少年の夏
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ひとしきり雨が降りそそぎ 君と僕は濡れたシャツのまま 夏草を踏んで歩いた なぜか無口になったまま 14の夏君はまぶしい 胸の線や腰のくびれが 夏草を噛んだ苦さよ 光る影にゆらめきながら 橋の向こうにかかる虹を追えば 離れてゆきそうな哀しみがくる 愛だとか恋と呼べない 胸に痛い少年の夏 眠れずに君の横顔を 書いたノートに破り捨て いつの間に朝の日差しに 重い心あてもなく 14の夏君はまぶしい 胸の線や腰のくびれが 夏草を噛んだ苦さを 光る影にゆらめきながら 橋の向こうにかかる虹を追えば 離れてゆきそうな哀しみがくる 愛だとか恋と呼べない 胸に痛い少年の夏
海をみたいと思うことがあります。
海をみたくなるときが確かにあります。 でも、それは「海をみたい」というより、もしかすると「海のある風景」に会いに行きたいと思うのかもしれませんん。 なぜでしょう・・・ 赤ちゃんが、お母さんのお腹の中にいるとき、赤ちゃんは、地球に初めてできた時の海水の成分に近いといわれる羊水という水の中で育つそうです。 だから・・・
海がこころのふるさとだと思う? ところで、海の関連した言葉に潮時という言葉があります。 つきあって、もう三年、でも、なんにも進展しそうにないしそろそろ潮時かしらね。 五年前に高値で買った株、ずっと低迷していて上がりそうにない、ここが潮時かもしれないな。 サイトを立ち上げて八年、深夜、眠い目こすって更新してきたけど、ふぅ、もう潮時なのかな。 潮時かしらね、そう思ったことがありますか。 潮時かもしれない、そう考えたことがありますか。 まあ、人それぞれに、さまざまに、潮時を意識することがあると思います。 潮時とは、物事を始めたり、終えたりするのに、ちょうど良いとき、適当な時機のことを言います。 もっとも、それに確実性はありません。 だから、よほどの自信家か、虚言家か、無謀家か、宗教家か、・・・そうそう政治家でも無い限り、潮時を断定的には言いません。(笑) ほとんどの場合、あくまで、もう潮時かな?、まだ潮時でないのか?、という、自問や反問、あるいはそれで煩悶するのです。(笑) 神や仏でないから、その潮時が分かりません。 なんとかして、そんな潮時が分かるような基準がないものかと、インターネットで調べてみると、探してみるもんですね、ありましたよ。 潮時表というものが。 そうか、潮時って表でまとめられるのかな。 なになに、潮時表、満潮と干潮・・・うん? どこかで見たような。 そういえば、数年前、マスターは、少し釣りにはまったことがあります。 釣りにはまったというより、実は、ほんとうは、海を見たいなと、思うような時期だったわけです。 どんな時期だったって? まあ、いまとなっては想像にお任せします。(笑) しかし、大の男、それも中年以上のおっさんが、海を見たいなといって、身じろぎもせずに海を見つめていても、耳を澄まして、海鳴りを聞いていても、
かもめとたわむれていても、海に向かってバカヤローって叫んでも、やはり絵になりません。(笑) いや、むしろ挙動不審者として海上保安庁に通報されそうな気すらして、それじゃ、釣りでもしてる振りして、海を見ようか…という不順な動機でした。(笑) それもひとりだと、なにをしでかすか自信がないから、中学生だった息子を誘って、潮時表を調べて夜中からごそごそと、夜明けの海から、ときには一日中、
海をみつめていました。 釣りは、干潮時から満潮時にかけて潮位が次第に高くなる時が好機であり、それも大潮の時は比較的良く釣れるといいます。 満潮と干潮との潮位の差が大きいのが大潮で、小さいのが小潮、大潮から小潮の間に、中潮、長潮、若潮があると言われるのですが、マスターの場合には、
あまり釣果とは関係なかったように思います。 むしろ、並んで釣りをしているのに、同じ道具、同じエサなのに、釣果が違って、あまり釣れていない方がそろそろ潮時かと思うのに、釣れている方は、
まだまだこれからってことも多いような気がします。 潮の満ち引きは、地球と月と太陽の天体運動に関わっていることが知られていますが、潮の干満の時刻に合わせて、いのちが生まれたり、消えたり、
考えれば、いのちと密接につながっているのですね。 そんなことを、釣り糸を垂れながら考えていました。 まあ、あまり釣れなかったから、そんなことでも考えなきゃしかたなかったともいいますが。(笑)。 マスターは、いちおう都会といわれるところでの生活が長かったので、都会の暮らしが、賑やかで、華やかで、といわれても、あまり実感はありません。 鮮やかな色どりの街並みも、派手なネオンサインも、見慣れてしまえば、四季折々の山々の森や林や田畑、堤防沿いの川面や防波堤のテトラポットと同じく、
ひとつの景色です。 だから、田舎にいくと、寂しいところでしょうって、いわれたりするんですが、とくに田舎だからといって寂しいって感じはあまり受けません。 しかし、都会だからといっても、下町の商店街が、さびれていく様子は、寂しげです。 田舎でも、田んぼや畑が休耕となって雑草が生い茂っていたりするのをみると、寂しげです。 まるで、風景自身が寂しがっているようにみえるときって、確かにあります。 やはり、かっての華やかさを思い浮かべて、無常を感じるからでしょうか。 それとも、やはり、心の中が寂しがっているから、そう見えるのでしょうか。 ともあれ、夢は必ず叶う、と信じていたものが、夢は叶うべくもなく、夢は夢に終わるかもしれない、と思い始めたとき、夢は限りなく嘘に近づいていきます。 でも、嘘と夢の違いは、実現の可能性の高低ではなく、それに向かおうとする意欲と意志の強弱の違いだと思うのです。 夢を嘘にしてしまいますか。 夢は夢として持ち続けますか。 ある朝、幾つかの嫌な夢を見て 目覚めたときに、一匹の毒虫に、自分が変わっていた…というのは、フランツ・カフカの「変身」という小説でした。 哲学的で難解な小説ですが、テーマ、モチーフとしては、自我を確立しようとする青春時代に、誰もが遭遇するようなことです。 カフカの「変身」を出したついでに、「今日、ママンが死んだ。」という書き出して始まる、アルベール・カミュの「異邦人」も例にあげましょうか。 異邦人というのは、その地域、社会の外から来た人という意味ですから、その地域、社会になじめない、あわないと言ったことになるでしょう。 その地域、社会になじもう、あわせよう、とすれば、つまりは、自分が変わらなければなければなりません。 でも、自分が変わってしまえば、もはや自分が自分で無くなるわけですから、なんのためになじませるのか、あわせるのか、目的を失って、
自分というものの存在が不条理なものになるのです。 「変身」や「異邦人」を夏休みの読書感想文用の読書として読んだときのことを思い出した人も多いかもしれませんが、何年たっても、分かったような、
分からないような小説ですね。(笑) カフカの「変身」よりも、仮面ライダーの変身の方がずっと分かりやすいですし、カミュの「異邦人」よりも、ちょっと振り向いただけの異邦人の方が、
もっと分かりやすいですね。(笑) いずれにしろ、そんな青春時代も過ぎて、やがて男性の方なら頭髪とか、女性の方ならお肌とか、あきらかに、年を経るごとに変わっていくのを実感するのは…
やはり、寂しいものですかね。(笑) 占い師が、あなたは生きるのが下手ですね、というと、ほとんどの人が、満足げに頷くそうです。 考えてみれば、現状の生活に、なんの不安も不満もなく、つまづきも悩みもないのならば、占い師のもとに行こうなんてあまり思わないでしょうから、
当たり前です。 それに、わたしは処世術に長けていてね、社交的で、生きるのが上手なんですよ、なんていう人には、お目にかかったことがありません。 まあ、こんな人にお目にかかっても、ほとんどの人は、目をそらしたくなりますけどね。(笑) でも、確かに、生きるのが下手な人っています。 ほら、このサイトにいつも日参しているあなた、あなたも、生きるのが下手な人ですよね。 わかりますよ、いま、とても、おつらいでしょうね…って、ほら、簡単にうなづかないのよ。(笑) ともあれ、生きるのが下手な人へ。 下手は下手なりに生きていくしかないのです。
いまさら、上手に生きていこうなんて、けっして思わないことです。 そして、下手だから生きるのをやめよう、なんてことも考えちゃいけないのです。
生きるのも下手だから死ぬのも下手でいいのです。 下手は下手なりでかまわないのです。 それがあなたの生き方なのです。
それがあなたなのですから・・・・・・・・。