玉葱定植

2012-10-21 21:16:25 | 日記
 8月の末に蒔いた玉葱の苗が、もう立派に育っている。
耕運して畝を作って、などと口で言うのはたやすいが実際
は、なかなか手間がかかるのだ。草が多いから草刈りから

初めて、その刈った草は腐葉土にするべく、移動させてまず
畑を裸地にしてから耕運するのだ。玉葱の収穫は来年の7月
になる。ここで作る作物の中ではもっとも長く畑を占領する

ものでもある。畝はなるべく高く作ることにしている。苗で
いる来春までのあいだ霜や雪、そして春先の雪解けの時に
排水や水はけが悪いと成長が見込めない。それと玉葱は窒素

肥料を多く必要とする。化学肥料ならばパラパラとふるだけ
なのだが、米ぬか主体のボカシ肥料だと相当の量を入れるこ
とになる。ボカシに含まれている窒素分などは少ないからだ。

それらボカシを畝の真ん中に埋め込んでそれから、苗を植え
ていく。苗は存外上出来で、ろくに世話もしなかったのだが
結構いい姿で600本以上はあろうか。今日のところは

半分ぐらいしか植えられなかった。

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田んぼのお礼

2012-10-20 21:37:50 | 日記
 田んぼ35枚やっている。その全部の田が村の人たちの田である。
ここに移り住んだ頃は、300坪一反の田を借りるのに2万円だった
ここでは、農薬はもちろんのこと化学肥料も一切使わないから、地力

のない田は収量が2俵(120キロ、普通栽培では6から8俵)だっ
たからその2万円はずいぶん大きかった。その地代払うことは
14、5年ぐらいまでは続いたか。しかしそれ以後、皆一様にそんな

地代なんてとんでもない、ともあれ田を作ってくれているだけで有り
難いがやはね。と言われる。田を作っても赤字になってきたからおの
ずとそうなってきたのだ。それに表通りはまだ田んぼをやっているが

裏の谷地の方にいくと、もう原野に帰っている田がずいぶんである。
だから、村のジィやバァはともあれ田を荒かすとご先祖に申し訳ない
といわれる。それで地代は払わなくていいのはこちらとすればずい

ぶん助かる。が借りていて放ったらかし、ご挨拶もないというのは
やはり気になるところ。1丁借りている方も1反借りている方も皆
一様に30キロ一袋を持ってごあいさつに。どのお方もそんなおりゃ

貰おうなんてちっともおもっとらんがいね。なーもほんのきもちだけ
やわいね、などというと、ほんなんけあんたかえってきのどくなぁ、
すんません、ありがとうございます。とどこまでもていねいながです。

まことに愛しいくらい、こちらの胸があつくなるのである。
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材木

2012-10-19 21:00:31 | 日記
 先月、山持ちである在所のNさん宅へ出向いて山の杉で間伐する
ようなものはないですか。とお伺いに行った。車庫を建てる材料を
確保しようと思ったのだ。あいにく手頃なものはないと断られた。

 それが、先日納屋を整理したい、そこに昔山で採った松の製材し
たものがあるけれど、もう自分のところでは使わないしそれを持っ
て行かないかと。大きいものでは3軒ものの桁材が4本、あとは

2軒もの桁材、が5本。5寸の角材などが30本などもあろうか、
2トントラックで3回往復して寺まで運び込んだ。
 イヤハヤ久しぶりに気合いを入れてやったものの、御蔭で腰や
腕などがパンパンにはっているな。
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炬燵

2012-10-17 20:05:30 | 日記
 今日は久しぶりに部屋にこもっている。明日は哲学の勉強会なの
でそれの予習である。前にも書いたかもしれないが、そもそも哲学
をしなくてはと思ったのは私たちのふだん使っている言葉、概念語

の多くが、明治以後西洋からはいってきた言葉の翻訳語であると
思ったからである。愛、自由、歴史、進歩はキリスト教の専売だっ
たし個、普遍、平等、主観的、客観的などなどじつに多いのだが、

その意味はほとんどなんとなくのイメージだけで使われていて、
あらためて学ぶとそうかと、我が勉強不足を嘆くことしきりなの
である。
 
 たとえば、個についてキリスト教では神の前で1人で立つこと
を意味する、」そこにはじめて自由がうまれるという。一方、
アリストテレスはひとりの人間、一匹の犬、つまり人間、犬と

いう普遍的本質にかかわっている個物、代理可能なもの、絶対の
個ではない。この個や普遍がやがて科学を育てていく。
 
川原栄峰さんの「哲学入門以前」からである。この本、昭和
42年に出版されているけれど、いまだに版を重ねている大切な
ものである。ぼく自身もじつに30年ぶりに読み返している。

 ここ10年ほど哲学書をかじって来て、入門書を開いている。
入門書というのはじつはとても有り難いものである。おおよそ
大枠でつかみ取らないと、つまり鳥瞰図を自身の中に持って

いないと特定の個人の論理だけにほんろうされて、ぜんたいの
流れ西洋人の思惟方法がわからないからである。
 彼らの思惟方法が少し見えてくると、東洋の、日本人の思惟方法

が逆に照射されてなにか構造的にさえ見えるような気になる。
その意味では木田元さんの「反哲学入門」もたいそう
おもしろかった。

 そんなことどもをいよいよ炬燵にはまりこんでやっている。
やっぱ炬燵がいいの、季節なんである。
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天井裏

2012-10-15 21:46:45 | 日記
 天井裏に一年ほど前から、運動会をするものがおり以前はネズミ
だったのだ。それもスーニーという狩りの上手な親猫がいたときは
まったくいなかったのだ。それがそのスーニーが死んでからあばれ

だし、けれど今はそんなネズミの足音ぐらいではない。正体はまだ
掴めてはいないのだが、おそらくテンだろうとおもっている。
で、かねてより連れ合いからも天井裏を調べてと言われていたのだ。

 天上の側面の壁にあたる板を一枚まくって、投光器で見てみた。
あるのは古いネズミの糞と、巣にでもしようと思って集めた紙や
ビニールのゴミがちょっとあるばかりで、なんの手がかりになるよう

なものはなくそれで、正体を確かめようと板はめくったままで、
脚立や投光器はすぐ側においてあり、こんどやってきたら見つけて
やるねん。

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