漁り火
燈台それとも 窓の灯り
いえいえあれは 漁り火
誰かの呼ぶ声 汽笛の音
いえいえあれは 海鳴り
ひとりじゃ 生きてゆけない
二人じゃ 死ねやしない
漁り火 海鳴り 二人の愛
いえいえ みんな まぼろし
ときどき海をみたくなるのは
みんな海から 生まれてきたからさ
だけど そんなこと
誰もおぼえちゃいない
もちろん あなたも 僕も
たとえばあなたは 静かな海
たとえば僕は そそぐ川
揺られてどこまで 小舟の旅
いつしかつくよ ふるさと
ひとりじゃ つらすぎるし
二人じゃ ダメになる
たとえばあなたは 黒いしんじゅ
たとえば僕は 洗う波
ひとりじゃ 歩けやしない
二人でも つまづいた
漁り火 海鳴り 二人の愛
いえいえ みんな まぼろし
漁火が星となりたる冬岬
穴澤光江
漁り火というのは魚を誘い寄せるために夜間、漁船でたく火のことですが、一般には、イカ釣り船の集魚灯の光が浜から見えるものを言います。
上の写真からも、漁り火(いさりび)がとても幻想的であることを感じていただけるのではないでしょうか。
イカは光に敏感な性質を持ち、光に反応して海面近くに集まってくるため、それを狙って漁を行います。時代と共に松明から白熱電球へと変化し、現在ではハロゲン灯が使用されているそうです。
ときどき海をみたくなるのは
みんな海から 生まれてきたからさ
だけど そんなこと
誰もおぼえちゃいない
もちろん あなたも 僕も
海をみたいと思うことがあります。
海をみたくなるときが確かにあります。
哀しくなるとみたくなりますか。
でも哀しくないときもみたくなりますね。
それはどうしてでしょう。
それは、みんな海から生まれてきたから、ということでしょうか。
でも、そんなこと、おぼえていませんね。
しかし、そう言われれば、そんな気もします。
ほら、漢字の「海」という字をみてごらんなさい。
ほら、「母」というのかみえるでしょう。
母なる海だからなのでしょうか。
確か、フランス語でも、海は「mer」で母は「mere」。
どちらもメールと発音しますよね。
もっとも、最近の日本の母は、どこにいても、子どもをみるのではなくて、スマホばかりみています。
「mere」が「mail」を打っているんですね。(笑)
こういう母親たちは、ラ・メール(la mere)ではなく、ダ・メールと呼びましょうか。(笑)
燈台それとも 窓の灯り
いえいえあれは 漁り火
漁り火を、はじめて見たのは、いつのことだったでしょうか。
おぼえていません。
夕日が沈んだ海のかなた、水平線に、ぽつりぽつりと明かりが燈りはじめます。
暗くなるにつれて、いよいよ明るさを増す漁り火。
漁り火が、沖で漁をする船の集魚灯の明かりと知ったのは、いつのことだったでしょうか。
おぼえていません。
認知症の初期症状でしょうか。(笑)
でも、暗い海に浮かぶ、漁り火たちの幻想的な温かい明かりだけは、おぼえています。
そして、それだけおぼえていれば、十分だと、おもうのです。
誰かの呼ぶ声 汽笛の音
いえいえあれは 海鳴り
海鳴りを、はじめて聞いたのは、いつのことだったでしょうか。
おぼえていません。
でも、忘れてもいません。
夜の静寂(しじま)に寄せ来る波の音。
眠れぬ夜のBGMだったのか、夢心地の中の子守唄だったのか、それも、おぼえていません。
でも、決して耳障りでなく、心地よい音楽のようだったことだけは、おぼえています。
そして、それだけおぼえていれば、十分だと、またおもうのです。
ひとりじゃ 生きてゆけない
二人じゃ 死ねやしない
心中という悪魔的な響きの言葉があります。
一般的に、恋人や夫婦の男女同士が一緒に自殺することを言いますが、親子や一家や家族で一緒に死ぬことも心中とされます。
そして、相手や、子ども、障害者、高齢者など、積極的に死ぬ気の無い、自殺の意志の無い者を、巻き添えに、道連れにするのは、無理心中と呼ばれます。
いのちが一緒に消えてしまうのでしょうか。
一緒のいのちが消えてしまうのでしょうか。
いえ、いのちは、それぞれにひとつ。
一緒のいのちなど、ひとつもないのです。
無理心中に限らず、心中というのは殺人です。
天国で結ばれよう、将来が不安だから、不憫だからというのは、身勝手ないいわけです。
一緒に終わっていい、いのちなど、ひとつもないのです。
一蓮托生(いちれんたくしょう)という言葉があります。
行動や運命を同じくして、生死を共にするという意味に使われますが、もともとは、死後、願わくば、極楽浄土の蓮の花の上に、共に生まれ出たいと、一心に願うことを意味する仏教用語です。
ひとつのハスの「一蓮」が、連なるという「一連」にひきづられた解釈なのかもしれませんが、決して、死ねばもろとも、運命共同体という意味ではありません。
いのちあるものはかならず死にます。
いのちあるもの、死ぬことが約束されているのが、いのちあるものの運命(さだめ)です。
だから、いつかは死ぬということは共通なのです。
あの人も、この人も、もちろん、あなたも、僕も…。
でも、ひとりで生まれてきたのです。
だから、ひとりで死んでいくのが、いのちあるものの運命(さだめ)なのです。
しかし、ふたりで、そして、多くの縁あるいのちあるものたちと、生きてきたのも事実です。
ひとりじゃ、生きてこれなかったのです。
だから、二人じゃ、死ねやしないのです。
漁り火 海鳴り 二人の愛
いえいえ みんな まぼろし
死ぬのなら、ひとり。
その覚悟もないのなら、死ぬ資格すらないのです。
生きたくても、生きていけなかったいのちたち。
そんないのちたちの叫びが、遠く漁り火となって輝いて、海鳴りとなってささやいているのです。
静かにここで待っているから、そんなに生きいそぎ、死にいそぐことはないんだよと。
まぼろしでもいい。
そんな思いで、海をみにいきませんか。
ひとりじゃ つらすぎるし
二人じゃ ダメになる
他者に依存すれば、楽かもしれません。
そして、生きるも死ぬも、相手次第だと考えれば、しばしのやすらぎは得られるかもしれません。
でも、いのちはいのち、それぞれのいのち。
おなじいのちではないのです。
生きる苦しみと、老いてゆく悲しみと、病いの苦しみと、死にゆく悲しみを、それぞれのいのちは、それぞれのものとして、受け入れなければなりません。
そして、あなたのいのちだからこそ、相手のいのちを愛せたのです。
そして、あなたのいのちだからこそ、相手のいのちを憎むことができたのです。
そして、あなたのいのちだからこそ、相手のいのちに求めるものがあったのです。
そして、あなたのいのちだからこそ、相手のいのちをさまざまに感じることができたのです。
ひとりじゃ 歩けやしない
二人でも つまづいた
いのちは孤独です。
でも、いのちは孤独だからこそ、愛を求め、希望を見つけようとするのです。
傷つき倒れても、また起き上がり、立ち上がり、歩き出すことができるのが、いのちの強さです。
漁り火 海鳴り 二人の愛
いえいえ みんな まぼろし
いのちが終わるまで、考えてみれば、ひとの一生って、そんなに長くないような気がします。
まぼろしのように、一瞬にして、消え去っていくものなのかもしれません。
しかし、だからこそ、このいのちを、このひとときを、大切にしようと思いませんか。
もちろん、あなたも、僕も…。
燈台それとも 窓の灯り
いえいえあれは 漁り火
誰かの呼ぶ声 汽笛の音
いえいえあれは 海鳴り
ひとりじゃ 生きてゆけない
二人じゃ 死ねやしない
漁り火 海鳴り 二人の愛
いえいえ みんな まぼろし
ときどき海をみたくなるのは
みんな海から 生まれてきたからさ
だけど そんなこと
誰もおぼえちゃいない
もちろん あなたも 僕も
たとえばあなたは 静かな海
たとえば僕は そそぐ川
揺られてどこまで 小舟の旅
いつしかつくよ ふるさと
ひとりじゃ つらすぎるし
二人じゃ ダメになる
たとえばあなたは 黒いしんじゅ
たとえば僕は 洗う波
ひとりじゃ 歩けやしない
二人でも つまづいた
漁り火 海鳴り 二人の愛
いえいえ みんな まぼろし
漁火が星となりたる冬岬
穴澤光江
漁り火というのは魚を誘い寄せるために夜間、漁船でたく火のことですが、一般には、イカ釣り船の集魚灯の光が浜から見えるものを言います。
上の写真からも、漁り火(いさりび)がとても幻想的であることを感じていただけるのではないでしょうか。
イカは光に敏感な性質を持ち、光に反応して海面近くに集まってくるため、それを狙って漁を行います。時代と共に松明から白熱電球へと変化し、現在ではハロゲン灯が使用されているそうです。
ときどき海をみたくなるのは
みんな海から 生まれてきたからさ
だけど そんなこと
誰もおぼえちゃいない
もちろん あなたも 僕も
海をみたいと思うことがあります。
海をみたくなるときが確かにあります。
哀しくなるとみたくなりますか。
でも哀しくないときもみたくなりますね。
それはどうしてでしょう。
それは、みんな海から生まれてきたから、ということでしょうか。
でも、そんなこと、おぼえていませんね。
しかし、そう言われれば、そんな気もします。
ほら、漢字の「海」という字をみてごらんなさい。
ほら、「母」というのかみえるでしょう。
母なる海だからなのでしょうか。
確か、フランス語でも、海は「mer」で母は「mere」。
どちらもメールと発音しますよね。
もっとも、最近の日本の母は、どこにいても、子どもをみるのではなくて、スマホばかりみています。
「mere」が「mail」を打っているんですね。(笑)
こういう母親たちは、ラ・メール(la mere)ではなく、ダ・メールと呼びましょうか。(笑)
燈台それとも 窓の灯り
いえいえあれは 漁り火
漁り火を、はじめて見たのは、いつのことだったでしょうか。
おぼえていません。
夕日が沈んだ海のかなた、水平線に、ぽつりぽつりと明かりが燈りはじめます。
暗くなるにつれて、いよいよ明るさを増す漁り火。
漁り火が、沖で漁をする船の集魚灯の明かりと知ったのは、いつのことだったでしょうか。
おぼえていません。
認知症の初期症状でしょうか。(笑)
でも、暗い海に浮かぶ、漁り火たちの幻想的な温かい明かりだけは、おぼえています。
そして、それだけおぼえていれば、十分だと、おもうのです。
誰かの呼ぶ声 汽笛の音
いえいえあれは 海鳴り
海鳴りを、はじめて聞いたのは、いつのことだったでしょうか。
おぼえていません。
でも、忘れてもいません。
夜の静寂(しじま)に寄せ来る波の音。
眠れぬ夜のBGMだったのか、夢心地の中の子守唄だったのか、それも、おぼえていません。
でも、決して耳障りでなく、心地よい音楽のようだったことだけは、おぼえています。
そして、それだけおぼえていれば、十分だと、またおもうのです。
ひとりじゃ 生きてゆけない
二人じゃ 死ねやしない
心中という悪魔的な響きの言葉があります。
一般的に、恋人や夫婦の男女同士が一緒に自殺することを言いますが、親子や一家や家族で一緒に死ぬことも心中とされます。
そして、相手や、子ども、障害者、高齢者など、積極的に死ぬ気の無い、自殺の意志の無い者を、巻き添えに、道連れにするのは、無理心中と呼ばれます。
いのちが一緒に消えてしまうのでしょうか。
一緒のいのちが消えてしまうのでしょうか。
いえ、いのちは、それぞれにひとつ。
一緒のいのちなど、ひとつもないのです。
無理心中に限らず、心中というのは殺人です。
天国で結ばれよう、将来が不安だから、不憫だからというのは、身勝手ないいわけです。
一緒に終わっていい、いのちなど、ひとつもないのです。
一蓮托生(いちれんたくしょう)という言葉があります。
行動や運命を同じくして、生死を共にするという意味に使われますが、もともとは、死後、願わくば、極楽浄土の蓮の花の上に、共に生まれ出たいと、一心に願うことを意味する仏教用語です。
ひとつのハスの「一蓮」が、連なるという「一連」にひきづられた解釈なのかもしれませんが、決して、死ねばもろとも、運命共同体という意味ではありません。
いのちあるものはかならず死にます。
いのちあるもの、死ぬことが約束されているのが、いのちあるものの運命(さだめ)です。
だから、いつかは死ぬということは共通なのです。
あの人も、この人も、もちろん、あなたも、僕も…。
でも、ひとりで生まれてきたのです。
だから、ひとりで死んでいくのが、いのちあるものの運命(さだめ)なのです。
しかし、ふたりで、そして、多くの縁あるいのちあるものたちと、生きてきたのも事実です。
ひとりじゃ、生きてこれなかったのです。
だから、二人じゃ、死ねやしないのです。
漁り火 海鳴り 二人の愛
いえいえ みんな まぼろし
死ぬのなら、ひとり。
その覚悟もないのなら、死ぬ資格すらないのです。
生きたくても、生きていけなかったいのちたち。
そんないのちたちの叫びが、遠く漁り火となって輝いて、海鳴りとなってささやいているのです。
静かにここで待っているから、そんなに生きいそぎ、死にいそぐことはないんだよと。
まぼろしでもいい。
そんな思いで、海をみにいきませんか。
ひとりじゃ つらすぎるし
二人じゃ ダメになる
他者に依存すれば、楽かもしれません。
そして、生きるも死ぬも、相手次第だと考えれば、しばしのやすらぎは得られるかもしれません。
でも、いのちはいのち、それぞれのいのち。
おなじいのちではないのです。
生きる苦しみと、老いてゆく悲しみと、病いの苦しみと、死にゆく悲しみを、それぞれのいのちは、それぞれのものとして、受け入れなければなりません。
そして、あなたのいのちだからこそ、相手のいのちを愛せたのです。
そして、あなたのいのちだからこそ、相手のいのちを憎むことができたのです。
そして、あなたのいのちだからこそ、相手のいのちに求めるものがあったのです。
そして、あなたのいのちだからこそ、相手のいのちをさまざまに感じることができたのです。
ひとりじゃ 歩けやしない
二人でも つまづいた
いのちは孤独です。
でも、いのちは孤独だからこそ、愛を求め、希望を見つけようとするのです。
傷つき倒れても、また起き上がり、立ち上がり、歩き出すことができるのが、いのちの強さです。
漁り火 海鳴り 二人の愛
いえいえ みんな まぼろし
いのちが終わるまで、考えてみれば、ひとの一生って、そんなに長くないような気がします。
まぼろしのように、一瞬にして、消え去っていくものなのかもしれません。
しかし、だからこそ、このいのちを、このひとときを、大切にしようと思いませんか。
もちろん、あなたも、僕も…。