Y女史から寒中見舞いのはがきが届いた。
「わたしのせかいはわたしの思いでできている
あなたのせかいはあなたの思いでできている
せかいはひとの数だけ、生き物の数だけ別々にある
すれ違って重なりあって、不意に離れてまた出会う
私の思いから遠い世界には気づくこともできなくて、
その世界は私にとってない
ああ、そんなふうにひとや生き物がいるんだなあ
仏教では、世界と法界の間に八万四千の法門があるという
世界が八万四千あるからだろうか
生が八万四千あるからだろうか」
こんな切れのいいことばをもらうと、こちらもなんだかもぞもぞして言葉が湧いてきた。
この「世界」に入ることで、わたしは人になる。この「わたし」というものも「世界」も同じものかもしれない。だって、「私」も「世界」もなんだかすでにいっぱいのことを知っているようでいて、じつはほとんど私の「世界」私の「わたし」で。じゃほんとうのとつい正解を探したくなる。けれど、いつだってこの「ほんとう」もなくて、だけどそうやって動いているこのナマのこれは、「世界」や「わたし」や「ほんとう」をさしおいてわたしをやっているからなぁ。そんなことをおもうと、なんと不思議な妙なるところにいるのだろうとおもうた。
「わたしのせかいはわたしの思いでできている
あなたのせかいはあなたの思いでできている
せかいはひとの数だけ、生き物の数だけ別々にある
すれ違って重なりあって、不意に離れてまた出会う
私の思いから遠い世界には気づくこともできなくて、
その世界は私にとってない
ああ、そんなふうにひとや生き物がいるんだなあ
仏教では、世界と法界の間に八万四千の法門があるという
世界が八万四千あるからだろうか
生が八万四千あるからだろうか」
こんな切れのいいことばをもらうと、こちらもなんだかもぞもぞして言葉が湧いてきた。
この「世界」に入ることで、わたしは人になる。この「わたし」というものも「世界」も同じものかもしれない。だって、「私」も「世界」もなんだかすでにいっぱいのことを知っているようでいて、じつはほとんど私の「世界」私の「わたし」で。じゃほんとうのとつい正解を探したくなる。けれど、いつだってこの「ほんとう」もなくて、だけどそうやって動いているこのナマのこれは、「世界」や「わたし」や「ほんとう」をさしおいてわたしをやっているからなぁ。そんなことをおもうと、なんと不思議な妙なるところにいるのだろうとおもうた。