goo blog サービス終了のお知らせ 

古城

2025-07-11 04:01:52 | 懐かしのメロディー
三橋美智也



島津亜矢



松風騒ぐ 丘の上
古城よ独り 何偲ぶ
栄華の夢を 胸に追い
ああ 仰げば佗し 天守閣

崩れしままの 石垣に
哀れを誘う 病葉(わくらば)や
矢弾(やだま)のあとの ここかしこ
ああ 往古(むかし)を語る 大手門

甍(いらか)は青く 苔むして
古城よ独り 何偲ぶ
たたずみおれば 身にしみて
ああ 空行く雁の 声悲し


三橋美智也、最大のヒット曲「古城」・・・

ところで、「城」と言えば「殿様」、「殿様」と言えば「権力者」。

まぁ、「権力」というのは魔物のようなもの、しがみつく恐れのほうが高いかもしれません。(笑)

人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり

この格言は、武田家の戦略・戦術を記した軍学書「甲陽軍鑑」(こうようぐんかん)のなかで、「ある人が信玄公の御歌として言う」として紹介されている一節です。

意味合いとしては、人心こそ強固な城以上の価値があり、城があっても人の心が離れてしまえば何もならないということ。

人に情をもって接することこそ国の守りの要であり、人に恨みや害意をもって接してはならないという教訓です。

石破総理、この「古城」でも聞かれて、先人の思いに耳を傾けてはいかがでしょうか。

最も、それが出来るくらいの人物だったら、もっと、良い政治をやってますかぁ。(笑)































































































  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

赤いランプの終列車

2025-07-09 01:11:00 | 懐かしのメロディー
春日八郎  



白い夜霧の灯りに濡れて
別れ切ないプラットホーム
ベルが鳴る ベルが鳴る
さらばと告げて手を振る君は
赤いランプの終列車

涙かくして 微笑み合(お)うて
窓に残した心の温(ぬく)み
あの人は あの人は
いつまた逢える旅路の人か
赤いランプの終列車

遠い汽笛に うすれる影に
一人たたずむプラットホーム
さようなら さようなら
瞼の奥に哀しく消える
 赤いランプの終列車




春日八郎さんは大正13年(1924)、福島県会津に生まれ、敗戦後間もないころ、歌手を目指して上京しました。
 
昭和27年(1952)のデビュー作、この曲「赤いランプの終列車」が大ヒット、以後「お富さん」「別れの一本杉」「あん時ゃどしゃ降り」「長崎の女」と

立て続けに大ヒットを放ちました。

暗い照明のプラットフォームで別れを告げる。あの人が乗った列車はゆっくり走り出し、終列車を示す最後尾の赤いランプがしだいに遠ざかっていく。

このイメージは、現代ではほとんど理解されないかもしれません。

ホームは昼間のように明るく、新幹線はあっという間に視界から消えてしまうので、その場にたたずむこともなく帰宅する、というのが現実でしょう。

もう、駅での別れの情趣はなくなってしまいました。

















































  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お富さん

2025-07-03 04:26:43 | 懐かしのメロディー
春日八郎



青江三奈



1 粋な黒塀 見越しの松に
  仇な姿の 洗い髪
  死んだ筈だよ お富さん
  生きていたとは お釈迦様でも
  知らぬ仏の お富さん
  エーサオー 玄冶店(げんやだな)

2 過ぎた昔を 恨むじゃないが
  風もしみるよ 傷の跡
  久しぶりだな お富さん
  今じゃよび名も 切られの与三(よさ)よ
  これで一分じゃ お富さん
  エーサオー すまされめえ

3 かけちゃいけない 他人の花に
  情けかけたが 身のさだめ
  愚痴はよそうぜ お富さん
  せめて今夜は さしつさされつ
  飲んで明かそよ お富さん
  エーサオー 茶わん酒

4 逢えばなつかし 語るも夢さ
  だれが弾くやら 明烏(あけがらす)
  ついて来る気か お富さん
  命短く 渡る浮世は
  雨もつらいぜ お富さん
  エーサオー 地獄雨







発売されてから半年あまりは、歌謡曲といえば日本中この歌一色でした。

各地の祭礼は勿論、町場では街頭スピーカーから、ラジオの歌番組では必ずこの歌が。
 
大人は勿論、歌謡曲は歌ってはいけないといわれた小中学生たちも歌い、やっと言葉を覚えたかと思われる幼児さえも、

「ちんだはずだよ、おとみしゃん」などと口ずさむ始末。
 
レコードの売り上げ枚数では、この歌を上回る曲はいくつもありますが、"社会現象”とまでいわれた曲は、少なくとも戦後ではこの歌ぐらいだっように思います。
 
新人だった春日八郎は、この1曲でスターダムにのし上がりました。
 
この大成功の一因は、作曲者がブギを基礎としたリズムを取り入れたことでしょう。

ブギはシャッフルまたはスイングのリズム形式を反復させるのが特徴です。
 
シャッフルまたはスイングは、長めの音符と短めの音符を組み合わせるリズム形式。

この組み合わせを繰り返すと、波のようにうねる感覚や弾む感覚、いわゆるスイング感が感じられるようになります。
 
ところで、この曲の大ヒットの主因は、歌舞伎の大名題(おおなだい)「与話情浮名横櫛(よわなさけうきなのよこぐし」をテーマにするという

新機軸ではないでしょうか。

よく知られた演目ですが、粗筋を簡単に記しておきましょうか。
 
遊蕩に身を持ち崩した江戸の大店の息子・与三郎は、木更津の親戚に預けられます。

そこでお富と知り合い、深い仲になりますが、お富はやくざの親分・赤間源左衛門の妾でした。
 
2人の関係を知った源左衛門とその子分たちによって与三郎は滅多斬りにされたうえ簀巻にされます。

お富は逃げ出したものの、子分の1人に追い詰められて海に身を投じますが、和泉屋の大番頭・多左衛門に助けられ、その囲い者になります。
 
3年後、かろうじて助かった与三郎は、全身の切り傷を売り物にしてゆすり・たかりをするごろつきになっています。

その与三郎が、仲間の蝙蝠安に連れられてたかりに訪れたのが多左衛門の妾宅で、そこで死んだと思っていたお富と再会するわけです。

これが3幕目の「源氏店(げんやだな)妾宅の場」で、「お富さん」はこの場面を謳っています。
 
その後、何やかやとあって、4幕目では与三郎は捕縛されて島流しに処せられます。

島抜けした与三郎は父親とそれとなく会い、さらに赤間源左衛門とも再会します。

大詰めでは旧知の観音久次の自己犠牲によって傷痕が消えて大団円となります。
 
おもしろいのは、この話が実話に基づいているということです。

与三郎のモデルは木更津の紺屋の次男・中村大吉。

お富のモデルはやくざの親分・山本源太左衛門の妾・きち。

情事がばれると、大吉は滅多斬りにされて海に投げ込まれますが、運よく漁師に助けられ、きちは江戸に売りとばされます。
 
江戸に出た大吉は、自慢の喉を活かして精進を重ね、やがて長唄の名門・芳村伊三郎の名を継いで4代目となります。
 
あるとき、顔から体に至る無数の切り傷のわけを、8代目市川團十郎に尋ねられます。

伊三郎がかくかくしかじかと語った話が講談になり、さらに鶴屋南北門下の3代目瀬川如皐(せがわ・じょこう)によって舞台化されます。
 
その初演は嘉永6年(1853年)5月で、8代目市川團十郎が与三郎、4代目尾上梅幸がお富を演じました。
 
ちなみに、歌詞の1番に出てくる玄冶店は、日本橋界隈を指した江戸時代の通称で、江戸初期にその地区に屋敷を構えていた

幕府のお抱え医師・岡本玄冶の名前に由来するといわれています。
 
玄冶店が歌舞伎では源氏店と表記され、場所も鎌倉に変わっているのは、当時江戸を舞台にした芝居はご法度だったからだとか。

































































































































































 

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

夜霧のブルース

2025-06-26 05:15:00 | 懐かしのメロディー
ダウン・タウン・ブギウギ・バンド



青い夜霧に灯影(ほかげ)が赤い
どうせおいらは独り者
夢の四馬路(スマロ)か ホンキュの街か
ああ 波の音にも血が騒ぐ

可愛いあの子が夜霧の中へ
投げた涙のリラの花
何も言わぬが 笑ってみせる
ああ これが男というものさ

花のホールで踊っちゃいても
春を持たないエトランゼ
男同士の相合傘で
ああ 嵐呼ぶよな夜が更ける





この曲は、1947年に公開された水島道太郎主演映画『地獄の顔』(松竹)の主題歌として制作され、ディック・ミネさんが歌っていました。

映画は大曾根辰夫監督で、水島道太郎、木暮実千代、月丘夢路、月丘千秋などが出演しています。

内容は、簡単にいうと、上海でギャングだった男が、彼を悪の道に引き戻そうとする元の仲間と戦う、といった物語。
 
この映画では、「夜霧のブルース」のほかに、「長崎エレジー」「夜更けの街」「雨のオランダ坂」と計4つの挿入歌が作られ、いずれもヒットしました。
 
ちなみに、四馬路(スマロ)は戦前の上海にあった歓楽街、虹口(ホンキュ)は川を挟んでその対岸にあった日本人街でした。























































































































  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

旅姿三人男

2025-06-23 02:21:17 | 懐かしのメロディー
藤圭子



清水港の 名物は
お茶の香りと 男伊達
見たか聞いたか あの啖呵
粋な小政の 粋な小政の旅姿

富士の高嶺の 白雪が
解けて流れる 真清水で
男磨いた 勇み肌
なんで大政 なんで大政国を売る

腕と度胸じゃ 負けないが
人情からめば ついほろり
見えぬ片眼に 出る涙
森の石松 森の石松よい男






昭和14年(1939)にテイチクから発売されています。

幕末から明治にかけて、"海道一の大親分"と謳われた清水の次郎長の子分のなかでも、とりわけ人気のあった3人をテーマとした股旅演歌。

ジャズ・ブルースなど洋楽系を得意としたディック・ミネの歯切れのよい、小粋な歌唱が大ヒットにつながりました。


ディック・ミネ

 
清水の次郎長の元の名前は高木長五郎。

子どものなかった母方の叔父・山本次郎八の養子になったため、山本長五郎が本名になりました。

「次郎八のところの長五郎」から次郎長と呼ばれるようになったといわれています。

子どものころ、マスターはいろいろ覚えるのがおもしろくて、真田十勇士、水滸伝の108人の統領たち、清水二十八人衆の名前などを暗記したりしたものです。

しかし、年を経た今ではもう主だったキャラクターの名前しか出てきません。(笑)



































































































































  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

リンゴ村から

2025-03-01 06:47:24 | 懐かしのメロディー
藤圭子



おぼえているかい 故郷の村を
たよりもとだえて 幾年過ぎた
都へ積み出す まっかなリンゴ
見る度辛いよ 俺らのナ 俺らの胸が

おぼえているかい 別れたあの夜
泣き泣き走った 小雨のホーム
上りの夜汽車の にじんだ汽笛
せつなく揺するよ 俺らのナ 俺らの胸を

おぼえているかい 子供の頃に
二人で遊んだ あの山小川
昔とちっとも 変っちゃいない
帰っておくれよ 俺らのナ 俺らの胸に






オリジナルは昭和31年(1956)5月発売された三橋美智也さんのシングルです。



三橋美智也



 
当時は、故郷に残してきた家族や恋人を偲ぶ歌が続けざまに出ています。

それだけ故郷が遠くて、なかなか帰れない距離感があったからだと思います。

リンゴ、・・・春に花が咲き、秋に実が、季節の移動にも距離感が・・・

ところで、三橋美智也さん。

昭和が生んだ2大スターの1人ですよね。

もう1人は勿論、美空ひばりさん。

しかし、子供のころから人気していたひばりさんに比べて、美智也さんは25歳から。

そういう意味では、美智也さんが東の横綱かも知れません。

確かに、歌手としてのデビュー当時の美智也さんは遥かにひばりさんを圧倒してましたよね。

男性歌手には珍しい高音の魅力、・・・大好きでした。






































































  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人生劇場

2025-02-13 08:08:58 | 懐かしのメロディー
村田英雄



石原裕次郎


やると思えば どこまでやるさ
それが男の魂じゃないか
義理がすたれば この世は闇だ
なまじとめるな 夜の雨

あんな女に 未練はないが
なぜか涙が 流れてならぬ
男ごころは 男でなけりゃ
わかるものかと あきらめた

時世時節は 変わろとままよ
吉良の仁吉は 男じゃないか
おれも生きたや 仁吉のように
義理と人情の この世界







早稲田の杜が芽生く頃、花の香りは沈丁花(ちんちょうげ)、人生意気に感じたら、びくともするなと銅像が、ビクともせずに風に立つ。

崩れかかった築山は、江戸の昔の高田富士、町を見下ろす天辺で、意気に感じた若者が、夕日に向かって吼えていた。

春と一緒に青春の、波がドンドン押し寄せて、男子(おのこ)ばかりか女子(おなご)まで、杜の宴に酔いしれる。



この曲は、尾崎士郎の同名の小説を下敷きにして作られた歌で、昭和13年(1938)発表されました。

作詞:佐藤 惣之助、作曲:古賀 政男。

小説は、昭和8年(1933)から足かけ11年間、『都新聞』『東京新聞』に連載されたもので、『青春篇』『愛慾篇』『残侠篇』『風雲篇』『離愁篇』『夢幻篇』

『望郷篇』『蕩子篇』の各編から成り、任侠の世界を描いた『残侠篇』を除いて、作者の自伝的小説とされています。

昭和10年(1935)に『青春篇』が刊行され、川端康成が絶賛してベストセラーになりました。

『青春篇』は、三州(さんしゅう)吉良(愛知県吉良町)に生まれた青成瓢吉(あおなり・ひょうきち)が、青雲の志を抱いて早稲田に学び、

放埒(ほうらつ)な青春を送り、学校騒動で主役を演じ、料亭の娘お袖と恋仲になるが、やがて学校も女も捨てる、という物語です。

歌に出てくる吉良の仁吉は、幕末期の実在の侠客で、慶応2年(1866)4月8日、伊勢国鈴鹿郡(ごおり)の荒神山(こうじんやま)で起こった

穴太(あのう)の徳次郎vs.神戸(かんべ)の長吉(ながきち)+吉良の仁吉+清水次郎長の子分たちの大喧嘩(おおでいり)で命を落としました。

この小説では、仁吉の血筋を引くという吉良常が重要な役割を演じています。

歌は、通常3番までですが、「幻の4番」といわれる歌詞があります。

(セリフ)
   ああ夢の世や 夢の世や
   今は三歳(みとせ)のその昔
   十有余年がその間
   いと懐かしき父母(ちちはは)と
   朝夕眺めし山や川
   春は花咲き夏繁り
   秋は紅葉の錦織
   冬は雪降るふるさとの
   由緒正しき郷士(ごうし)にて
   一人男子(おのこ)と生まれける
   その運命のいたずらか
   はかなき恋の戯れか
   浮き立つ雲に誘われて
   一人旅立つ東京の
   学びの庭は早稲田なり

4 端(はした)役者の 俺ではあるが
  早稲田に学んで 波風受けて
  行くぞ男の この花道
  人生劇場 いざ序幕

これは、マスターが在学してた頃、早稲田大学の第二校歌として、早慶戦の時や、その後の飲み会などでよく歌わされましたが、「幻の4番」は

誰が何時、どう作ったかは知りません。

多分、尾崎士郎が早稲田出身、その自伝的小説の舞台が早稲田、義に篤く、利にはうとく、信ずることのためには損得を考えずに突き進むという

早稲田マンイメージ、などから誰かが作って継承されてきたものとは想像しますが・・・・。
















































































  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

弁天小僧

2025-02-11 06:56:12 | 懐かしのメロディー
三浦洸一



美空ひばり 


牡丹の様な お嬢さん

シッポ出すぜと 浜松屋
二の腕かけた 彫物の
桜にからむ 緋縮緬(ひじりめん)
しらざァいって 聞かせやしょう
オット俺らァ 弁天小僧菊之助


以前を言いやァ 江の島で

年期づとめの お稚児さん
くすねる銭も だんだんに
とうとう島を おわれ鳥
噂に高い 白波の
オット俺らァ 五人男のきれはしさ


着なれた花の 振袖で

髪も島田に 由比が浜
だまして取った 百両も
男とばれちゃ 仕方がねえ
つき出しなせえ どこへなと
オットどっこい
サラシは一本切ってきた


素肌にもえる 長襦袢
縞の羽織を 南郷に
着せかけられて 帰りしな
にっこり被(かむ)る 豆しぼり
鎌倉無宿 島育ち

オットどっこい 女にしたい菊之助





美しいお嬢さんに変装した弁天小僧。

本当は少年です。

そのお伴の侍のふりをした南郷力丸と、親分の日本駄右衛門の三人が、浜松屋という呉服屋さんからお金をだましとろうとするお話です。

有名な「知らざあ言って聞かせやしょう。」のせりふは、お嬢さんのふりをしていた弁天小僧が、“ニセモノのお嬢さんでしかも男”と見破られ、

開きなおって自分の本当の名前を名乗る場面で語られます。

それまで美しくしとやかな風情をしていたお嬢さんが、いきなりがらりと態度を変えて、男っぽくすごむところは、このお芝居の一番の見どころです。


































































































  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

旅笠道中

2024-11-21 05:36:34 | 懐かしのメロディー
橋幸夫


天童よしみ


夜が冷たい 心が寒い
渡り鳥かよ 俺らの旅は
風のまにまに 吹きさらし

風が変れば 俺らも変る
仁義双六 丁半かけて
渡るやくざの たよりなさ

亭主もつなら 堅気をおもち
とかくやくざは 苦労の種よ
恋も人情も 旅の空

情ないぞえ 道中時雨
どうせ降るなら あの娘の宿で
 降っておくれよ しんみりと




旅、剣の腕、恋・・・

股旅演歌の3大代名詞かも知れません。

今なら、剣の腕に代わり、金の額かも。(笑)

まぁ、マスターの年代の旅は待ってくれているのは恋ではなく、三途の川の渡し船くらいでしょうか。(更笑)

それでも、旅に出たい。

この曲、元歌は東海林太郎 さんです


東海林太郎 














































































































  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

哀愁列車

2024-08-30 08:28:13 | 懐かしのメロディー

三橋美智也


島津亜矢


天童よしみ


惚れて 惚れて
惚れていながら行く俺に
旅をせかせるベルの音
つらいホームに来は来たが
未練心につまずいて
落とす涙の哀愁列車
 
燃えて 燃えて
燃えてすごした湯の宿に
うしろ髪ひく灯(ひ)がひとつ
今宵逢瀬(おうせ)を待ちわびる
君の幸せ祈りつつ
 旅にのがれる哀愁列車


泣いて 泣いて
泣いているのを知らぬげに
窓は二人を遠くする
こらえきれずに見返れば
すがるせつない瞳(め)のような
星がとぶとぶ哀愁列車




昭和32年(1957)リリース。

三橋美智也は、ビジネスなんぞに色気を出さず、歌一筋にやっていたら、美空ひばりに匹敵する国民的歌手になったはずと、いつだったか立川談志さんが

言っていたとか。

たしかに、全盛期の昭和30年代前半は「三橋で明けて三橋で暮れる」と言われるほどの絶大な人気を誇っていました。

生涯のレコード売上は1億600万枚。

ちなみに、世界ランキングはと言うと、

1位 ビートルズ - 1億8300万枚

2位 ガース・ブルックス - 1億5600万枚

3位 エルビス・プレスリー - 1億4650万枚

























































































  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

涙のギター

2024-08-28 10:00:47 | 懐かしのメロディー
ノ-キ-エドワ-ズ (ザ・ベンチャ-ズ)


尾藤イサオ&ドーン




別れの熱い涙にふるえた

熱い涙にふるえた

真赤なギターよ

旅ゆく俺を泣かせる青い空

俺を泣かせる青い空

ちぎれ雲

風にうたれて悲しみうたう

俺の心は愛に狂う

女の心を背に受け流れゆく

影を背に受け流れゆく

涙のギター

・・・・・・・・・・





原曲は、紀本ヨシオさん、1965年のリリースでした。 

この年のヒット曲は・・・

西郷輝彦「星娘」

デューク・エイセス「女ひとり」

三田明&吉永小百合「明日は咲こう花咲こう」

倍賞千恵子「さよならはダンスの後で」

山田太郎 「新聞少年」

田代美代子&和田弘とマヒナスターズ 「愛して愛して愛しちゃったのよ」

西田佐知子 「赤坂の夜は更けて/女の意地」

北島三郎「帰ろかな」

















































































































































































































































































































































































  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

長崎の鐘

2024-08-09 10:20:14 | 懐かしのメロディー
藤山一郎


由紀さおり・安田祥子



新沼謙治



こよなく晴れた 青空を
悲しと思う せつなさよ
うねりの波の 人の世に
はかなく生きる 野の花よ
なぐさめ はげまし 長崎の
ああ 長崎の鐘が鳴る

召されて妻は 天国へ
別れてひとり 旅立ちぬ
かたみに残る ロザリオの
鎖に白き わが涙
なぐさめ はげまし 長崎の
ああ 長崎の鐘が鳴る

こころの罪を うちあけて
更けゆく夜の 月すみぬ
貧しき家の 柱にも
気高く白き マリア様
なぐさめ はげまし 長崎の
ああ 長崎の鐘が鳴る



1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分、広島市に、そして、3日後の8月9日午前11時2分に長崎市にアメリカによって原子爆弾が投下されました。

死者数、広島14万人、長崎7万人。(昭和20年(1945年)12月末まで)

ところで、この曲「長崎の鐘」は自分も原爆に被爆しながら献身的に被害者の救護にあたり、病床に斃れてからも、平和を希求する多くの著書を

書き続けた長崎医大教授・永井隆博士を歌った曲です。

永井隆は、島根県松江市で生まれ、幼少期を同県三刀屋(みとや)町(現・雲南市)で過ごしました。

長じて長崎医大に進学、卒業後、同大の助手になりました。

大変な秀才で、まわりの人たちは、彼はかならずや歴史に残る医学的業績をあげるにちがいないと、大きな期待を寄せていたそうです。

 助手時代に兵役をすませ、同大助手に復帰した昭和9年(1934)、カトリックに入信し、そののち、キリスト教徒としての博愛精神が、

彼の行動を特徴づけることになります。

昭和15年(1940)同大助教授に就任し、将来を嘱望されたものの、博士号を取得した昭和19年(1944)、その運命は突然暗転します。

物理的療法(放射線)科の部長として研究中に大量の放射線を浴び、白血病にかかってしまったのです。

翌年、余命3年と診断されましたが、そのまま研究を続けることで自分の職分を果たそうと決意しました。

そして、昭和20年(1945)8月9日午前11時2分、長崎に原爆投下。

爆心地から700メートルしか離れていない長崎医大の診察室で被爆した永井は、飛び散ったガラスの破片で頭部右側の動脈を切断しましたが、

簡単に包帯を巻いただけで、生き残った医師や看護婦たちとともに、被災者の救護に奔走しました。

永井はまもなく大量出血のため失神しましたが、気づいたのちも、さらに救護活動を続け、帰宅したのは翌日のことでした。

自宅は跡形もなく、台所があったとおぼしきあたりに、黒っぽい固まりがありました。

そのすぐそばに、妻・緑がいつも身につけていたロザリオ(ローマカトリック教徒が使う数珠のようなもの)が落ちていました。

黒っぽい固まりは、焼け残った妻の骨盤と腰椎でした。

さいわい、2人の子どもは疎開していたので、無事でした。

妻を埋葬したのち、永井は医療班を組織し、引き続き救護活動に挺身します、・・・しかし、9月20日、出血が続いて昏睡状態に陥ったため、

医療班は解散になります。

翌昭和21年(1946)1月、教授に就任、研究と医療に従事するも、7月、長崎駅頭で倒れ、以後病床に伏すことに・・・・・。

苦しい闘病生活を送りながら、永井は活発に執筆活動を展開します。

同年8月『長崎の鐘』、翌23年(1948)1月『亡びぬものを』、3月『ロザリオの鎖』、4月『この子を残して』、8月『生命の河』、

昭和24年(1949)3月『花咲く丘』、10月『いとし子よ』などを発表し、その多くが数万部から数十万部のベストセラーとなりました。

プロの著述家も及ばぬペースで彼に執筆を続けさせたのは、第一には平和を希求する思いを人びとに伝えたかったからでしょう。

それとともに、自分がいなくなったあと、2人の子どもが生きていけるようにしておきたいという気持ちが、彼を駆り立てたのではないでしょうか。

永井が闘病生活に入ってから、隣人や教会の仲間たちが力を合わせて、爆心地に近い上野町にトタン小屋を造ってくれました。

わずか2畳1間の家で、裏の壁は石垣をそのまま使っていました。

「石垣は紙片などを押し込むには便利だったが、雨の日は大騒ぎだった。教室の者たちは、来るたびに家といわずに箱といった」と彼は随筆に書いています。

昭和23年3月にできあがったその家を、永井は如己堂(にょこどう)と名づけました。

家を建ててくれた人びとの心を忘れず、自分もその愛に生きようと、聖書の「己の如く人を愛せよ」の言葉から採った名前だといいます。

彼は、そこに2人の子どもを疎開先から呼び寄せ、残りの短い日々を闘病と執筆で送りました。

苦難にめげず、平和と愛を訴え続けるその姿は、国内のみならず、海外でも深い感動を呼びました。

昭和23年10月には、来日中のヘレン・ケラーが見舞いに訪れ、翌24年5月には、巡幸中の昭和天皇の見舞いを受けました。

また、昭和24年5月と25年5月の2度にわたって、ローマ教皇庁が特使を見舞いに派遣しました。

そのほか、長崎名誉市民の称号を贈られたり、政府の表彰を受けるなど、数々の栄誉が彼にもたらされました。

しかし、運命は避けることができず、昭和26年(1951)5月1日、長崎大学医学部付属病院で逝去、43歳の若さでした。

さて、『長崎の鐘』という歌との関わりですが、これは、永井隆と親交のあった医学博士・式場隆三郎が、昭和24年にコロムビアレコードに

働きかけたことによって実現したものと伝えられています。

余談ですが、式場隆三郎は、放浪の貼り絵画家・山下清の才能を発見し、世間に紹介した人として知られています。

コロムビアから作詞の依頼を受けたサトウハチローは、最初、ベストセラーに便乗したきわもの企画だと思って断ったそうです。

しかし、その後、永井から贈られた著書を読んで感動し、「これは神さまがおれに書けといっているのだ」と確信して、全身全霊を捧げて作詞したといいます。

それは作曲の古関裕而も同じでした。

そのメロディーがすばらしいのは、短調で始まった曲が、「なぐさめ、はげまし……」のところで明るい長調に転じる点です。

これによって、悲しみにうちひしがれていないで、未来に希望をもとう、という歌詞のメッセージが強力に増幅されて伝わってきます。

サトウハチローも古関裕而も、数多くのヒット曲をもっていますが、あえて1曲に絞るとすると、世間に与えた感動の大きさという点で、

この曲が最高傑作といってよいのではないでしょうか。

のちに藤山一郎は、アコーデオンを携えて永井を見舞い、その枕辺で『長崎の鐘」を歌いました。

永井はその礼として、次の短歌を贈っています。


 新しき朝の光のさしそむる荒野にひびけ長崎の鐘 
















































































































































  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

マロニエの木陰

2024-07-19 04:30:10 | 懐かしのメロディー
松島詩子




由紀さおり 安田祥子




春日八郎




空はくれて 丘の涯に
輝くは 星の瞳よ
なつかしの マロニエの木蔭に
風は想い出の 夢をゆすりて
今日も返らぬ 歌を歌うよ

彼方遠く 君は去りて
わが胸に 残る瞳よ
想い出の マロニエの木蔭に
一人たたずめば 尽きぬ想いに
今日もあふるる 熱き涙よ

空はくれて 丘の涯に
またたくは 星の瞳よ
なつかしの マロニエの木蔭に
あわれ若き日の 夢の面影
今日もはかなく 偲ぶ心よ





和製タンゴの名曲「マロニエの木陰」・・・

マロニエは、トチノキ科の落葉高木で、ヨーロッパ各地に名木や並木が多く、パリのシャンゼリゼにある街路樹は特に有名です。

世界四大街路樹(他にプラタナス、ニレ、ボダイジュ)の一つとされ、アメリカでも街路樹として使われています。

原産地はギリシャ北部(旧マケドニア)及びブルガリア付近だそうです。
 
日本でも公園や植物園等で稀に見られますが、イメージのよさにあやかって日本に自生するトチノキをマロニエと偽称しているケースもあるとか。






















































































  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

旅笠道中

2024-07-17 21:34:43 | 懐かしのメロディー
藤田まこと


藤圭子


橋幸夫


夜が冷たい 心が寒い
渡り鳥かよ 俺らの旅は
風のまにまに 吹きさらし

風が変れば 俺らも変る
仁義双六 丁半かけて
渡るやくざの たよりなさ

亭主もつなら 堅気をおもち
とかくやくざは 苦労の種よ
恋も人情も 旅の空

情ないぞえ 道中時雨
どうせ降るなら あの娘の宿で
降っておくれよ しんみりと





この曲は昭和10年(1935)2月28日公開された映画「東海の顔役」の主題歌でした。

映画は、市川右太衛門プロ制作、中川信夫監督、松竹キネマ配給のサイレント映画サウンド版で、内容は、清水の次郎長(本名:山本長五郎)若き日の物語。

サウンド版とは、音楽付きのサイレント映画で、サイレント映画からトーキーへの移行期に何本も作られています。

今に伝えられる次郎長の武勇伝ですが、一時期彼の養子になっていた天田五郎の著書「東海遊侠伝」(明治17年〈1884〉刊行)が元になっていたそうです。

この本にはかなりの誇張があるうえに、それをベースにした講談・浪曲・芝居・映画がさらに話をふくらませたため、一般に流布している次郎長像は、

実際とはかなりかけ離れていると言われています。

ただし、幕軍軍艦・咸臨丸の乗員の死骸を、官軍の命に逆らって葬ったこと、富士の裾野の開拓、英語塾を開いたことなど、いくつかの事績は事実のようですが。

ところで、長年、フリーの事業コンサルタント業というヤクザな稼業を続けてきたマスターとしては、3番の「亭主もつなら堅気をおもち……」が身に染みます。

亡き妻は、(この人とは楽な生活はできないだろう)と思いながら私と結婚したようですが、実際いろいろ苦労をかけてしまいました。

今は、「お前は堅気と結婚すべきだったね」と、仏前に言ってみたりしますが、今となっては何の足しにもなりませんよね。(笑)




































































  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

おんな船頭唄

2024-07-12 10:23:07 | 懐かしのメロディー
大月みやこ


天童よしみ


 田端義夫   



嬉しがらせて 泣かせて消えた
憎いあの夜の 旅の風
思い出すさえ ざんざら真菰(まこも)
鳴るなうつろな この胸に

所詮かなわぬ えにしの恋が
何処(なぜ)にこうまで 身を責める
呼んでみたとて はるかな灯り
ぬれた水棹(みさお)が 手に重い

利根で生れて 十三 七つ
月よあしたも 同じ年
かわいそうなは みなし子同士
今日もお前と つなぐ舟





原曲はご存知の通り、1955年にリリースされた三橋美智也さんののシングルレコードです。





三橋 美智也 





この曲、当初は後輩の新人歌手・西村つた江に用意されていた曲でしたが、高音から始まるこの歌を三橋さんに歌わせたいというディレクター・掛川尚雄の一存で

三橋さんに決定したのだそうです。

結果的には200万枚を売り上げ、A面の「逢初ブルース」(照菊)を凌ぐ大ヒット曲となりました。

加えて、この曲で一躍スターの仲間入りをした三橋さん、以後大ヒット曲を連発し歌謡界を代表する歌手として全盛期を迎えていくのです。

1956年には日活から同名のタイトルで映画化されており、三橋さんも劇中に艶歌師・三田道也役で出演しました。

ところで、1998年、千葉県香取市の佐原市立水生植物園に「おんな船頭唄」の歌碑が建立されましたが、千葉県と何の関係があるのか分かりません。(笑)

三橋さんの歌碑は沢山ありますが、楽曲の歌碑はこれが初、以後、岐阜県養老郡養老町にも同曲の歌碑が建てられています。

しかし、こちらは誰もが納得出来る理由があります。

と、言うのは、「おんな船頭歌」の作曲を手掛けた山口俊郎氏の出身地が岐阜県養老郡養老町高田常磐町。

山口俊郎氏、以後も三橋さんと共に「ソーラン節」等の民謡を編曲し発表、日本各地に眠っていた民謡を再び世に広めた功績も。













































































  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする