学ぶということ 2

2013-01-25 21:21:00 | 日記
 ことばというものは、わたしのおもいを他者に伝えるものとしてある。けれど、ことばはわたしのものではなく共有の開かれたものとしてある。それゆえ「わたしは自由である」と言った時、わたしのおもいとすれば、いっさい自由がないものとしてここにおかれてある。そのありようが自由そのものであるとすれば、あなたはあなたの「自由」を囲っているからとうぜん見誤るだろう。ことばは意味を伝えるものである。なれど意味だけでは伝わらない。対面してお互いの顔と顔を突き合わせ、ことばの前後のしぐさなどの表情をくみ取りながら語り合うことができても、わたしの「おもい」をあなたに届けるのは難しい。

 老師のことばをその時は受け止めたつもりでいた。しかし積み重ねられた年月のなかで唐突にそのことばが甦り、新たな意味をそこに見いだすこともある。それは老師のことばは変わらぬものとしてあるが、当の本人が痛みや悩み、弱さを抱え込んできたことが、そのことばにあらたないのちを吹き込むこともある。

 学ぼうとしたいことが、ほんとうはなんなのかよくはわからないでいる。英語や数学などを学びたい人にとって、それらが少しづつ上達したり解るようになるようなことならそんなにもんだいはない。
 そのままいえば、生きることそのものを学びたいのだ。こんなことば大仰にきこえるだろうか。人として生きているということは、誰の上にでもその学びはある。それはもっともっとと得体の知れないところから突き上げるようにうながしているものである。とすれば、わたしという1人の学びに納まることはできない。そんな生きることの学びの赤心片々を学ぶことができるとすれば、それを秘匿したりまたは自慢気に披見するようなものではない。ごく自然に、このわたしのおもいを聞いてほしいと舌足らずなことばで紡いでいくものとしてある。
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