岡林信康
麦畑空高く
飛ぶひばり 駆け昇る
はるか雲の上まで
おまえは行くというのか
おまえを育ててくれた
この麦畑を
ふり返る事もなく行くよ
ただ高く高く
飛びつづけてゆく
そこから何が見える
教えておくれひばり
澄み渡る青空か
それともその向うには
暗闇深くひろがり
遠き死の谷が
たとえそれが見えたとしても
おまえは行くだろう
飛びつづけるだろう
果てなく高き青空
私は見上げる
麦畑に吹く風の音
お前は見えない
はるかなひばりよ
愛しのひばりよ
引き出しから奇跡の新曲 美空ひばりからの手紙35年ぶり息吹、引き出しのタイムカプセルは美空ひばりさんの心をよみがえらせた。
ひばりさんの詞が新曲「レクイエム-麦畑のひばり-」として産声をあげたのだ。
新曲は、ひばりさんの代表曲を集めたアルバム「レクイエム~我が心の美空ひばり~」に収められました。
「去年の夏、引き出しの整理をしていたら、ひばりさんから35年ほど前にもらった手紙を見つけ、詞が添えてあった。ひばりさんが感じたことがつづられていて、
『作詞・加藤和枝、作曲・岡林信康』と書かれていた。
高く飛べと書きながら、その先には死が見えるだろう、という内容でね。
当時は(詞の意味が)理解できなかったことと、ひばりさんから催促されなかったこともあって、そのままになっていたんです」
ひばりさんの没後20年の節目の年に、手紙を発見した。
「いま思い返せば、自分の悲劇の結末が分かっていたのかなとも思う。
詞の言葉や行数をそろえ、2週間で完成させました」
人見知りだったひばりさんだが、初対面の日に「自宅で飲もう!」と青葉台のひばり邸に引っ張り込まれた。
1975年3月のことだ。
「私が作った『月の夜汽車』のレコーディングに立ち会った時のことです。
ひばりさんは譜面ではなくて歌詞の紙に矢印を書き込んでいた。
『どうして』って聞いたら、恥ずかしげに『楽譜が読めないから、こうして読んでるの』って。
『ぼくも楽譜を読めないんだ』って言ったら『ウソー! 私と一緒ね』ってパーッと笑顔になって…、かわいかったなぁ」
「レコーディングが終わって原宿でご飯を食べた後、『ウチにきて飲まない?』と誘われました。残った食事をきれいに包んでもらって、
自宅へうかがったんですわ」
きれいに手入れされた芝生でレコード会社の関係者と相撲を取り、ひばりさんから「芝生が傷む」と言われたり、「越後獅子の唄」を目の前で歌い、
「その裏声のところ、間違ってる」と“歌唱指導”もされた。
「ひばりさんとデキておるんか、という質問はやめてくださいね。飲むときは必ず、お母さんがいましたから」
当時、“人と自然の関係”を突き詰めようと京都の山村に移住。
「3反ほどの田んぼに食いきれるだけの米を1反ほど作る」という農作業に励んでいた。
この間、アルバムこそ発売していたが、人前に立つことは避けていた。
「でも、ひばりさんにハッパをかけられてね。75年の12月に中野サンプラザでコンサートをやったんです。
心配で見にきたひばりさんは、“わたしも歌いたいわ”といって私が作った『風の流れに』を歌ったんですよ。
負けるもんかと思って私も歌ったんですが、歌詞を忘れてボロボロに(笑)。それから、ひばりさんの歌を聴き出しました」
5年ほど続けた農村生活からは貴重な教訓を得た。
「自然の法則の前では、何人も平等ということですね。自然の前では、地位も名誉も理屈抜きで何も関係ない。
そして、作物も人も歌も、日本の気候風土の産物なんですよ」
農村からは離れたが、現在も白菜やダイコン、トマト、キュウリ、ピーマンなど季節の野菜を自宅の菜園で育てている。
「種をまく時期って重要ですね。草むしりも、タイミングの良い時期に抜かないと根を張って抜きにくくなる。畑仕事は私にとって修養の場でもあります」
生き方も“自然体”だ。
「必要以上に大きく見せようとしても苦しいだけ。これだけのものです、ってさらけ出して、それを聴いてもらえればうれしい。
うそをついて、いい格好して続けるのは苦しいでしょ」
“フォークソングの神様”は、生き方も神様の境地に近づいていた。
ペン/栗原智恵子 2010.02.16