ということですから、許しを請う相手から、実際に、許しを得るに足ることをしなければ、謝罪にならない、ということになってきます。

お詫びしました、謝りました、という言葉や態度だけでは済まない、とされる所以です。

次に賠償とは、与えた損害を償うということです。

そして、損害を償うということは、損害を与える以前の状態に戻すことを意味します。

すなわち、損害を与える以前の状態、損害が無かった元の状態に戻す、回復させる、いわゆる原状回復という手法が、本来の賠償の基本となります。

もちろん、損害には、金銭では贖えないものがたくさんあります。

生命を奪われたり、身体に障害を加えられたり、健康を損なわれたり、あるいは名誉や尊厳などを傷つけられたり、これらの損害は、いちど傷つけられ、失われたならば、以前の状態に回復することは、不可能または困難に近いものがあります。

そういうことから、これらの損害を、ともかく金銭に換算して、賠償の程度を決めざるを得ませんから、いわゆる金銭賠償が法的な賠償の基本とされるところです。

ところで、いわゆる法的な紛争解決を基本とする訴訟社会においては、謝罪をすれば賠償する責任を認めたことになるとして、容易に謝罪をしてはならないとされています。

そして、このことが、安易に謝ってはいけないという、考え方につながっています。

もちろん、この考え方は、相手の勢いに押されて、無責任に、あとさきを考えずに安易に謝ったりするべきではないという意味では正当であるのですが、これをすべての事案事象に対する金科玉条にしてしまうと、さらに事態をこじらせてしまうことになります。

つまりは、謝罪せよとする相手の主張をよく聞いて、相手が何に不満を持って、何を求めているのかを把握することがなによりも大切なのに、相手の勢いに対抗するために、聞く耳を持たずに釈明だけをして、反論をするばかりで、頑なに謝罪することを拒んだりして、より関係を悪化させることがあります。

身近な例として、商品やサービスに対する苦情を考えてみましょう。

現代社会では、生活を営む上で、どうしても、日常的に、他者の作った商品を購買したり、他者からのサービスを受けたりすることが多くなるのですが、その商品に欠陥があったり、粗雑なサービスがあったりすると、それに対して苦情やクレームをつけることになります。

この場合、購入した店やメーカー、あるいはサービス事業者に、苦情やクレームを申し立てることになりますが、最近は、お問い合わせ窓口、お客様窓口、コールセンターなどを、外部委託化して、専門的に受付させる官公庁や企業なども増えてきています。

これについては、責任の所在を曖昧にし、責任逃れにするだけという批判もありますが、多くの顧客や住民といった相手方からの苦情やクレームについては、業務多忙な現場にいる店員や社員、あるいは職員などが個々に対応するよりも、迅速に対応することができて、また第三者的な立場から、より丁寧な対応ができるというメリットはあります。

もちろん、このような場合でも、商品やサービスにおける明白な欠陥や瑕疵によって、被害、損害が発生したことが争う余地がない場合にはともかくとして、商品の欠陥であるのか、もともとの商品の仕様であるのか、あるいは使い方や、使用方法の誤りによるものではないのか、あるいは、期待され提供されるべきサービスの内容や質、程度がどれくらいなのか、基準が曖昧な場合には難しい問題になります。

ともかく、憤慨し、激昂して、苦情、クレームを申し立て、性急に、謝罪と賠償を求める相手側に対して、それを執拗かつ理不尽な苦情、クレームとして受けとる側では、双方が感情的になりがちであることは、経験的にも理解するところです。

しかし、ここは受け取る側としては、落ち着いて対応する必要があります。

そして、商品を製造したり、販売したり、サービスを提供したりした側としては、相手側が有する商品やサービスへの不満や不快感に対して、その不満や不快感を持たせたことについては、申し訳ありません、ご迷惑をおかけしましたと、素直にお詫びして謝罪するのは、何も賠償責任に直結することではないと思います。

この場合の謝罪は、あくまで商品やサービスに対して、不満や不快感を持たせたことについて、そのこと自体は主観的であれ相手が主張している以上は争えない事実であり、たとえ、不満や不快感が、相手の一方的な思い込みや妄想、あるいは場合によっては、不当な、過大な要求に起因するものであっても、その不満や不快感に対して、お詫びする、謝罪するということは、決して、人として嫌うべきものではないはずです。

決して非そのものを認めるわけでなく、相手が非があると主張すること、することに至ったことに対しては、まずはお詫びして謝罪したあとで、明確にして客観的に、非はないと主張していけば良いのです。

もちろん、謝罪したのは非を認めた、責任を認めたからだろう、だから早くきちんと賠償をしろ、と主張されるおそれも十分にありますから、その点は誤解されないように、何に対しての謝罪か、要点をきちんと押さえておく必要があります。

具体的に言えば、苦情やクレームについて、わざわざ来訪していただいて、あるいはお手紙をいただいて、お忙しい中お電話をいただいて、お手数をおかけしたことについては、申し訳ありません、ご迷惑をおかけしました、と、お詫びします。

あるいは苦情やクレームなどの初期対応した者の説明や対応について、無礼な発言を受けた、横柄な態度を感じた、と主張されるような場合もありますが、無礼な発言と受け取られるようなことを申し上げたことについては、また横柄であるというような印象を与えたことについては、申し訳ありません、失礼をいたしました、と謝罪することもあります。

あくまで、なにに対してのお詫びかを明確に示しながら、真摯にお詫びすることは、紛争を早期に集結させることにもつながり、またのちの紛争を防ぐ意味でも、謝罪は大切なことだと思いますし、またその謝罪というものは、賠償の計算とは無関係であるべきと思います。

そして謝罪は、相手の状況を理解したうえで、相手の受け止め方をおもんぱかってすることこそが重要であり、そしてそれは、相手と同じ気持ちになるという意味の「同情」を踏まえたもので、その気持ちをなぐさめる、慰謝するためにしているのだという目的を意識してしなければ、謝罪は単なる上っ面の言葉だけになってしまいます。

もちろん、その場しのぎの、相手の顔色を伺うだけの謝罪であってはならないことは言うまでもなく、また相手からのともかく誠意を見せろという不当な要求に応じるものであってはならないことは言うまでもなく、まして何らかの他の意図や目的を持って謝罪をするというのはもっての外のことです。

その上で、次に賠償を考えると、賠償とは、自己の側に非があって、故意も含めてその過失ある行為によって、相手に損害を与えたことに対して、責任を認めて、真剣かつ真摯な謝罪に加えて、その損害への償いとして、賠償をするということになるのです。

つまりは賠償とは、心からの謝罪を伴った、償いのひとつの具体化であるはずです。

もちろん、過失ある行為と損害との間に、相当の因果関係が必要であり、また損害に対しての賠償の範囲や程度も相当である必要があります。

相当の因果関係とは、原因と結果に相当の関係があることが必要ということであり、無限に連鎖していく因果関係までを含めないということです。

いわゆる「風が吹けば桶屋が儲かる」というような、あることが原因となって、その影響がめぐりめぐって意外なところにで及ぶような結果にまでは、含めないということです。

だから、仏教上の思想哲学である因果応報と混同したような、永遠に永続する千年不変の因果関係というものは、存在しえないものであり、また因果応報を借意とするならば、それは業と輪廻により、責任はやがて転嫁されて跳ね返っていくものと言わざるを得ません。

また賠償の範囲や程度も、その損害を補うに足りるものであって、過少であってはならないものの、過大である必要はもちろんなく、また賠償金の多寡だけを持って、償いの意思や気持ちの強弱や大小が測られるものではありません。

ただし、哀しいことに、人は謝罪や賠償についても、自分の価値観から判断します。

価値観とは、何を持って、価値あるものとするかです。

しかし、その価値観とは、その人が生まれた時代や、生まれた場所、育った環境や受けた教育、そして生きてきた境遇によっても、人それぞれの持つ個性によっても、大きく異なるものであり、また周囲の人たちの価値観や意向にも大きく影響を受けるものです。

自分が傷ついたことを許せないのに、人を傷つけることは意に止めない人がいます。

人の過ちは徹底的に責めるのに、自己の過ちは認めようとしない人もいます。

それが哀しいかな、人の世の人の所業であり、なりわいです。

もちろん、罪や過ちについても、軽重があって、ときに、人のいのちに関わるようなもの、人の一生の人生に関わるようなものなど、とりかえしのつかない、かけがえのないものに損害を与えるような重大な罪や過ちがあります。

頭を床につけて土下座しても許されない罪というものがあるのは事実です。

どれぐらい償えば償えきれるのか、それはもちろん計算できるものではなく、またどうしても償いきれるはずもない罪というのもあります。

そして踏んだ足は痛まないけど、踏まれた足はその痛みを忘れられない。

それも事実でしょう。

そして、受けた側からはどんな軽微な罪であっても、主観的には重罪というのも事実です。

しかし、だからといって、なんどもなんども土下座の謝罪を強要し、あるいは、多額の賠償金の償いをもっても許さないことが、果たして、ほんとうに、人としての振る舞いとして、人としての生き方としてどうなのかと、考えてみるのも必要ではないでしょうか。

「謝罪と賠償」という言葉は、非常に重い言葉です。

相手の罪を問い、責任を負わせる、非常に重い重い言葉なのです。

軽々しく、安易にかつ頻繁に、使うべき言葉ではないのです。

しかし一方では、関わってはならない、無視して済ませる、言葉ではないのです。

そのままに、放置して、鎮まるべき言葉でもないのです。

人は一生という、わずかな限られた時間の中で、そして生きていく狭い限られた空間の中で、偶然に出逢えた奇跡の中で、人と接して、そして、人を理解して、人と交流し、やがてそれぞれの生死のはざまに、別れていかなければならない宿命を持っています。

ならば、執拗に反省を求めて、「謝罪と賠償」を要求し続けて、憤怒の恨みを持って一生を終わらせるより、償いを受け入れて、許すということを考えなければなりません。

人の言に左右されるのではなく、自分の意思として持たなければなりません。

許すということは辛いことでしょう。

これまでの自己を否定しなければならないこともあります。

だからといってこれからも続く人生です。

泣いて暮らすも一生、笑って暮らすも一生です。

償いとは、互いの一生を大切にするためのものなのですから。
























































































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恋のロンド ザ・ピーナッツ 

2017-10-24 03:51:44 | ザ・ピーナッツ
恋のロンド ザ・ピーナッツ 




ララララ…
恋はふしぎな出来事
男と女のいのち
ある日 私のもとへ
すばらしい恋の誘い
あの人の燃える
胸のぬくもりが
今も 今も 今も残るの
涙でつづる 想い出
忘れて踊りに行くわ


ある日わたしのもとへ
悲しい別れの手紙
やわらかい胸に
甘いささやきが
なぜ なぜ
しのびこむの
恋はふしぎな出来事
たちどまる私の夢
ララララ…








































































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心の窓にともし灯を ザ・ピーナッツ

2017-10-04 17:00:00 | ザ・ピーナッツ
心の窓にともし灯を - ザ・ピーナッツ (The Peanuts)


http://blog-imgs-64.fc2.com/f/o/o/footyan0214/2014080904092174e.mp3

いじわるこがらし 吹きつける
古いセーター ボロシューズ
泣けてくるよな夜だけど
ほっぺをよせて ともしましょう
心の窓に灯を
ほら えくぼが浮かんでくるでしょう

真珠に輝やく 飾り窓
うつるまずしい シンデレラ
ポッケにゃ 何にもないけれど
かじかむ指で ともしましょう
心の窓に灯を
ほら 口笛ふきたくなるでしょう

ダンロを囲んだ 歌声を
遠くきいてる 細い路地
ちっちゃな たき火は消えたけど
お空をみつめ ともしましょう
心の窓に灯を
ほら 希望がほのぼのわくでしょう



この歌のタイトルですが、・・・書き方が色々ありますよね。

初版ジャケットの「心の窓にともし灯を」を初め、「心の窓に灯火を」「心の窓に灯を」「心の窓にともしびを」など・・・・

何が正しいのでしょう?

気になると調べてみたくなります。

類語辞典によりますと、

[使い方]
〔明かり〕▽窓に明かりがともる▽室内の明かりが少し暗い
〔灯〕▽灯台の灯が海原を照らす
〔灯火〕▽灯火親しむべし(=灯火の下で読書をするのに適している)▽灯火管制
〔ライト〕▽車のライトをつける▽被写体にライトを当てる▽天守閣をライトアップする▽ヘッドライト
〔ともし火〕▽ともし火をともす
[使い分け]
【1】「明かり」は、「雪明かり」「星明かり」のようなぼんやりした光についても用いる。
【2】「灯」は、はっきりした光について用いることが多い。
【3】「灯火」は、「ともし火」の意の漢語。
【4】「ライト」は、電気照明の光、また、その器具を表わすこともある。他の語と結合して用いることも多い。

とあります。

もっとも、これは日本語でなくて「詩」なので論じても仕方がないわけですが、ちなみにJASRACのデータベースに登録されているのは、正題が「心の窓に灯を」で、副題が「心の窓にともし灯を」です。

まぁ、ふうちゃんとしてはイメージ的に「心の窓にともし灯を」かな。(笑)

レコードの発売は、1960年4月、ただ、ザ・ピーナッツ「悲しき16才」のB面としてです。

心に滲みる曲というのは、もちろん人によって違いますし、だれもが数曲あるものですが、ふうちゃんにとってもこの曲は、まさにそんな1曲です・・・・。



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