goo blog サービス終了のお知らせ 

月見草の花

2025-07-24 04:32:28 | 童謡・唱歌
山崎ハコ


鮫島有美子




はるかに海の見える丘
月のしずくをすって咲く
夢のお花の月見草
花咲く丘よ なつかしの

ほんのり月が出た宵は
こがねの波がゆれる海
ボーと汽笛をならしてく
お船はどこへ行くのでしょ

思い出の丘 花の丘
きょうも一人で月の海
じっとながめる足もとに
 ほのかに匂う月見草




山川清、山本雅之のコンビネーションで作られた童謡の隠れた名曲「月見草の花」(昭和24年(1949)発表)。

ところで、月見草ですが、元はメキシコ原産のアカバナ科の二年草で、日本には嘉永年間に渡来したと言われています。

現在ではほとんど見られなくなており、今一般に月見草と呼ばれているのは、マツヨイグサやオオマツヨイグサのことだそうです。

花は6~9月の夕方に開花し朝には萎んでしまう一夜花、月の光に照らされたとき雌しべは蛍光色色になり幻想的な輝きを増します。

ちなみに、山川清・山本雅之のコンビで作られた童謡には、ほかに「森の小人」があります。
































































































  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

証城寺の狸囃子

2025-07-09 05:03:26 | 童謡・唱歌
ボニージャックス


小林旭


アーサーキット  


證 證 證城寺
證城寺の庭は
ツ ツ 月夜だ
皆(みんな)出て 來い來い來い
己等(おいら)の友達ァ
ぽんぽこ ぽんの ぽん

負けるな 負けるな
和尚さんに 負けるな
來い 來い 來い
來い 來い 來い
皆出て 來い來い來い

證 證 證城寺
證城寺の萩は
ツ ツ 月夜に 花盛り
己等は浮かれて
ぽんぽこ ぽんの ぽん 





この歌「証城寺の狸囃子」は、日本の童謡です。

作詞は野口雨情、作曲は中山晋平で、千葉県木更津市の證誠寺に伝わる「狸囃子伝説」に想を得たもので、曲は1925年(大正14年)に発表されています。

詩人で童謡作詞家であった野口雨情が千葉県木更津市を訪れた際、童謡の題材にと木更津市内の證誠寺に伝わる「狸囃子伝説」を提供されたことを契機に作詞を行い

児童雑誌「金の星」1924年(大正13年)12月号で発表。

その後、中山晋平がその歌詞を元に改作し曲を付けて児童雑誌「金の星」1925年(大正14年)1月号で発表しました。

なおこの際、野口は旅行中で連絡がつかず掲載は「金の星」主宰・齋藤佐次郎の独断であったとか。

1955年、アメリカ人エンターテイナーのアーサー・キットが『Sho-Jo-Ji (The Hungry Raccoon) 』という題名でカバーして、ヒットさせています。 



「運のいいことに能登で地震があった」…自民の鶴保庸介氏「撤回の上、陳謝する」

自民党の鶴保庸介参院予算委員長は8日、和歌山市で開かれた参院選和歌山選挙区の自民候補者の個人演説会で、「運のいいことに能登で地震があった」と発言した。能登半島地震の被災者の心情を逆なでするような発言として批判を招く可能性がある。 
鶴保氏は2024年1月の能登半島地震後、被災した石川県輪島市の住民が避難先の金沢市で生活し、被災地と行き来する例などを挙げた中で発言した。自身が推進する都市と地方の「2地域居住」を巡る議論が、地震をきっかけに進展したことを説明しようとしたとみられる。
鶴保氏は8日夜、読売新聞の取材に「震災を運がいいなどと思うはずもない。言葉足らずだった。撤回の上、陳謝する」と語った。(読売新聞)

言葉足らずではなく、政治家としての能力足らずだったのでは。(笑)

鶴保庸介氏と言えば不祥事・批判が絶えない議員と記憶しています。

ばれたら党を転々、それでも生き延びられる、さすが、和歌山県、狸囃子でぽんぽこポン。











































































































































  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

雨降りお月さん

2025-06-13 03:19:31 | 童謡・唱歌
田端典子


雨降りお月さん 雲のかげ
お嫁にゆくときゃ 誰とゆく
一人でからかさ さして行く
からかさないときゃ 誰とゆく
シャラシャラ シャンシャン
鈴つけた
お馬にゆられて ぬれてゆく

急がにゃお馬よ 夜が明けよう
手綱の下から
ちょいと見たりゃ
お袖でお顔を かくしてる
お袖は濡れても 干しゃ乾く
雨降りお月さん 雲のかげ
お馬にゆられて ぬれてゆく

雨降りお月さん 雲のかげ
お嫁にゆくときゃ 誰とゆく
一人でからかさ さして行く
からかさないときゃ 誰とゆく
シャラシャラ シャンシャン
鈴つけた
お馬にゆられて ぬれてゆく




この歌は、1番と2番とでメロディが異なっています。

そうなったのは、最初、1番と2番がそれぞれ独立した曲として作られたことによます。

1番は大正14年(1925)、児童雑誌『コドモノクニ』の1月号に、楽譜つきで発表されました。 

詞のタイトルは、初め、『雨降りお月』でしたが、中山晋平のたっての希望で「さん」をつけたという話が伝わっています。

中山晋平が「さん」づけにこだわった理由は不明ですが、おそらく、『雨降りお月』のままだと、音として中途半端ですわりが悪いと感じためでしょう。

この歌は、子どもはもちろん、親たちにも評判がよく、「傑作だ」「すばらしい」といった賛辞が続々と寄せられたといいます。

そこで、同じテーマで続編が作られることになり、それが2番で、同年の3月号に『雲の蔭』というタイトルで掲載されました。

それでは、どうしてこの2つが合体したのでしょうか。

昭和に入ると、日本のレコード市場は急速に拡大し、日本コロムビア、日本ポリドール、日本ビクター、キングレコードという大手4社が次々と設立されました。

そうした情勢のなかで、『雨降りお月さん』もレコード化されることになったのですが、1番だけでは短すぎて商品化しにくい、どうしても2番か3番まで必要だと

わかりました。

そこで、中山晋平が、『雨降りお月さん』と『雲の蔭』は、テーマも曲想も同じだから、いっしょにしたらどうかと提案したそうです。

そして、3番として『雨降りお月さん』を繰り返すことになり、今日に伝えられている『雨降りお月さん』が成立したわけです。


























































































































































  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鯉のぼり

2025-05-05 00:01:34 | 童謡・唱歌
日本の歌・唱歌


倍賞千恵子




こいのぼりの歌と言えば、童謡「♪屋根より高い~」で始まる歌、そして、「♪いらかの波と~」で始まる唱歌「鯉のぼり」、二曲あることをご存じでしょうか。

作詞:近藤宮子/ 作曲:不明

やねよりたかい こいのぼり
おおきいまごいは おとうさん
ちいさいひごいは こどもたち
おもしろそうに およいでる

こいのぼりと言えば、こちらの歌をまず思い出すかも知れません。

昭和初期に刊行された「エホンショウカ ハルノマキ」で初めて紹介された童謡です。

歌詞は、黒の真鯉を父親、小さい緋鯉を子どもに見立て、「男の子(と父親)が健康に過ごせるようにという願いを込められたこいのぼりが、空を楽しそうに

泳いでいる」という風景を表現しています。



作詞:不詳/作曲:弘田龍太郎

甍(いらか)の波と 雲の波
重なる波の 中空(なかぞら)を
橘(たちばな)かおる 朝風に
高く泳ぐや 鯉のぼり

こちらの曲は1913年(大正2年)の「尋常小学唱歌 五学年用」に初めて掲載され、文部省唱歌として歌われました。

歌詞には、こいのぼりの雄大さをたたえ、「男の子がこいのぼりのように雄大な姿に成長するように」という願いが込められています。

最近は、口語調でわかりやすい「こいのぼり」のほうがよく歌われ、文語調の「鯉のぼり」はあまり歌われなくなってきました。

もっとも、いつの時代も「子どもの健やかな成長を祈る」という、込められた願いは一緒ですが。













































































































































  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

とんがり帽子(鐘の鳴る丘) 

2025-02-23 07:44:59 | 童謡・唱歌
美空ひばり


川田正子



1 緑の丘の赤い屋根
  とんがり帽子の時計台
  鐘が鳴ります キンコンカン
  メーメー小山羊(こやぎ)も啼(な)いてます
  風がそよそよ丘の上
  黄色いお窓はおいらの家よ

2 緑の丘の麦畑
  おいらが一人でいる時に
  鐘が鳴ります キンコンカン
  鳴る鳴る鐘は父母(ちちはは)の
  元気でいろよという声よ
  口笛吹いておいらは元気

3 とんがり帽子の時計台
  夜になったら星が出る
  鐘が鳴ります キンコンカン
  おいらはかえる屋根の下
  父さん母さんいないけど
  丘のあの窓おいらの家よ

4 おやすみなさい 空の星
  おやすみなさい 仲間たち
  鐘が鳴ります キンコンカン
  昨日にまさる今日よりも
  あしたはもっとしあわせに
  みんな仲よくおやすみなさい



太平洋戦争末期、日本の主要都市の多くが米軍の空襲を受けましたが、とりわけ首都東京は被害が著しく、区部の大半が焼け野原となってしまいました。

昭和20年(1945)8月15日、戦争が終わると、空襲で家も親も失った「戦災孤児」たちが街にあふれました。

保護施設に収容されなかった孤児たちの多くは、地下道やガード下、防空壕跡などで寝泊まりし、昼間はくず拾いや靴磨き、残飯あさりをして暮らしていて、

彼らは「浮浪児」と呼ばれました。

浮浪児のなかには、かっぱらいや盗みを働く者もいましたが、だれが彼らを責められましょうか。

昨今横行している青少年のかっぱらいや万引きと違って、彼らのそれは、ぎりぎり命をつなぐためのやむを得ない行動だったのです。

施設に収容された孤児たちも、必ずしも平穏だったわけではありません。

一般社会でも餓死者が続出していた時代でしたから、食べ物は十分ではなかったし、虐待やいじめもありました。社会全体が混乱していましたから、

そういったことへの監視の目が行き渡らなかったのです。

菊田一夫作のNHKラジオドラマ『鐘の鳴る丘』は、こうした社会情勢を背景として、昭和22年(1947)7月に始まりました。

以後3年7か月、790回にわたって放送され、古関裕而作曲の主題歌『とんがり帽子』とともに大流行しました。

ドラマは、戦争が終り、復員してきた若者・加賀見修平がガード下で浮浪児にカバンを奪われそうになるところから始まります。

その浮浪児は隆太といいました。

ここから、修平は、隆太やその仲間、修吉、ガンちゃん、クロ、みどりなどと交流するようになります。

彼らの惨めな境遇を知った修平は、何とかしなければと考え、浮浪児たちも彼を慕いました。

そして、修平の故郷が信州だったところから、孤児たちと力を合わせて信州の山あいに「少年の家」を作り、共同生活を始めるのです……。

当時は、日本中の子どもたちが、このドラマを欠かさず聞いていたそうです。

子どもたちだけでありません。敗戦とそれに続く苦しい生活にうちひしがれていた大人たちも、このドラマによって、明日への希望を育てたといわれます。

菊田一夫は、戦争中、岩手県の江刺郡岩谷堂町(現在は奥州市)に家族を疎開させていました。

ここの町役場には鐘のついた高楼があり、菊田一夫はそれを見て『鐘の鳴る丘』を発想したといわれます。

この建物は、明治記念館として保存されており、現在も、毎日午前7時と午後5時に『とんがり帽子』のメロディーが流れています。






































































































  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

どこかで春が

2025-01-17 00:45:14 | 童謡・唱歌
クラウン少女合唱団


どこかで春がうまれてる
どこかで水が流れ出す

どこかでひばりがないている
どこかで芽のでる音がする

山の三月  東風(こち)吹いて
 どこかで春がうまれてる





この歌は大正12年、雑誌『小学男生』に掲載された百田宗治氏の詩に、のちに草川信氏が曲をつけたものです。

草川氏は明治26年(1893)長野県松代の生まれで、「赤い鳥運動」に作曲家として参画し、『夕焼けこやけ』『汽車ポッポ』『揺藍(ゆりかご)の歌』など

童謡の傑作をいくつも世に送り出しました。

詩は、春が生まれることを何によって実感するかということがテーマになっていて、流れ出す水、ひばりの声、芽の出る音、「東風」と呼ばれる春風が

上げられています。

通例の「春」で理解しますと、霞・うぐいす・梅あたりが上げられるところでしょうが、それに縛られず、子供の感覚を大切にしているあたりが、如何にも

大正期の作詞かもしれません。
 
流れ出す水は融雪の水でしょうね。

ひばりの声はは田園地帯ならどこでも聞くことができ、うぐいすよりも広範囲で聞くことができるという点で、庶民的です。
 
「芽の出る音」を聞くためには、膨らんできた芽に耳を当てなければ聞こえません、・・・もちろん実際に音がするわけではありませんが、聞こうとすれば、

そのような姿勢と仕草が目に浮かぶのです。

「聞こえるかな」と言って、芽に耳を当てる姿を思い浮かべて見てください。

なかなか可愛らしいですよね。
 
「山の三月」というのも、なかなか意味がありそう、・・・

立春は2月4日頃ですから、3月というのは遅いです。

しかも「どこかで」というのですから、目の前には春らしさは実感できていなくて、かすかにその徴を感じているだけでしょうし、しかも「山」ですから

春を実感できるのは少し先。

ここでも「名のみの春」というように通例で理解される春の立つ時期に縛られず、実際に即して歌っています。

これも大正期だからでしょうね。

最後に「東風」・・・

もしかしてみなさん「東風」を「東から吹く風」と思っていませんか?

これは間違い、正しくは、「春風」のことです。

7世紀後半の白鳳時代に唐から四神思想が伝えられていて、それによれば、四神とは、北の玄武、東の青龍、南の朱雀、西の白虎、それぞれ冬・春・夏・秋に

配されていました。

つまり春は東方を守護する青龍に象徴されるので、春風のことを「東風」と表現したのです。

それでは、どうして、分かりやすく「春風」にしないで「東風」にしたのでしょう。

おそらく、「山の三月春風ふいて」では「春」が重複して詩にならないからだったのではと思います。

子どもには無理としても、四神思想くらい大人ならそこまで理解してくれると思ったのかもしれません。




























































































































  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

冬の夜

2024-10-29 05:23:05 | 童謡・唱歌
ボニージャックス


燈火ちかく衣縫う母は
春の遊びの楽しさ語る
居並ぶ子どもは指を折りつつ
日数かぞえて 喜び勇む
囲炉裏火はとろとろ 外は吹雪

囲炉裏のはたに縄なう父は
過ぎしいくさの手柄を語る
居並ぶ子どもはねむさ忘れて
耳を傾け こぶしを握る
 囲炉裏火はとろとろ 外は吹雪 





この曲「冬の夜」は、1912年(明治45年)に「尋常小学唱歌 第三学年用」で発表された文部省唱歌で作詞・作曲者は不明だそうです。

外は一面雪に覆われ、吹雪が吹き荒れる厳しい冬・・・

明治時代後期はまだテレビはおろかラジオすらなかった時代でした。

雪に閉じ込められ、囲炉裏端で体を温めながら、家族は寄り添い、母は裁縫、父は縄をないながら、子供たちと身を寄せ合って団らんの時を

過ごしていたのでしょう。

歌詞にある「囲炉裏火はとろとろ」という独特の描写が、身を寄せ合う家族の穏やかな空気とゆったりとした時間の流れを巧みに表現していますよね。



石破首相「先頭に立ち取り組む」と続投に意欲、野党との連立想定せず

石破茂首相(自民党総裁)は28日午後、衆院選の結果を受けて記者会見し、議席数を大幅に減らしたことを「国民の厳しい審判」だと指摘した上で、「政治改革や経済対策などの課題に先頭に立ち取り組む」と述べて続投に意欲を示した。政権運営に当たっては大きく議席を伸ばした党の主張は取り入れるとする一方で、野党との連立は現時点では検討していないと述べた。(ロイター)


石破茂首相が「政治改革や経済対策などの課題に先頭に立ち取り組む」以上、自民党はずっと「冬の夜」。(笑)

今、「絶対観たくない顔は誰?」と問われれば、年齢問わず、NO1は多分、石破さんではないかと思います。(更笑)

















































































































  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

野菊

2024-10-19 08:43:49 | 童謡・唱歌
NHK東京児童合唱団


遠い山から 吹ふいて来る
小寒い風に ゆれながら
けだかくきよく 匂におう花
きれいな野菊のぎく
うすむらさきよ
秋の日ざしを あびてとぶ
とんぼをかろく 休ませて
しずかに咲いた 野辺のべの花
きれいな野菊のぎく
うすむらさきよ
霜しもが降おりても まけないで
野山や山に むれて咲さき
秋のなごりを おしむ花
あかるい野菊のぎく
うすむらさきよ





野菊(のぎく)とは、野生の菊のことで、よく似た多くの種があり、地域によってもさまざまな種があります。

日本ではキクに似た花を咲かせるものが多数あり、野菊というのはそのような植物の総称として使われているそうです。  

野菊は日本人の感性に深くしみこんだ秋の野草の代表種で、秋、野外を歩くと白色や紫色の可憐な野菊の花々を目にしますよね。






















































































































  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

七夕さま

2024-07-03 00:28:01 | 童謡・唱歌


ささの葉さらさら
のきばにゆれる
お星さまきらきら
きんぎんすなご
ごしきのたんざく
わたしがかいた
お星さまきらきら
空からみてる





七夕は「たなばた」または「しちせき」とも読み、古くから行われている日本のお祭り行事で、一年間の重要な節句をあらわす五節句のひとつにも

数えられています。

毎年7月7日の夜に、願いごとを書いた色とりどりの短冊や飾りを笹の葉につるし、星にお祈りをする習慣が今も残っていますよね。

みなさんも子供のころ、たくさんの短冊をつるしておりひめとひこぼしにお願いごとをしたのではないでしょうか?

では七夕はいったいいつから、どのようにして始まったのでしょう? 

おりひめとひこぼしの伝説

琴座のベガと呼ばれる織女(しょくじょ)星は裁縫の仕事、鷲(わし)座のアルタイルと呼ばれる牽牛(けんぎゅう)星は農業の仕事をつかさどる星と

考えられていました。

この二つの星は旧暦7月7日に天の川をはさんで最も光り輝いているように見えることから、中国でこの日を一年一度のめぐりあいの日と考え、七夕ストーリーが

生まれたそうです。

ところで、歌詞にある「のきば」・・・

漢字で書くと「軒端」となります。これは、屋根の端っこのことで、壁から張り出した部分のことです。

昔はこの「軒端」に七夕の笹飾りを飾っていたので、このような歌詞になったと思われます。

そして「きんぎんすなご」・・・

これは漢字で書くと「金銀砂子」となります。金箔や銀箔を砂のように細かく砕いた粉のことです。

七夕の星空や天の川のキラキラした様子を表現したのでしょうね。



小池氏を蓮舫、石丸両氏が追う 都知事選、終盤情勢

任期満了に伴う東京都知事選は7日の投開票に向け、終盤戦に入った。  現職で3期目を目指す小池百合子氏(71)が先行し、前参院議員の蓮舫氏(56)と前広島県安芸高田市長の石丸伸二氏(41)が追う展開だ。(時事通信)

2024年、東京都の「七夕」は、本来の「七夕」からは遠く離れた「都知事選」と言う戦場になります。

公私混同、私利私欲、狂っているとしか思えない最近の小池さんですが、そこは落ちていく日本の首都。

小池氏支持は都民として仕方ない、と言うより当然の結論なのかも知れません。(笑)










































































































































  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

こいのぼり (屋根より高いこいのぼり)

2024-05-05 07:08:18 | 童謡・唱歌
タンポポ児童合唱団


やねよりたかい こいのぼり
おおきいまごいは おとうさん
ちいさいひごいは こどもたち
おもしろそうにおよいでる





歌詞を読みかえしていただけばわかると思うんですけど、歌詞の中で、お父さんや子ども達は出てくるのに、お母さんが、なぜか出てきませんよね。

理由は、実は、次の2つのとおりなのだそうです。
  • 男の子の祝い事だから
  • 当時の時代背景
そもそも端午の節句は、江戸時代から、武家の風習、節句として、はじまりました。

こいのぼりの鯉は、「登り龍」です。「鯉が滝をのぼって、天へと飛翔すれば、龍へと变化する」といわれている「昇竜」のたとえです。

武者人形や兜を飾ったり、菖蒲(勝負)湯につかったりするのも「強くたくましく育って欲しい」という男の子への、親の願いや願掛けの意味が、あります。

こいのぼりが飾られるようになった時代背景を、少し追っていきましょうか。

こいのぼりを設置をするようになった初期の時代は、実は「男の子」を意味する、黒色の真鯉の1匹のみを飾っていました。

そして明治に入ってから初めて、黒色の真鯉と赤色の緋鯉という、2匹の対の鯉になったんです。

でも、家長制度が常識の世の中だったからか「お父さんの真鯉と長男の緋鯉」という、男性同士で親子の鯉という意味だったんだそうです。

さらに、昭和の時代になって、家族が大事にされる世の中になり、そこではじめて、お父さんは真鯉、お母さんは緋鯉、こども達は小鯉となったんだとか。

ですので、1番歌詞にお母さんが登場しないのは、故・近藤宮子さんが作詞した当時(昭和6年24歳)の時代背景が、かなり影響していると思われます。

まだその当時は、緋鯉がお母さんだというのが、世の中では、一般的ではなかったんですね。

ただ、おかあさんが出る歌詞もあり、教科書「しょうがくせいのおんがく1」(音楽之友社/昭和57年発行)で、2番の歌詞として、載せられています。

みどりのかぜにさそわれて
ひらひらはためく
ふきながし
くるくるまわる
かざぐるま
おもしろそうにおよいでる

ひょっとして、幻の3番の歌詞はないのかと思い探してみますと、ありましたので紹介いたします。

5がつのかぜにこいのぼり
めだまをちかちか
ひからせて
おびれをくるくる
おどらせて
やさしいそらをおよいでる










































































































































































  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

牧場の朝

2024-05-04 03:56:54 | 童謡・唱歌
DA・CAPO


ただ一面に立ちこめた
牧場の朝の霧の海
ポプラ並木のうっすりと
黒い底から勇ましく
鐘が鳴る鳴る かんかんと
もう起き出した小舎小舎(こやごや)の
あたりに高い人の声
霧に包まれ あちこちに
動く羊の幾群(いくむれ)の
鈴が鳴る鳴る りんりんと
今さし昇る日の影に
夢からさめた森や山
あかい光に染められた
遠い野末に牧童の
笛が鳴る鳴る ぴいぴいと





「鐘が鳴る鳴る かんかんと」のフレーズが印象的な文部省唱歌「牧場の朝」(まきばのあさ)。

 モデルは、福島県須賀川市にある日本最初の国営牧場「岩瀬牧場」です。

「岩瀬牧場」は、明治天皇による1876年(明治9年)の第一回東北巡行がきっかけとなって整備が進められました。

まだ未開の地が広がっていた福島県の原野を御覧になられた明治天皇は、側近の者にこの地の開墾についてお述べになられ、後に伊藤博文内閣により宮内省直営の

開墾地所として開拓がスタートしたのです。

1907年(明治40年)には、オランダ王国レーワルデンの酪農家からホルスタイン種牛13頭を輸入、その際、日蘭友好の記念として岩瀬牧場に鐘(かね)が

贈られました。

「牧場の朝」の歌詞で「鐘が鳴る鳴る かんかんと」というフレーズがありますが、これはこの時にオランダから岩瀬牧場へ贈られた「友好の鐘」が

鳴り響く音だとされています。

 作曲は、東京音楽学校の教授・バリトン歌手の船橋栄吉(ふなはし えいきち/1889-1932)、作詞は、朝日新聞社の記者で「アサヒグラフ」創刊に携わった

杉村楚人冠(すぎむら・そじんかん/1872-1945)。





























































































































  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

背くらべ

2024-05-01 04:07:49 | 童謡・唱歌
DA  CAPO


柱のきずは おととしの
五月五日の 背くらべ
粽(ちまき)たべたべ 兄さんが
計ってくれた 背のたけ
きのうくらべりゃ 何(なん)のこと
やっと羽織の 紐(ひも)のたけ

柱に凭(もた)れりゃ すぐ見える
遠いお山も 背くらべ
雲の上まで 顔だして
てんでに背伸(せのび) していても
雪の帽子を ぬいでさえ
 一はやっぱり 富士の山





この歌は、詞が先に大正8年(1919)、雑誌「少女号」に発表され、楽譜は、同12年(1923)5月、童謡集「子供達の歌 第三集」(白眉出版社刊)に、

詞とともに掲載されていました。

作詞した海野厚(本名=厚一)は、明治29年(1896)、静岡県豊田村曲金(現在の静岡市駿河区)の旧家に生まれ、旧制静岡中学から早稲田大学に進みました。

そして、童話雑誌『赤い鳥』に投稿した童謡が北原白秋に評価されたことから、童謡作家の道を歩み始めるわけですが、大正14年(1925年)、28歳10か月の若さ

亡くなってしまいます。

ところで、この歌ではよく話題になることが2つあります。

まず、背くらべは普通毎年行うのに、去年ではなくて、おととしのきずと比べているのはなぜか、ということです。

もう1つは、「やっと羽織のひものたけ」の意味、これは、ひもの長さしか伸びていなかったとする解釈と兄さんのひもの位置までしか伸びていなかったという

解釈の2説があります。

このなぞを解くには、この歌詞がどういう状況で作られたかを知る必要があります。

厚は7人きょうだいの長兄で、末弟の春樹とは17歳の年齢差がありました。

弟の1人、欣也は後年、あるインタビューに答えて「あの歌はわれわれ兄弟姉妹のことを歌った生活記録だった」と語っています。

ですから、この歌詞はきょうだいの交流から生まれたものと見てさしつかえないでしょう。

また、歌詞は厚が東京遊学中の23歳のときに作られました。

最初のなぞについては、「去年の」では音数が合わないため、あえて「おととしの」にしたという説もありますが、厚が何らかの事情で2年間帰郷できなかったから

とする説が有力です。

1年おいて帰郷して弟の背を測ったから、おととしのきずと比べることになった、というわけです。

2年間帰郷できなかったのは、病気療養中だったという説と作詞活動に没頭していたためとする説がありますが、正確なところはわかりません。

2については前者、すなわち「ひもの長さしか伸びていなかった」とする解釈が圧倒的多数です。

童謡・唱歌の解説書やネット上の情報でも、ほとんどがそう説明されています。

確かに、平成17年度の男児の平均身長表を見ると、6~9歳児は1年平均5.5センチずつ伸びています。

大正時代ですから、伸び率はもう少し低かったとしても、2年で10センチ見当は伸びていたはずで、これは子ども用羽織のひもの長さとほぼ一致します。

おととしのきずと比べると、ぼくの羽織のひもの長さほどしか伸びていないんだ、とちょっとがっかりしているわけですね。

しかし、もう1つの説も、それほど説得力がないわけではありません。

詩を作ったのが厚23歳のとき。背くらべがこの年だったとすると、末弟の春樹は6歳で、身長はおそらく110センチ前後。

この高さはちょうど成年男子の羽織のひもの位置に当たります。

つまり、「ずいぶん伸びたと思ったのに、やっと兄さんの羽織のひもの位置に届いただけだった」と解釈できるわけです。

通説には、ついつい、刃向かいたくなるマスターとしてはこの説のほうが納得できます。(笑)


































































  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

朝はどこから

2024-03-29 05:06:21 | 童謡・唱歌
DA  CAPO


 
朝はどこから 来るかしら 
あの空越えて 雲越えて 
光の国から 来るかしら 
いえいえ そうではありません 
それは希望の家庭から
朝が来る来る 朝が来る 
「お早よう」 「お早よう」   

昼はどこから 来るかしら 
あの山越えて 野を越えて 
ねんねの里から 来るかしら 
いえいえ そうではありません 
それは働く 家庭から 
昼が来る来る 昼が来る 
「今日は」 「今日は」   

夜はどこから 来るかしら 
あの星越えて 月越えて 
おとぎの国から 来るかしら 
いえいえ そうではありません 
それは楽しい 家庭から 
夜が来る来る 夜が来る 
「今晩は」 「今晩は」





朝日新聞社主催のホームソング懸賞公募の当選作品で、昭和21年(1946)5月にNHKラジオ歌謡として放送され、すぐにレコード化された曲です。

歌詞は、ナントカ団体のキャンペーンソングのようですが、その説教臭ささを感じさせない闊達なメロディーになってます。

歌詞にある「家庭」を「国」に置き換えれば、今に相応しいかも。(笑)












































































  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

青葉の笛 森繁久彌

2024-03-11 10:26:59 | 童謡・唱歌
森繁久彌


小鳩くるみ


一の谷の軍(いくさ)破れ
討たれし平家の公達(きんだち)あわれ
暁寒き須磨(すま)の嵐に
聞こえしはこれか 青葉の笛

更くる夜半に門(かど)を敲(たた)き
わが師に託せし言(こと)の葉あわれ
今わの際(きわ)まで持ちし箙(えびら)に
残れるは「花や今宵」の歌







明治39年(1906)発表された、この曲「青葉の笛」・・・

『平家物語』のうち、一ノ谷の戦いを歌にしたもので、「敦盛(あつもり)と忠度(ただのり)」という副題がついています。

1番は無官大夫平敦盛、2番は薩摩守平忠度が主人公。

一ノ谷で、源氏の武将・熊谷次郎直実は、海に逃れようとしていた若武者を呼び返し、組み敷きました。

顔を見ると、自分の息子と同年配の少年だったので、見逃そうとしましたが、味方が近づいてきたので、やむなく首をはねてしまいます。

それが平敦盛でした。
 
あとになって、熊谷直実はこのできごとに世の無常を感じて出家したと伝えられています。

ただし、出家の原因は、母方の叔父との領地争いに敗れたことだったというのが史実のようですね。

2番に出てくる「わが師」は『千載和歌集』の選者・藤原俊成(しゅんぜい)、俊成は藤原定家の父です。

忠度は平家都落ちの途中で京都に引き返し、深夜ひそかに俊成を訪ね、自作の何首かを託しました。

そのうちの1首「さゝ波や志賀の都はあれにしを昔なからの山さくらかな」が『千載和歌集』に「詠み人知らず」で載っています。

俊成が「詠み人知らず」にしたのは、平家が朝敵(ちょうてき)のため、本名では載せられなかったことによるとか。

平忠度が箙(矢入れ)につけていた「花や今宵」の歌は、「行き暮れて木の下蔭を宿とせば花や今宵の主(あるじ)ならまし」。

かつては質朴な武士集団だった平氏は、権力を握ると公家化しました。

それとともに忠度や敦盛のような文化人・教養人が何人も出ましたが、武家としては軟弱化したわけです。

その結果、地方で質実剛健な生活を続けていた源氏に敗れることになったのでしょうね。

































































































































  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ペチカ(冬の童謡)

2023-11-08 00:14:09 | 童謡・唱歌
池田みゆき


雪の降る夜は 楽しいペチカ
ペチカ燃えろよ お話しましょ
昔 昔よ 燃えろよペチカ
雪の降る夜は 楽しいペチカ
ペチカ燃えろよ 表は寒い
くりやくりやと 呼びますペチカ
雪の降る夜は 楽しいペチカ
ペチカ燃えろよ じき春来ます
今にやなぎも もえましょペチカ
雪の降る夜は 楽しいペチカ
ペチカ燃えろよ だれだか来ます
お客さまでしょ うれしいペチカ
雪の降る夜は 楽しいペチカ
ペチカ燃えろよ お話しましょ
火の粉ぱちぱち はねろよペチカ




「ペチカ」は、北原白秋作詞・山田耕筰作曲の唱歌(童謡)です。

音楽教科書にも掲載されていることがある有名な曲。

原曲は変ホ長調ですが、現代ではニ長調に下げられて歌うこともあるそうです。

ペチカとはロシアの暖炉兼オーブンのこと。

ただし歌の舞台は大正期の満州、南満州鉄道が設立され、満州への移民が増えていた時代に、土地に合った歌が求められるようになり、

南満州教育会からの依頼を受けた白秋・耕筰の二人が実際に満州に赴いて制作しました。

歌詞の「くりやくりや」とは、満州の名物であった焼き栗売りの声のこと。






































































































  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする